第89章
乱暴にミナの手を振りほどく。そのまま、ファラーナ3世に引き返すと、アンが立ちふさがるような動きを見せたが、洋一の顔を見て怯えたように引いた。
梯子のそばには数人の男達がいた。その連中も、洋一が向かって行くと気圧されたように道を開ける。
背後で男のアジテーションが途切れ、群衆のざわめきが少しずつ大きくなりはじめている。
「ちょっと! 待ちなさいヨーイチ!」
ミナが駆け寄ってきて洋一の肩を掴んだ。
「何考えてるのよ! こんなことして……」
「うるさい」
振り向いてボソッと言う洋一に、ミナは絶句した。洋一が手を肩から手を払いのけると、ミナは力無く手を伸ばそうとして、落とした。
洋一は、そのまま数秒間ミナを睨みつけてから、梯子を降りた。
ロープをほどく。
ファラーナ3世に飛び移って、操舵席に座ると、スターターのスイッチを入れる。メリッサの見よう見まねだっだか、エンジンは一発で始動してくれた。
洋一はファラーナ3世を発進させた。貨物船を大きく回り込むとき、梯子のそばで立ちすくんでいるミナの姿がちらっと見えたが、すぐに死角に隠れた。
貨物船からまっすぐに離れる方向に向かう。数隻の漁船らしい船をかわすと、その向こうは暗い海である。
貨物船では混乱が起こっているらしい。ざわめきが追いかけてきたが、洋一は振り向かなかった。
頭が煮えたぎっていて何も考えられない。とにかくあそこから離れたかった。
やがて、貨物船とその周囲の漁船群は後方に遠ざかっていった。誰も追いかけては来ないようだ。すでに周囲はすべての光源を失い、替わって天空の星々が周囲を照らしている。
幸い、波は穏やかである。ヨットの操縦経験などない洋一だったが、ひたすら舵をまっすぐとり続けていて、しかも風とは関係ないエンジン動力で動いているせいで、ここまで大きなミスを犯すことなく順調に進んできていた。
だが、順調なのはそこまでだった。エンジンが咳き込むような音を立て始めたかと思うと、力無く停止してしまったのである。
燃料切れらしい。
洋一は舌打ちした。もともとファラーナ3世のエンジンは港内で使うための小型のもので、燃料もかなり消費していたから、ここで尽きてしまったようだ。
洋一は、何回か再起動を試した後、あきらめて座り込んだ。
ファラーナ3世は、しばらく惰性で前進していたが、そのうち波に揺られるだけになった。
お手上げである。洋一にはヨットの帆走などできないし、大体操縦どころかどうやって帆を張ったらいいのかすらわからない。
怒りのあまり無我夢中で飛び出してきてしまったのだが、考えてみれば無謀だった。操舵もできないヨットで、ただひとり漂流することになってしまったのである。
かなり頭が冷えてきて、現状を認識するようになると、洋一は今更ながら自分の考えなしに呆れ返る思いだった。
しかし、どうにも我慢できなかった。あの第3勢力のリーダーやミナの態度はあんまりだった。
洋一に振り払われて、立ちすくんでいたミナの姿が浮かんできたが、それでも洋一の怒りは収まらない。だから、飛び出してきたことには後悔はなかった。
まあ、なんとかなるだろう。
幸い波は穏やかで、遭難しているわけでもない。メリッサが補給してくれたせいで、食料や水はたっぷりある。
洋一は、覚悟を決めて船室に入った。
碇を降ろすことも考えたが、そのやり方すらわからない。だったら、悩まずに寝てしまうのが一番である。
まだ夜明けは遠いようだったが、洋一は寝棚に這い上がって目を閉じた。昨日の昼間にかなり寝たとはいえ、今日は徹夜に近いのだ。
自分では気づかなかったが、かなり疲れていたようだ。洋一は、あっという間に寝入った。
ほとんどすぐに目がさめたような気がした。最近はこういうことが多い。やはり、南の島での健康的な生活がものを言っているのだろう。
船室は明るかった。小さな窓を通して、太陽の光が射し込んでいる。ヨットの揺れに応じてあちこち移動する光は、ほとんど垂直に近い。ということは、もう昼らしい。
尿意がはち切れないばかりになっているので、洋一はとりあえず甲板に飛び出した。
あたりを見回すと、今日も快晴である。風が少し強い。周囲は360度海だった。島影どころか船一隻見えない。
舷側から小用をすます。小便の泡は、かなりの角度で船尾の方向に流れた。
してみると、ファラーナ3世は背後から風を受けて進んでいるようだ。帆を張っていない状態でも船体が安定するように、自動的に風の向きと垂直になる設計なのだろう。
洋一が寝ている間に、どのくらい流されたのだろう。
風に吹き流された以外に、おそらく海流によっても運ばれているはずだ。今頃はもう、第3勢力の船団からは遥かに離れてしまっているだろう。
このまま誰とも会わずに漂流を続け、いずれは食料も水も尽き、飢えと乾きで死ぬ。
洋一は、昔読んだ、喉の乾きのあまり海水を飲んで狂い死にしたという遭難水夫の物語を思い出して身震いした。
いや、そこまで持たないかもしれない。
操縦するすべもないこんな小さなヨットは、大風が吹いたくらいでも転覆しかねない。嵐でも襲ってくれば、間違いなく遭難する。そうなったら洋一など100%助からないだろう。
これは、本格的な遭難だった。
洋一は、無理に自分を落ち着かせると、とりあえず缶詰をみつけてむさぼり食った。何かの魚らしかったが、ほとんど味がわからない。
ミネラルウォーターのボトルがいくつか見つかったことにほっとしながら、そのうち1本を開けて飲む。メリッサさまさまである。
ざっと数えてみたところ、水も食料も数日分はたっぷりあるようだった。これで、とりあえずの飢えと乾きの恐怖からは逃れることが出来た。
腹が膨れると気持ちが落ち着くのか、洋一はパニックから回復して在庫調査を始めた。
食料と水の他に、釣り針などの道具も見つかったが、これはいよいよの時に考えることにして、さらに調査を続ける。
ラジオはあったが、通信機やレーダーのたぐいは積んでいないらしい。そのラジオも、バッテリーが上がっているらしく、スイッチを入れても反応しない。
コンパスは舵のそばで見つかった。それによると、現在ほぼ東に向かっているらしい。海図もあったが、まず読み方が判らない上、第3勢力の船団と別れたときの現在位置が不明なのではどうしようもない。
それでも、助かるためには何でもやってみなければならない。しつこく海図を眺めているうちに、おぼろげながら読み方が判ってきた。
海図の用語は幸い英語だった。ジョオのいたフテ島と、タカルル神殿のあったタテマイ島が判ると、大体の進路はつかめる。
洋一の計算によれば、現在ファラーナ3世はフライマン共和国群島の東端にいて、しかもほぼ東に流されているらしい。その向こうは、3000キロくらい何もない。
洋一は気分が悪くなった。
このままでは、日干しか発狂の運命だ。