第90章
それから、洋一は死にもの狂いで色々やってみた。
碇を見よう見まねでロープにつないで放り込んでみたが、この辺りの水深はかなり深いらしく、底についた感触がなかった。
エンジンを調べてみると、燃料がない上にオイルも足りないようで、焼きつきかかっていた。これでは燃料を補給しても、再始動できるかどうかが危うい。
帆は、手を出さなかった。転覆するのがオチなのは判っている。
すべての努力が無駄であることを確認した時には、もう太陽が水平線に沈みかかっていた。
いつもながらの、息を飲むほど美しい日没だったが、今日に限っては真っ赤な夕陽が血を連想させるため、あまりいい気分ではない。
気持ちが沈んでいても、やはり腹は減る。洋一は、ミネラルウォーターと乾パンに缶詰を持ち出した。
メリッサの準備した食料は、まるで洋一の今の状況を予想していたかのようである。一人で食べるのなら、かなり持ちそうだ。その分、苦しむ時間が長くなるのでなければいいのだが。
穏やかな風と波が、着実に洋一を死地に誘っているのを感じながら、洋一は甲板でボソボソと夕食を終えた。
トイレと後始末している間に、昼が夜に変わった。
天はもの凄い星の海で、これは未だに感動する。船室に入る気にもならずに、洋一はそのまま甲板で寝そべった。
つくづく、あの決断が悔やまれる。
丸1日過ぎて、頭を冷やして考えてみると、やはりあの場面ではミナに従うべきだった。ここが日本ではなく、一歩間違えれば死ぬかも知れない未知の土地であることを忘れていたのである。
ああいうカッコいい行動をとるためには、その結果を受け止めるだけの覚悟と、結果をなんとかするだけの実力が必要なのだ。それがないのなら、大人しく操り人形を演るべきだった。
その結果がこれだ。
まさか、こんな子供向けの小説みたいな状況に自分が陥るとは思わなかった。
本当に死んでしまう、ということについては、未だに実感がわかない。多分あと数日して、いよいよ食料や水が不足してきたときに、改めて自分の行動を悔やむことになるのだろうが、現時点ではまだ唖然としているだけである。
それが、ピンチを認識したくない洋一自身の逃避行動であることは判っているのだが。
それにしても、ミナたちの行動はあんまりだった……と、洋一の思考が堂々めぐりを始めたときだった。
視界の隅を横切るものがあった。
そして、それはあっといまう間に視界を占領していった。
洋一が起きあがると、大げさに言えばそこはもう光の海だった。
漂光である。昨日と同じように、大小さまざまな光球が、飛び跳ねるようにヨットの回りを囲んでいる。
こんなに陸地から離れた場所にも、漂光の群は出現するのだ。というより、漂光はあきらかに洋一に引き寄せられているらしい。光の分布はヨットを中心として円形に広がり、離れるほどまばらに見える。
昨日と同じく、大型の漂光が洋一を見守るように甲板の上を漂っている。一抱えもありそうなそれは、ウィンクするように明滅していて、楽しげな感情が伝わってきていた。
日を経るごとに馴れ馴れしい態度になってくる。漂光に態度というものがあればだが。
しかし、目の前にいる漂光は、どうみても感情と思考があるとしか思えない行動をとっているのだ。
これだけ続くと、洋一も慣れてくる。洋一は、漂光が寄ってきやすいように甲板の中央に座り込むと、あぐらを組んだ。
そういう洋一の考えは漂光にも伝わるらしい。10センチくらいの直径の漂光が、いくつも親しげに洋一に寄ってきて、たちまちまとわりついてきた。
洋一の身体中が淡い光に包まれている。
漂光がくっついた場所は、ほんのりと暖かくなる。ただ暖かいだけではなく、くすぐったいような感触と、小動物が身をすり寄せてくるときのような柔らかな圧力をうんと希薄にしたような感覚がある。
明らかに生き物で、感情をもっている。それはもう、洋一の中では確定した事実だった。
喜んでいる。そういう感情が伝わってきて、洋一もなんだかうきうきしてきた。
まとわりついている漂光を驚かさないように、ゆっくりと立ち上がる。
高い位置から見下ろすと、ヨットはライトアップされているかのようだった。
