大野直樹とユリア・リーネルト
「ユリア様!? どうなさったのですそのお衣装……」
戻ってきた主の姿に、エルマが目を白黒させる。
ここは王族が起居するエリアのほど近くに設けられた、姫君達の住まう一角。弱小貴族の娘であるユリアの部屋は、王族達の場所から一番遠くにあった。
「ああ、これ?」
ユリアのドレスは、ぶっかけられたワインで赤く染まっている。
「もしかしてどこかお怪我を……」
「心配ない、返り血だ……じゃなくて、ワインだ」
「ユリア様が行かれたのは舞踏会だったと記憶しておりますが……いつの間に、ワインぶっかけ祭りになったんです?」
「大体予想はつくだろ。主催者はシャルロッテ姫だ」
天蓋付きのベッドに腰掛けつつ、ため息まじりにそう言った直樹に、エルマは、ああそういうことか、と頷く。
「ともかく、今すぐ染み抜きをすればまだ着れるだろうから頼む」
言いながら、ドレスに手をかける。
やっとコルセットから解放される。
と、直樹の手が止まった。
何だこの紐。どこがどう繋がってるんだ?
「……どうやって脱ぐんだこれ」
エルマは、私がやりますから、と言って主を立たせた。
ドレスを脱がせてもらい、コルセットも外してもらう。髪も解いてもらった。最後に化粧を落としてもらえば、何もかもから解放された気がした。
「あー、生き返る」
直樹はそう言って、肩をぐるぐる回した。
本当に、今日は大変な一日だった。
しかも起きたのは朝の4時前。そして今は夜の10時頃だろうか。いい加減目が限界である。
本当は、一日の終わりにビールをぐいっといきたいところだが、エルマが言わせねえよ? とばかりに見つめてくるので、我慢しよう。
ぼふっとベッドに飛び込んだそのとき。
扉が開いた。
またかよもう寝かせてくれよ、とうんざりしながら、直樹はのろのろと身を起こす。
入ってきたのは血の繋がらない兄、マティアスだった。
「ユリア、舞踏会を中座したと聞いて来たんだけど、もしかして体調でも……」
直樹の姿を見た途端、マティアスの声がぴたりと止む。
そして、焦った様子で、彼は妹から目をそらした。
「す、すまない!」
「へ?」
改めて、今の自分の格好を確認する。
解いた髪に、ドレスを脱ぎ捨てたままの格好。
有り体にいえば、すっぴんに下着姿である。
今着ているキャミソールもペチコートも割と布面積が広いので特に気にしていなかったが、言われてみれば確かに異性に見られていい姿ではないかもしれない。
エルマが慌ててガウンを持って来たので、大人しくそれを羽織る。
……重いんだよどれもこれも。寝間着を絹で作るな。ポリエステルにしろ。
「途中で席を立ってしまったことは心配しないでください、マティアス様。少しドレスを汚してしまっただけですので」
そう言うと、マティアスもおおよそのところは察したようである。
「ごめん。辛い思いをさせたね。
恥ずかしながら当家は弱小貴族で、君の盾にはなってやれない。
本当に、申し訳なく思う……」
「それでも、宮仕えをやめていいよとは仰らないんですね」
何気なく言った直樹の言葉に、マティアスはより一層申し訳無さげに眉を下げた。
直樹は笑った。
「ごめんなさい、困らせてしまいましたね。
でもいいんです、私は大丈夫です。
マティアス様には、倒れていたところを助けていただいたのですから、そのご恩はきっちりお返ししますよ」
言いながら、直樹はちらりとエルマに目配せした。
どうよ今の俺。ヒロインっぽくない?
エルマも、直樹にそっとサムズアップを返す。ばっちりですユリア様。
ひとしきり、ごめんね、いやいやいいんです、というやりとりを繰り広げた後、マティアスは思い出したように、あるものを直樹に差し出した。
「これは……」
思わず、直樹が目を見張る。
「倒れてた君が持っていたものだ。大事なものなんじゃないかと思って。
ごめんね、返すのが遅くなって」
差し出されたものを手に取った。
茶色の、シンプルな革の定期入れ。二つ折りになったそれを開くと、見慣れた緑色のカードが目に入る。
通勤6箇月、10月1日から3月31日まで。オオノ ナオキ様。
カードの右下では、ペンギンが笑っている。
「これは……」
手が震えた。どうして、これがここに。
自分の肉体は世界を越えられなかったのに、どうしてこいつは易々と異世界トリップしてるんだ。
「何ですこれ? 古代文字か何かですか?」
空気を読まずに、エルマが言う。
「え? ああうん、まあそんな感じ。お守り的な。
マティアス様、ありがとうございました」
直樹はマティアスに深々と頭を下げた。
マティアスが部屋を去り、エルマも退がらせ、一人になった直樹は、定期入れのカードをそっと抜く。
定期券の下には、一枚の写真があった。
涼しげな滝を背景に快活に笑う少女と、その横でややぎこちない笑みを浮かべる男性。
もう3年ほど前になるだろうか。
これは、娘がまだ中学生だった頃に一緒に行った軽井沢で撮った写真である。
直樹は腰掛けていたベッドから立ち上がり、鏡台へ向かった。
写真に写る男性の顔と、鏡に映る今の自分を見比べる。
奥二重の、特に可もなく不可もない顔立ちの男性と、大きな碧い目に小さな唇という、可憐という言葉がしっくり当てはまるユリア姫。
笑えるくらい、共通点がない。
最初は奇妙な夢を見ているのだと思ったが、この夢は一向に覚めない。もはや、夢だと思うには無理がある。
直樹は白く細い指先で、写真の人物達をなぞった。
これは、大切に持っておこう。
自分の顔を忘れないために。
そして、この世で一番愛する娘にいつでも会えるように。




