第92章
ミナが泣きやんだのは、10分もたってからだった。
それでもまだ鼻をぐずぐず言わせながら、ミナは甲板に出てくると、ミナは改めて洋一の前に跪いた。
「本当に、ごめんなさい。もう、二度とヨーイチ様を騙したりしません。いえ、させません!」
ミナは力んで言うが、洋一はその口調より単語に仰天した。
「ちょっ、ちょっと待てよ。その様っていうのはなんだ?」
「それは、自分より目上の人に対する敬称だから」
「目上のって、別に俺はミナの上役でも何でもないぞ」
「でも……今までの失礼を考えると」
「とにかくやめてくれ! どうしちゃったんだミナ?」
ミナは、涙を拭いてにっこりと笑った。
洋一は改めて衝撃を受けた。めちゃくちゃに可愛い。
ミナについては最初の冷たい美貌の印象が強すぎて、美しさについては心構えが出来ていたのだが、ここでこういうかわいらしさを見せつけられたのは完全な不意打ちである。
メリッサの時もそうだったが、いかに圧倒的な美貌や魅力でも、何度も繰り返して味わっているうちに慣れてくるものである。
美人は3日で飽きるというのは、3日間ずっと見続けていればこそで、いきなり目にしたときの衝撃は重い。
ミナの微笑みも、まさに衝撃だった。
これまで洋一の前に現れたフライマン共和国の美女・美少女たちは、概して知性的美女型が多かった。いわゆる知的な魅力という奴である。
それは洋一の好みでもあるのだが、そのタイプの美人が多いとどうしても慣れという奴が出てくる。
まあ、メリッサを筆頭として、全員が知的美女タイプの中でも個性的な魅力を持っているから、飽きがくるというようなことにはなっていない。
だが、無邪気な魅力という点では、あてはまる者はパットしかいないと言って良く、その意味ではさすがの洋一も慣れていなかったのである。
しかも、ミナの微笑は無邪気でありながら、パットにはない色気が溢れている。表現するとしたら「悩殺」というものだろうか。
もし意識してやっているのだとしたら天才的な演技力だし、無意識だとしたら天性の男殺しである。
洋一は、その微笑一発でこれまでの経緯についてすべて許しかけた。だが、フライマン共和国に来てからの日々で、こういった方面についてはかなり鍛えられている。砕いて言えば、美女の誘惑に対してかなり免疫が出来ていたのである。
加えて、洋一の脳裏にはメリッサの面影が色濃く残っていて、強力なブレーキがかかる。
結果として、洋一は外見的にはそっけなく頷くにとどまる。そして、なぜか洋一のそう態度がミナを喜ばせたようだった。
「どうもしていない……。これが、私。本当の私、かもしれない」
恥じらいの色を浮かべながら言うミナは、どうしてもあの冷徹な美青年とは重ならない。
同じ人間がここまで印象を違えるのかというくらい、すさまじい変化だった。
ミナは、言葉を切ると微笑みながら洋一の命令を待つようにリラックスして立っている。
仕方なく、洋一は言った。
「まあ、それはそれとして、どこか近くの島まで行けるか? ファラーナ3世は燃料切れで動けないんだ」
「大丈夫です。ここからなら、ララガ島が一番近いわ。2時間くらいで行けます」
「良かった。正直な話、どうなることかと思っていたんだ。すぐ出発できるか?」
「ええ……それは出来ますけれど、あれはどうなさるおつもりですか?」
ミナがファラーナ3世を指さす。
ミナの敬語が気になりながらも、洋一がつられて振り返ると、漂光に包まれたヨットの姿があった。
まだ漂光は消えていない。ヨットを宿主にしたかのように、集まってきた漂光がすべてマストや船体にとりついている。
「もちろん、引っ張っていく」
洋一は即断した。
というより、もともとジョオの持ち船だから捨てて帰るわけにはいかないと思っただけなのだが、ミナはそうとらなかったようだ。
うやうやしく頭を下げてから、いきなりてきぱきと行動を開始した。
まず、船室からバスタオルを取り出して洋一に渡す。夜風が濡れた服にしみて、寒くなりかけていた洋一は、ありがたく受け取って船室に入った。
洋一が身体を拭いている間に、ミナはクルーザーのエンジンを始動させて、巧みにファラーナ3世に近寄る。船体を軽く接触させたところで、甲板からミナの小さな叫びが聞こえた。
「どうしたんだ?」
悲鳴らしくは聞こえなかったので、洋一は落ち着いて甲板に出た。
ファラーナ3世の甲板に、ミナが座り込んでいた。
満面に笑みをたたえている。全身に漂光がまとわりついて、光をまとった妖精のようだ。
漂光たちは、楽しげにミナの身体の周囲を回り、明らかに歓迎している。かすかにではあるが、洋一にもその感情は伝わってきていた。
ファラーナ3世に乗り移ると、漂光は洋一にも寄ってきた。相変わらず、愛想がいい。
「信じられない!」
ミナがうっとりして囁いた。
「漂光がこんなに歓迎してくれるなんて。前には近寄らせてもくれなかったのに」
「そうなのか?」
「はい。私は、昔から漂光には嫌われていたんです。何度か機会はあったんですけど、私が寄っていくとすぐに逃げたり消えたりしてしまって」
そう言いながら、ミナの視線は宙をさまよっている。よほどうれしいらしい。
「漂光って、そんなに珍しいのか」
洋一は聞いてみた。カハ祭り船団の食事船でアマンダが話していた程には、珍しい現象だとは思えないのだ。何しろ毎晩のように目撃していて、最近は露骨にまとわりついてくるようになっているほどだ。
「ええ! 毎日海に出ていても、年に一度見ることが出来れば幸運だと言われているんですよ。だから、出会った人はラライスリの好意を得たということで、幸運を期待できるんです」
ミナは、そこで言葉を切って、洋一を潤んだ瞳で見つめた。
「それが、こんなに……やっぱり、ヨーイチ様は本当のタカルルなのですね」
洋一は、反論しようとしてやめた。
自分がタカルルかどうかはともかく、名前に「様」をつけるのはやめてほしかったが、この調子ではいくら言っても聞きそうにないように思える。
しばらくすれば、だんだんもとにもどってゆくだろう、と洋一は希望的に考えた。それまでは、気にしないでいればいい。
実は、洋一は少し怖かったのである。ミナの変わりようは、他人とのやり取りで対応を変えているというよりは、ほとんど人格的に変化しているとしか思えない節がある。
ひょっとしたら、本で読んだことのある多重人格なのではないかと少し疑っていて、これ以上刺激すると次にはどんな人格が出てくるのか怖い。
せっかく、洋一に好意的でなおかつおとなしい人格が出ているのだから、別れるまでこのままそっとしておきたいというのが本音だった。触らぬミナに祟り無しだ。