第83章
相手も慎重だった。
相手の船は、洋一のヨットよりかなり大きなクルーザーのようだった。アマンダの指揮船によく似ているが、こちらの方が少し小さい。
白い船体には、しゃれた字体で船名が書いてあるが、日本語でも英語でもなく、もちろんアラビア文字でもない、洋一には未知の単語が並んでいるだけだ。
フライマン共和国の船名は、洋一がこれまで見た限りではみんな英語で書かれていたから、これは珍しい部類だろう。
クルーザーの甲板は、複数の光源で明々と照らされていて、乗組員はみんな影になってよく見えない。甲板だけで数人はいるようだ。
そのクルーザーはゆっくりと近づいてくると、かるく洋一のヨットに触れて停止した。
その途端、影のひとつが軽い動きでヨットに飛び降りてきて、手早くロープを結んで固定する。
影は、ロープのそばに跪いた。顔が隠れて見えないが、ずいぶん小柄だった。
洋一は、今までの不安とは別の嫌な予感と、その反作用のような期待を覚えた。フライマン共和国に来てから、こういう状況で必ず繰り返されてきたパターンがある。
だが、洋一の不安はすぐに逸れた。
クルーザーの影のひとつが何か叫んだかと思うと、手すりを飛び越えて洋一のヨットにどしんと着地したのである。
ヨットは大揺れで、洋一を含めて全員があわてて何かにしがみついた。
飛び移っただけでこれほどの揺れがあるとは、よほどの体重があるのか?
だが、クルーザーの明かりに照らされた侵入者は、意外なほど細身だった。背もあまり高くない。洋一ととんとんか、それ以下だろう。
その影は、しばらくじっと洋一を見ているようだったが、いきなり動きだし、スタスタと近寄ってきた。
ライトがその顔を照らしだす。
洋一は息を飲んだ。あまりにも端正すぎるマスクが、そこにあったのである。
メリッサは端麗だった。整いすぎていて冷たいかんじを与えることもあったが、メリッサの顔は基本的には優雅さや気品をベースに構成されていて、女性としてのひとつの完成をみることができる。
だが、今洋一の目の前にあるマスクは、同じくらいの完成された構成を持ちながら、メリッサとは正反対の印象だった。端麗ではなく端正であり、美しいものでありながら、見事なくらい性別を示す兆候が欠けているのである。
スーパーモデルを間近で見たら、こういう印象を受けるかもしれない。あまりにも完成されすぎていて、無機的・中性的なイメージしか感じられないのだ。
身体は細身だが、ウィンドブレーカーを着込んでいるせいでラインがはっきりしない。
下半身はダブダブの水兵ズボンで、古びたスニーカーを履いている。とどめに、ボルサリーノらしい帽子まで被っていて、顔以外はすべて隠している。フライマン共和国では、異常なくらいの重装備である。
洋一は、日本領事館の職員以外でここまで肌を隠している人を見たの初めてだった。
肌の色は典型的なココ島人である。日本人で言えば、ハワイあたりの浜辺で丸1日こんがり焼いた程度の褐色だった。それがまた、この人物の性別を困難にしている。
その中性的な、美青年とも美女ともつかない人物は、しばらくじっと洋一を見ていたが、不意にはっきりした口調で言った。
「なるべく口をきくな。何か言うときは、日本語で話せ」
正確な日本語だった。
声は、男としては高いが女性としては低いといったかんじで、ここでも性別の決定的なは判断は難しい。
「……ああ」
洋一は、唖然としながら頷いた。
フライマン共和国に来てから色々な人物が日本語を話すことで洋一を驚かせてきたが、
今回は特にその度合いが大きい。
まるで予想がつかなかったのは今までと一緒なのだが、今回は相手が話しているのを聞いてもまるで現実感がない。
しかも、話す内容が内容である。なまじ日本語の発音が正確であるだけに、その言葉は洋一の腹の底を冷やした。
その人物は、一瞬洋一の目をまともにのぞき込むと、洋一の手をとった。それから、ゆっくりと膝を折る。
クルーザーや回りの船からどよめきが上がる。
洋一は硬直したままだった。驚きと、半ば本能的な警戒感から動かない方が良いことを直感した洋一は、突っ立ったまま手の温もりを感じていた。
しばらくそのままでいてから、その人物はゆっくりと立ち上がった。右手を上げて周囲を見回す。
回りの船から、今度は歓声が上がった。口笛のような音も聞こえる。お互いに肩を叩き合ったり、踊ったりしているのが判る。
その人物は、洋一に寄り添って自分のとま親密さを周囲にたっぷり示した後、改めて洋一に向かって言った。
「一緒に来てもらいたい」
あいかわらず、冷静な、というよりは冷徹な口調である。暖かみの欠片もない。
洋一は思わず反発した。
「人を待っているんだ。ここを動くわけにはいかない」
「心配いらない。伝言を預かっている」
「伝言?」
「これから伝える。いいか」
洋一は、思わず身構えた。それにかまわず、その人物は淡々と続ける。
「そのまま伝えるぞ。ごめんなさい。がんばってください、だそうだ」
「……誰からの伝言なんだ?」
「それは言うわけにはいかない」
「そんなのが信じられるか!」
洋一は声を強めた。
向かい合っているため、ほとんど額がくっつき合っている。端から見たら、よほど親密な2人が密談しているように見えるに違いない。
「信じてもらわなくてもいい。一緒に来てくれ」
そいつは、大真面目で言った。表情が動かないので、真面目にしか見えないのだが、内心は判らない。
「断る」
「どうしても?」
「そうだ。考えてみろ。知らない奴がいきなりやってきて、誰からかすら判らない伝言を伝えただけで、そいつについて行くと思うのか?」
洋一はむきになっていた。
現実的に考えたら、この状況で相手に逆らえるはずもないのだが、少し逆上していたといっていい。
ところが、相手はちょっと斜め上を眺めて、それから頷いた。
「もっともだ」
「は?」
「確かに、無理がある。私だったらこういうことを言われても絶対に従ったりしない」
タイミングを外されて絶句する洋一を後目に、彼か彼女かは不明だが、その人物は改めて洋一をまっすぐに見つめて言った。
「それでも、どうしても一緒に来てほしい。頼む」
「……判った」
洋一は、おもわず頷いてしまった。迫力負けである。
「感謝する」
あいかわらず、感謝のカケラも感じられない表情で短く言うと、そいつは振り向いてクルーザーに合図した。