第79章
洋一は、それでも立ち上がった。メリッサが戻るまで、ずっとこうしているわけにもいくまい。すぐにヨットに戻れるようにトイレにも行って、タカルル神殿も見ておく必要がある。
立ち上がって初めて、洋一は食事代までメリッサに頼ってしまったことに気がついた。
2人であれだけ食べたのだから、いくらファーストフードのたぐいとはいえ、結構な額になったはずだ。
ここはせめて洋一が奢りたいところなのだが、日本領事館から貰ったドルはかなり残っているとはいうものの、財布をヨットに残してきてしまい、今の洋一は文無しである。何とか機会を見つけて払いたいが、今となっては不自然だ。
憮然とした表情をしていたのだろう。あのかわいいウェイトレスが不審そうな表情で見送るのにかまわず、洋一は店のトイレで用をたした後、タカルル神殿跡に向かった。
そこはただの空き地だった。ヨットから見たときには広く見えたのだが、近寄ってみるとそうでもない。
住宅地とはいっても、日本のとは違ってぎりぎりまで家が立ち並んでいるというわけではなく、それぞれの家の間は結構離れている。実際にそばで見ると、荒野の一軒家風の建物が多い。
地形が全体的に傾斜しているため、それぞれの家の屋根には段差があり、斜め下からみると重なって見えるのだ。日本の住宅地の感覚でその様子と対比して見ていたので、広さを誤解したらしい。
タカルル神殿跡は、回りと似たような斜面に家がない、というだけの空き地だった。一応整地してあったが、あちこちに小さな立木がある他は特に神殿と言えるような立派な建造物はなく、草が生い茂っているばかりである。
ただ、踏み込んでゆくと木立の向こうに白い土台のようなものが見える。もっと近寄ってみると、それは低い石の台だった。
もとは細長い立方体だったらしい。だが、今は半分以上が砕けたようにギザギザになっていて、潮風にさらされて変色している。
そばに割と立派な看板のようなものがあり、英語とよくわからない言語で説明があった。
英語の方は、洋一の語学力でも何とか「タカルル神殿跡」と読める。もうひとつの文字列は、フライマン共和国の公用語だろう。当然、まったく読めない。
公用語の方は、かなり長い説明がついていた。ところどころに、メリッサから教えてもらったタカルルを示す文字が見える。英語では読めないようになっているのは手抜きとは思えないから、何か意図があるのかもしれない。
洋一は、石を撫でてみた。
囲いのたぐいはまったくない。遺跡を観光客から保護しようなどという気は全然ないらしい。それどころか、野ざらしのままで、石にも潮風の浸食の跡がはっきり見られる。
何事も自然に、がモットーなのか、それとも予算がないのか。多分、後者なのだろう。
辺りを見回してみたが、遺跡と言えるほどの規模ではなく、ところどころに土台が見え隠れしているだけの場所である。
これでは大した観光資源にならないのは当然で、外国からの観光客も、この廃墟だけを見にわざわざ来る気にはならないだろう。
だが、神殿跡に立って海の方を見ると、見事な風景が広がっていた。
タカルルは風と雲の神だそうだから、神殿があるとしたら山の天辺の方がいいのではないかと思っていたのだが、この眺めを見れば納得する。
景色としても絶品だが、それ以上に海が綺麗なのだ。午後も半ばを過ぎた今は、眼下の海はエメラルドグリーンに輝いていて、湾の向こうの水平線は何とも言いようがない美しい碧である。
タカルルは、ラライスリの恋人なのだ。この美しい海を見晴らす土地は、タカルルが降臨して、恋人の一番美しい姿を見るための場所だったと思えば、神殿があってもおかしくはない。
そういえば、石の土台はすべて海の方を向いているようだ。かつてのフライマン諸島の人たちは、ここでタカルルを称えてどのような儀式を行ったのか。
洋一は、土台の石に腰をかけた。
大事な遺跡に触ってもいいのかとも思ったのだが、別に禁止するような表示もないし、崩れかけているように見えた石は結構しっかりしていて、びくともしない。
長年風雨に晒され続けて、弱い部分はすべて崩れてしまい、しっかりした部分だけが残っているのだろう。
石は、海岸に向かってなだらかに傾いている。洋一が腰掛けたところは、ちょうど寝椅子のようになっていて、仰向けに寝そべると非常に心地よい。
洋一は、身体の力を抜いて身体を倒すと腕を頭の後ろで組んだ。眼下にはすばらしい景色が広がり、やさしい風が吹き抜けて行く。
しばらくすると、自然に瞼が下がってくる。 寝てはいけないと自分に言い聞かせつつ、それでもあまりの気持ちよさに起きあがる気にもなれずにいると、突然ふわっと甘い、いい香りがした。
日が陰ったように、頭の上に影が落ちている。サラサラと柔らかなものが額の上を流れてゆく。
洋一は、動けなかった。
口唇に暖かい感触。
それはすぐに離れたが、洋一がゆっくりと目をあけると、吸い込まれるような紫の瞳が見返してきた。
メリッサの金髪が風で流れ、洋一の頬をくすぐっている。一瞬、金髪の向こうに紫の瞳が隠れると、それで魔法は解けた。
メリッサが身体をずらし、洋一が起き上がる。だが、2人とも声が出てこなかった。
洋一が祭壇の上で半身を起こし、メリッサはその横で跪いたままの姿勢である。お互いの顔は触れあわんばかりに近い。
洋一も、メリッサも表情を堅くして、お互いの目を見つめるばかりだった。魔法は解けたものの、別の魔法が2人を金縛りにしているのだ。
その時、唐突に歓声とも叫びともつかない声が聞こえてきた。
メリッサと洋一は、その瞬間に呪縛を解かれて、はじかれたように離れた。
叫んでいるのは、あの食堂のウェトレスだった。その他にも数人が、洋一たちの方を指さして喚いたり飛び跳ねたりしている。怒っているわけではなく、ただ興奮しているようだ。
そうこうするうちに、食堂の前にはどんどん人が集まり始めていた。みんなの興奮はますます高まって行くのだが、不思議にも近づいてくる者はいない。
そのうちに、叫び声は次第に統一されはじめた。みんなが揃って、繰り返しある言葉を叫んでいる。
洋一には、その一節がタカルルと聞こえた。ラライスリという単語も時々現れるようだ。
洋一が唖然としていると、メリッサがゆっくり立ち上がった。
歓声がしだいに小さくなって行く。食堂のそばに集まった人たちは、黙ったままこちらを見守っているようだ。
金髪が風にあおられて、メリッサの頭の回りに広がる。メリッサは、洋一の方に手を伸ばして言った。
「ヨーイチさん」
「あ、ああ」
手を握って、メリッサに引き起こしてもらう。勢いあまって、洋一はメリッサにぶつかり、思わず肩を抱いてしまった。
その途端、歓声が爆発した。
食堂の前の全員が叫んでいた。悲鳴も聞こえるが、軽い興奮状態に陥った人がいるようだ。お互いに抱き合ったり、肩を組んで踊りだしている人もいた。
「みんな、どうしたんだ?」
「ヨーイチさん、行きましょう」
メリッサが生真面目な顔で言って、うろたえている洋一の手を引っ張って歩き始めた。
食堂と反対の方向に、ほとんど小走りになりながら進んで行く。
群衆は追いかけてくるつもりはないようだ。ただし、歓声は食堂が見えなくなってもまだ聞こえていた。