第97章
昼間の光の中で見ると、ヨットの中で感じた小妖精じみたところはない。ごく普通の、かわいい少女といったところだ。
もっとも、全体の印象はちょっと謎めいていて、やはりただの少女ではないことが判る。
よく動く瞳と、その割には落ち着いた物腰が、なんとなく違和感を表していて、それがまた不安定な魅力ともなっているのだ。
洋一がアンの向かい側に座ると、アンは足下のクーラーボックスから冷えたコークの瓶を出した。
「はい、ヨーイチ様の分です」
「ありがとう」
栓抜きしてから渡してくれたコークの瓶は、よく冷えていた。なんとも手際が良いというか、用意が良すぎて不気味なほどだ。
どうもミナとアン主従は苦手だ。
洋一があいまいな気持ちのままコークを飲んでいると、いきなりアンが言った。
「ミナ様は、まだお目覚めになられませんか」
「……ああ。よく寝ていた」
「そうですか」
アンは、ほっとしたようだった。少なくとも、洋一にも判るくらいの感情の動きを見せた。これは、ひょっとしたら大したことかもしれない。
「それにしても、よくここが判ったね。俺たちと一緒に来たわけじゃないだろ?」
「まあ、それは乙女の秘密ということにしておいて下さい」
あいかわらず、ガードが堅い。
「ところで、何か用か? ミナは寝てるし、俺も動きようがないんで、ここで休もうと思っていたんだけど」
「はい」
アンは、短く言って洋一の顔を見ているばかりである。洋一が待っていると、アンはとうとうため息をついた。
「判りました。ヨーイチさまには、お話しした方がいいと思います。実は……危機が迫っています」
アンがあまりあっさり言ったので、洋一はしばらく何のことか判らなかった。それから、驚愕して叫ぶ。
「危機って……衝突か?」
「はい。まだ、主力同士はぶつかってないみたいですが、それぞれの別働隊が交戦したようです」
「大変じゃないか!」
「はい」
アンは冷静だった。
「それで、どうすればいいんだ?」
「それは、ヨーイチ様とミナ様が決めることです。私は、お手伝いするだけです」
洋一は、脱力して椅子に崩れ落ちた。
どうなっているんだ、この娘は?
アンは、洋一を興味深そうに見ているだけで、何も言わない。その様子には、いささかの動揺も見られなかった。
フライマン共和国に来てからこれまでに、随分色々な美少女を見てきたつもりだったが、このアンは極めつけだ。
「……まあいい。俺とミナが決めればいいんだな? これからの行動は」
「はい」
「ミナと俺の意見が違ったらどうする?」
「それは……私は、ミナ様に従います」
アンは、一瞬だが動揺したようだった。この質問は、アンがやっている何かのゲームのルールブックにはなかったらしい。
洋一は探るようにアンを見つめていたが、アンはそれ以上の感情の動きを見せなかった。
「よし判った。それじゃあ、すぐにカハ族とカハノク族が衝突しそうになっているところに行きたい。足の手配は出来るか?」
洋一としては、ふっかけたつもりだった。アンにそんなことが出来るとは思えない。
だが、アンは少し考えたものの、平然と頷いた。
「判りました。ミナ様が回復されしだい、出発できるように用意します」
アンは立ち上がると、あっけにとられている洋一を残して歩き出した。途中で振り向く。
「そのクーラーボックスには、アイスクリームが入っています。ミナ様の好物ですので、回復なさったら差し上げて下さい」
アンはそれだけ言うと、ニコリと洋一に笑いかけてから、足早に立ち去ってしまった。
なんともあっけない、しかも鮮やかな退場である。洋一なんかとは、役者の格が違う。アンもまた、ラライスリ神殿では結構有力な女優なのかもしれない。
洋一はため息をついて、足下に残されたクーラーボックスを開けてみた。
ミナの好物だというアイスクリームの他に、おそらくは洋一用と思われるコークやミネラルウォーターが詰め込まれている。少し持ち上げてみると、結構重い。アンが一人で持ってくるのには、少々手に余るのではないかと思われる。
つまりは、そういうことだ。アンには支援部隊がついているのだ。だからこそ、足を手配しろなどという要求にもすぐに応じられるのだろう。
気づくべきだった。ここはフライマン共和国、しかもココ島本島ではなく周辺の群島だ。第3勢力とやらのホームグラウンドではないか。
カハ族やカハノク族は、主にココ島に勢力を張っているのだろう。集団意識というものは、大勢同じ立場の者が集まっているところに発生するものだ。
逆に、群島の人口がまばらな部分では、そういう帰属意識が育ちにくいだろう。島ごとの求心力は働いても、カハが好きか嫌いかといったはっきりしない理由では対立しにくいはずだ。
そのとき、洋一の意識を何かがかすめた。何か、聞いたのに忘れていることがある。というより、材料は揃っているのだが、まだその結びつきが判らないために、はっきりとした考えにならないことがある。
もどかしいが、なかなか形にならないその思考は、やがてふっと消えてしまった。
洋一は、頭をふって立ち上がった。判ることなら、またいずれ思いつくだろうし、判らないのならそれまでのことだ。
クーラーボックスを担ぎ上げる。肩掛けベルトがついていたが、それでも持ち上げるのには結構力がいる。これは絶対にアンが一人で持ってきたものではない。
それでも、成人した男が持ち運ぶのに苦労するほどではない。これを持って島を一周しろと言われたら顎を出すだろうが。
病院に入ると、あいかわらず人気がなかった。いくら洋一がぼんやりでも、さすがに気がついている。
どうも、避けられているというか敬遠されているらしい。しかも感触から言って、密かに監視されている気配が濃厚である。
この島ごと、グルなのだろうか。それもあり得る。もはや、絶対にないとは何事も言い切れなくなってしまった。
クーラーボックスを置いて、病室に入ると、案の定ミナは起きあがっていた。
まだベッドで上半身を起こしただけだが、ワンピースは身につけている。洋一が帰ってくるのを待っていたらしい。
洋一を見ると、うつむいてしまう。洋一は、入り口で立ったまま言った。
「アンが来ていた。船を手配してくれるそうだ」
「……そう」
どこかぼんやりした口調で、ミナが言った。
「カハ族とカハノク族が、いよいよヤバいらしい。ミナの用意ができ次第、出発する」
「はい」
洋一が突き放すように言うと、ミナは素直に頷いた。それから、フラフラと立ち上がる。
洋一の前で一瞬よろけたが、洋一が手を出す前にミナは姿勢を立て直した。