第88章
30分もたった頃、急にヨットの揺れがやんだ。クルーザーが停止したらしい。
ミナが手早く髪をまとめ、衣類を着込んだ。ひとつ深呼吸して振り返る。そこには、端正で中性的な美貌の指揮官がいた。
「ついてきて」
短い指示の声も変化している。すばらしい役者なのか、それともこれが本性か。
甲板に上がると、そこは真昼だった。
ヨットを引いていたクルーザーと、すぐそばに停泊している巨大な貨物船から投光器が向けられている。
洋一は手を目の前にかざした。それでも明るくてよく見えない。
ミナはその中で堂々と立っていた。すぐ脇にはアンが控えている。この2人は、こういった派手な舞台で映える。宝塚のようだ。
しばらくすると、投光器がひとつひとつ消えていった。と同時に、貨物船で動きがあった。どうやら梯子を降ろそうとしているらしい。
クルーザーからロープが投げられ、アンが手早くヨットにつなぐ。ロープが貨物船に渡されると、やがてぐいぐいと引かれ始めた。
梯子のそばに引き寄せられたヨットから見上げると、貨物船の舷側は見上げるような高さだった。多分、カハ祭り船団の食事船と同じくらいのトン数はあるだろう。
第3勢力とやらの経済力も侮れない。カハ祭りの場合は、あの食事船は誰が用意したのかは判らないが、おそらくソクハキリが手を回したはずだ。持ち船なのかチャーターしたのかは不明だが、それでもあれだけの船を海のカハ祭りの期間中占有するのだから、いずれにせよ相当の経費がかかっているだろう。
あの費用はカハ族が出しているのだろうか。第3勢力も同じことをしているとしたら、単純に比較は出来ないものの、おそらく第3勢力もカハ族の母体と同等に近いような経済力を持っていると見るべきだろう。
「第3勢力」の名は伊達ではないらしい。
梯子がセットされると、まずアンが素早く駆け昇った。次に、ミナに促されて洋一が昇る。ミナもすぐ続いた。
貨物船の甲板は広々としていた。
ここでも投光器がいくつも掲げられていた。人はけっこういるらしい。ライトはすべて洋一たちに向けられていて、洋一には自分たちのそば以外は何も見えない。
ミナは、いくつものスポットライトの中にすっくと立った。姿勢がピンと張りつめて、洋一でさえ見とれるくらい決まっている。
突然、ミナが何か叫んだ。
途端に、静まり返っていた回り中からどよめきが湧き起こる。
洋一はアンに促されて、ミナの横に立っていたが、回り中からことさらに洋一に視線が集中しているのが感じられた。スポットライトも、洋一を狙っている。
どうも、この舞台の主役は洋一らしい。
再び何か叫びがあがり、光の中から人影が進み出た。
落ち着いた中にも、敏捷さを感じさせる動きで、その人影はすばやく洋一に歩み寄り、目の前に立ったかと思うと、いきなり跪いた。
「え?」
「×××××!」
囁くような声とともに、洋一の両手が万力のような力で掴まれる。そのまま、洋一の両手は跪いた男の肩にもっていかれた。
洋一は突っ立ったままである。両手はビクとも動かない。
途方にくれてミナを見ると、あいかわらずの無表情である。ただし、口の端がピクピク動いているところをみると、ミナの自制心も完全ではないらしい。
すると、この茶番を逃れる方法はないということだ。洋一はあきらめた。
男は、しばらくそのままの姿勢でいてから、ようやく洋一の手を離して立ち上がった。
周囲から歓声が上がる。
洋一は、しびれてジンジンする手をさりげなくもみながら、男と相対した。
洋一よりかなり背が高い。それが、中肉中背に見えるのだから、全身は筋肉の塊だろう。
顔も厳い。ソクハキリが巨大な岩山といったイメージだったのに対して、この男は切り立った崖、それも激しい波が打ち寄せ続ける北の凍てついた断崖という印象である。
どうも、洋一の旅は美女には恵まれても男の方は期待できないようだ。
諦めようとして、洋一はふと気づいた。
ただ厳いだけではなくて、いかにも海の男といった風情だが、ただひとつ目が裏切っている。
ソクハキリにしても、ただ眺めているだけではまさに鋼鉄そのものだが、実際に話してみると、なかなかどうして茶目っ気たっぷりの性格だった。
同じように、この男も全体的な印象は氷山のようだが、内面はかなりいいかげんなのではないだろうか。
その疑いは、すぐに実証された。
「ダマッテイロ」
無表情に言って、男は突然洋一の横に並んだ。それから、片手を上げて叫ぶ。
回り中から、歓声が飛んだ。
洋一は、男に肩を掴まれて引きずられながら、絶望的に空を見上げた。
ミナが、いつの間にかぴったりとそばについている。あまつさえ、洋一の腕を抱え込んでいた。
「ごめんね。もうちょっと我慢して」
ミナは笑いながら言った。回りの観客向けに、洋一に寄り添いながら魅力的に微笑んでみせている。
男とミナに挟まれて、甲板を何回歩き回っただろうか。
突然、男は洋一を離して、甲板の中央に仁王立ちすると、激しく演説を始めた。
洋一には一言も判らないが、腕を突き上げたりするオーバーアクションは、ヒトラーの再来を見るようである。
言っていることは一言も理解出来ないが、男の態度や回りの反応からみて、アジテーションなのは間違いない。
それがうけている。
第3勢力とやらも、こういう男が指導しているようでは、かなりいいかげんなものなのかもしれない。
洋一は、演説を続ける男を白けた思いで見ていた。ミナは洋一の腕を抱え込んだままぴったりと寄り添っている。
その態度があまりに露骨なので、洋一は仏頂面のままだったが、いきなりミナが脇腹に肘打ちを入れてきた。
「テッ!」
「笑って! ちゃんと演技してよ!」
顔だけは微笑みながら、ミナは低く言った。
その態度に洋一はカチンときた。
と同時に、今まで忘れていた苛立ちが吹き上がってくる。
「おい。いいかげんにしろよ」
洋一が低く呟くと、ミナはきょとんとした表情を見せた。何を言われたのかわからないらしい。洋一は、その表情にさらに怒りをつのらせた。