もう、ファラーナ3世の甲板でなら本が読める。甲板の上は、漂光でぎっちり詰まったようになっていて、しかもその全員が押し合いへし合いしながら洋一に寄ってこようとしているのだ。
幸せだった。笑い出したいくらいだった。
今が危険な状況であることなんか、どこかに吹っ飛んでしまっていた。
日本ではどこにでもいる平凡な学生だが、フライマン共和国に来てからは妙にもてているような気がする。それも美女や美少女ばかりで、それについてはへんな猜疑心につきまとわれていていまいち喜べない洋一だったが、この漂光には無条件に降参だった。
何のてらいもなく、純粋な親しみの感情が回り中から押し寄せてくる。言葉には翻訳できない、それは贈り物だった。
これが神なのかもしれない。
唐突に、そう思った。これが、人間たちの世界を越えた神の世界なのかもしれない。
言葉はいらない。
その時間がどのくらい続いただろうか。
急に、漂光たちがざわめき始めた。だが、洋一との逢瀬を邪魔された、という不機嫌なものではない。むしろ、期待をこめて待っていたものがついに到着した、という印象である。
そして、漂光たちが静かに去り始めた。
洋一の左手、ファラーナ3世の右舷方向から、急速に引いてゆくのである。
その分ヨットの上や洋一の周囲は、さらに漂光たちの密度が増している。
やがて暗い海面が現れる。
そこには一隻の船が浮かんでいた。
漂光たちがその回りからいなくなってしまっているため、海の上は暗くてかろうじてその船が見えるくらいである。
そんなに大きな船ではないようだがファラーナ3世よりは大きく、モーターボートというよりはクルーザーである。フロントグラスのある操舵室が見えるから、一応外洋航行が可能な小型のクルーザーらしい。
白い船体が闇の中に浮かび上がっていて、洋一はちょっとゾクリとした。妙に不気味に見えるのは、クルーザーも完全に消灯しているからだ。
小型とはいえクルーザーだけあって、操舵席はフロントガラスに隠されている。従って、洋一の位置からでは誰が乗っているのかは判らない。
漂光が引いてしまっても、クルーザーに動きはなかった。
洋一は我に返った。
あのクルーザーに誰が乗っているのかわからないが、洋一にしてみれば天の助けである。日干しか狂い死にの運命から救い出してくれるものなら、なんだって歓迎だ。
歓声を上げようとして、洋一はあやうく踏みとどまった。
現在の状況の異常さに気がついたのである。
漂光は、ここまできてもいっこうに消えようとしない。
もし洋一に引き寄せられて集まっただけだったら、部外者がこれだけ近づけばたちまち霧散してしまっているはずだ。
だが、現状といえば、クルーザーの周囲からは引き下がってはいるものの、周囲を取り巻いてまるで何かを待っているような行動をとっている。
ということは、あのクルーザーはけして、偶然に洋一のヨットを見つけてくれた善意の救助者などではない。いや、洋一をとりまく陰謀に無関係だとしても、ただものであるはずがない。
もっとも、漂光たちが受け入れている者である以上、悪意をもつ者とも思えない。漂光が人間の善悪を判断基準にするとは思えないが、完全な洋一の敵というわけではないはずだ。
むしろ、広い意味での洋一の味方、といっていいのだろうか。味方というのが、洋一をさらなるトラブルに巻き込む存在ではないと言い切れないが。
誰かの手のひらで踊っているのではないかという疑いが捨てきれない。洋一もコマのひとつとして使われているのはまず、間違いない。
だとしたら、これは新しい局面なのではないだろうか。ひょっとしたら洋一はあのクルーザーの人物と共に、何らかの行動を行うことを期待されているのではないか?
これまで、漂光たちが洋一に寄ってきたのは、単に好かれているだけだと思っていたのだが、これはあるストーリーの一環だったのかもしれない……。
洋一の脳裏を、一瞬のうちに疑念や当惑が駆け抜けた。だが、次の瞬間には洋一は叫んでいた。
「おーい!そこのボート!」
ストーリーがあろうが、何かの陰謀だろうが、どうでもいい。死ぬよりはマシだ。