第93章
そんな洋一の思惑も知らぬげに、ミナはしばらく漂光と遊んでいたが、やがててきぱきと働きだした。
ファラーナ3世のロープをクルーザーにつなぎ、曳航の用意をすると、クルーザーに戻ってエンジンを始動する。
いかにも手慣れた、メリッサ並の手際の良さで、またしても洋一の劣等感を刺激してくれた。
この様子なら、帆走もらくらく出来るのだろう。ファラーナ3世に燃料がなくてもミナと一緒なら心配することはないのだ。
いや、ミナやメリッサなら、そもそも燃料が尽きるまでヨットを走らせるなどという馬鹿なことはしない。
そのあげく、勝手に遭難して人に迷惑をかけて、逃げ出した当の相手に救助されるなど、どうにもならない醜態である。
これでは、あの第3勢力のリーダーにも従わなければならないかもしれない、と覚悟しかけた洋一だったが、ミナはきっぱりと言い切った。
「もう、いいんです。私たちの動機が不純でした。タカルルなら、そんなことを許すわけがないのは当然ですものね。だから、父のところには戻りません」
「いいのか? ミナは、結構重要な立場にいるんじゃ」
「それはそうですが……タカルルのお立場の方が大切です」
ミナは、さすがに厳しい顔だった。
確かにあのときの話では、カハ族とカハノク族の急進派同士の激突が迫っていて、それを第3勢力が何とかしようとしている、ということだったはずだ。
ミナは巫女で、それが第3勢力でどういう立場なのかは判らない。しかし、洋一の世話をまかされるくらいだから、かなり重要な地位にあったはずだ。それが、勝手に行動していいものだろうか。
「いいんです」
ミナは繰り返した。
「それよりタカルルの意志です。ヨーイチ様は、どうなさりたいのですか?」
「俺の?」
とまどいながらも、洋一は気がついていた。
ミナは、根本的なところでは決して変わっていない。確かに熱にうかされたように洋一を「様」よばわりしたり、第3勢力から離れてまでタカルルに帰依したように見えるが、そんな中でもはっきりと洋一とタカルルを区別しているし、ミナ自身の意志を捨てたわけでもない。
漂光を集めてみせる洋一を、とりあえずは認めているのだろう。つまり、ミナはタカルルと、タカルルの意志を実行しようとしているはずの洋一に従おうとしているのだ。
洋一は、感心してミナを見つめた。やはり、第3勢力のプリンセスは、洋一なんかが手軽に扱える相手ではなかった。
「そうだな。とりあえず、そのララガ島だったっけ? そこに向かおう。燃料の補給もしたいし」
「わかりました」
ミナは頷いて、立ち上がった。その動作にはまったく迷いがない。性格がどんなに変化しても、行動力に変わりはないようだ。
「ヨーイチ様は、クルーザーの船室に入って下さい。ヨットを引っ張ると揺れますから」
「いいけど……その、様というのはやめてくれないか」
「でも」
「せめて、さんづけにはならないのか?」
「ヨーイチさま……さんがそうおっしゃる……言うのでしたら」
「頼むよ。それから、おっしゃるとかもやめてくれ」
ミナは、小さく頷いて、微笑した。口唇の間から小さく舌がのぞいている。やっとミナらしさが少し戻ってきたようだ。
いつの間にか、漂光は見えなくなっていた。まるで役目を果たし終えてどこかに帰って行ったようだった。
この幕間も、誰かのストーリー通りなのかもしれない。
洋一がクルーザーの船室に入ると、しばらくしてエンジンの音が高まった。続いて、加速感。クルーザーだけあって、ファラーナ3世とは段違いの強力なエンジンを積んでいるのだろう。小さな窓から見える海が、たちまち波立ち始める。
洋一は、ふと気がついて空を見た。星が少なくなり、青さが増している。夜が明けかかっているのだ。
また徹夜してしまった。
そう思った途端、現金にも眠気が押し寄せてくる。今夜は、結構色々あった上に夜間水泳したりして疲れているのだ。
ファラーナ3世では小さいながらも船室に寝だながあったが、このクルーザーはベッド兼用らしい長いソファがあるきりである。
洋一は、生乾きの服を脱ぎ捨ててブリーフだけになると、クルーザーのソファに横になって毛布を被った。ベッドだったら躊躇したかもしれないが、こっちは気が楽だった。横になったかと思うと眠りに落ちていた。
次に気がつくと、案の定尿意ではちきれんばかりである。
クルーザーは停泊しているらしい。エンジン音もしないし、揺れがゆっくりだ。
舷窓からのぞく空は、いつもの通りの真っ青な快晴である。今は乾期らしいが、洋一がフライマン共和国に来てから快晴でなかったことがないのは不思議だった。
脱ぎ散らした服が見あたらない。
ブリーフ1枚では外に出られないので、洋一はそこら辺にあったタオルを腰に巻いてドアを開けた。シャワーをあびたばかりだと誤解されることを願ってのことである。もちろん、ミナのクルーザーにはシャワーなどという贅沢な装備はない。
だが、甲板にミナの姿はなかった。
それどころか、見渡す限り人の姿は見えない。クルーザーとファラーナ3世は、並んで桟橋に繋がれているが、小さな桟橋は2隻だけで満員になりかかっている。
湾の中らしく、周囲をぐるっと海岸に囲まれていて、桟橋の回り以外はずっと砂浜である。振り返ると、ずっと向こうに水平線が見える。
桟橋の向こうには、小さな集落がある。どうやら、無人島というわけではないらしい。ジョオのいたフテ島の桟橋は無人だったが、あれはいわば予備の港だったからだろう。ここは、単に人口が少ないだけのようだ。
服は、クルーザーに張られたロープで翻っていた。ミナが干しておいてくれたのだろう。気がききすぎるというのも困り者である。
Tシャツとジーパンだけだが、わざわざ干すこともない。フライマン共和国では洗濯物は、クルーザーの甲板に広げておいても30分くらいで乾く。
今日も暑くなりそうだった。もっとも洋一は慣れてしまって、この頃はほとんど汗も出ない。日本に帰ったら、ひどいツケを払わされそうだ。
2隻の間で目立たないように小便してから、ファラーナ3世に飛び移って船室に入る。
ミネラルウォーターがまだ残っていたのでラッパ飲みしたが、半ばお湯なのであまりうまくない。それに猛烈に腹が減っている。
インスタント食品があるが、せっかく陸地に着いた以上、やはりここはちゃんとした食堂に入るべきだろう。
洋一はジーパンのポケットのドルを確かめると、桟橋に上がった。ここまでの行程では、ほとんどただ食い、ただ飲みで来たので、日本領事館で貰ったドルは丸々残っている。濡れて乾いたせいでパリパリだが、もちろん使えるはずだ。ミナと二人でフランス料理店でフルコースを頼んでも何とかなる。
遠くに見えている建物の方に向かいながら、洋一は大きく伸びをした。
助かったのだ。昨日までの漂流が嘘のようだった。ミナが見つけてくれなければ、十中八九死んでいたのだと思うと、今更ながら震えがきていた。
フライマン共和国内乱などと言われても、ほとんど実感がわかないのだが、昨日までの漂流は実際に洋一にふりかかった災難だったのだ。身の危険を実感してのは、生まれてはじめてだった。
だからといって、洋一の行動が変わるかというと、そうでもないような気がする。後先なしに動いてしまうだろう性格は変わらないだろう。