第7章
洋一が、ぼんやりと女神の後ろ姿を見送っていると、パットが乱暴に腕を引いた。なんだか怒っているようだ。
「あの人は?」
「コッチ!」
パットは、洋一の問いを無視して腕を引っ張って歩き出す。
案内の男はいつの間にか姿を消していた。どうやら、あの男の役目はこの屋敷のドアまでで終わったらしい。
そうすると、やはりパットはこの件に関係しているのだろうか。いや、それよりも、さっきの女神は何者なんだろうか?
さっきのやりとりからすると、パットと何らかの関係はありそうだが。
洋一とパットは、短い廊下を抜けて何だかよくわからない広い部屋を過ぎ、90度曲がってリビングルームではないかと思われるソファーが並んだ20畳くらいある部屋を通り抜け、古い劇場によくあるような幅広の階段を1階分登って、両側に似たようなドアのある廊下を突っ切り、その突き当たりのドアに入った。
ここまで来たときには、洋一はもう今日何度目かの覚悟を決めていた。
ここがフライマン共和国でなければ、マフィアか何かの組織のドンの家に連れ込まれたと思うところである。
いや、そうでないとはまだ言い切れないのだが、たとえそうだったとしても、もう洋一が何とか対応できる限度を越えている。こうなったら行くところまで行ってみるしかない。
だから、最後のドアを抜けて入った部屋は、意外や意外だった。
ドアの向こうは、襖だったのである。
正確に言えば、洋風の重い板張りの扉をあけたところは、日本の旅館の個室によくある上がり口のようになっていて、あまつさえスリッパがいくつか揃えてあった。
ご丁寧にも、木製の靴箱まで用意されている。
混乱して足が止まった洋一を引っ張って、パットは自分のスニーカーをけ飛ばして脱ぐと、襖を勢いよく開けた。
中は、和室だった。少なくとも、疑似和室といってよいだろう。
和室にしては、いささかだだっ広い。おそらく、畳にして20畳以上はあると思われる。
床は、一見したところ畳がひいてあるように見える。
壁は白塗りの土壁のように見えるし、正面の窓には障子らしきものががはまっているようだ。
テーブルはどう見ても胡座座りしか出来ないくらい低く、座布団のようなものがテーブルの回りに敷いてある。
さすがに、生け花とか巻き軸などはなかったが、それでもこの部屋を整えた人は和室についてよく研究していると思わざるを得ない出来映えだった。
その人物は、着物のように見える服を着て、テーブルの向こう側に座っていた。
パットがペラペラッと話す。どうやら、怒っているらしいのが声の調子で判る。
その人物は、短く、なだめるような口調でパットに答えると、洋一を見た。
予想はしていたが、その人物はついさっきあの会議室で出会った、ソクキハリと呼ばれていた男だった。
さっきまで着ていたアロハはどうしたのか、今は浴衣に丹前のようなものを羽織っている。
身体の大きさや体型から一見相撲取りのようだが、赤銅色の腕や顔のせいで違和感がひどい。
それでも、小山のような肉体が着物を着てどっしりと和室に落ち着いている風景は、違和感を補って余りある安定感をもたらしていた。
男が快活に言った。
「よく来てくれたな。とりあえず、くつろいでくれ。お茶でいいか?あいにく、緑茶はいいものがないんだが」
洋一は耳を疑った。それほどネイティブな日本語である。
「あ、あなたは」
「ん?」
「あなたは、日本語が話せるんですか?」
「おかしなことを言う」
ソクハキリと呼ばれていた男は破顔する。
「今、しゃべってるじゃないか」
「それもそうだ」
「ま、その気持ちはわからんでもない。大体、その様子じゃまだ状況が全然わかっとらんとみたが、どうだ」
「はあ、その通りです」
洋一は毒気を抜かれて言った。
フラフラと、男の真向かいの座布団に座る。
座布団にしては堅いと思ったら、どうやらカバーの中身は板のようなものらしい。
よく見ると、床に敷いてあるのは何かの草を大ざっぱに編んだもののようだ。カーペットに近いものだが、黒い線が直角に入っているので、遠目には畳に見える。
「はは。似てるだろ」
洋一の様子を見たか、男がまた笑った。
「輸入しようとしたんだが、結構カネがかかることが判ってな。それで出来る限り似たものを作ってみたんだが、材料からしてないからな、ここには。ま、日本趣味が高じた外人の酔狂と思って我慢してくれ」
男は、それからパットに向かって短く何か言った。パットは不機嫌そうに立ったままだったが、何か言い返すと洋一のそばにどしんと座る。
ソクハキリは、茶箪笥のようなものからきゅうすや日本茶碗を出すと、魔法瓶の湯を注いで、洋一に勧めた。
茶碗に入っている液体は、どことなく違和感があったが薄緑色をした日本茶に見えた。
洋一は、一口飲んで首を傾げた。少し酸味がきついが、まあまあだった。
ソクハキリが言った。
「宇治の煎茶だ。高いんであまり買えないけどな。この味が実は大人気で、俺がこれをふるまうっていうのは、ここらじゃ報償がわりにもなっているくらいなんだぜ。
チビチビ飲んでいるうちに賞味期限が切れかけてるんで、ちょっと痛んでいると思うが。追加注文したいんだが、それどころじゃないしな、今は」
「わざわざ取り寄せているんですか」
洋一は、宇治茶が飲めたことより、この島が宇治茶の取り寄せが出来る程度には未開の地でないことが判って嬉しかった。
頭では理解しているのだが、なんだかこの1日で日本からひどく遠ざかったような気がしていたのである。
「もちろん、特注だ。俺はガキの頃日本に留学しててな。タタミとオチャがないとどうも落ち着かないようになっちまった。
中学を出るとき、相撲部屋に入門させてくれるという話もあったんだが、オヤジに猛反対されてなあ。入門してれば、結構いいところまで行く自信はあったんだがな。こないだ引退した横綱玄孫山なんかは、中学相撲界では俺のライバルと言われていたんだぜ」
ソクハキリは、忌々しそうに言った。
サラといいこのソクハキリといい、フライマン共和国には日本語が堪能な人が多いのだろうか。
それも標準語というか東京弁というか、いわゆるポピュラーな都会語を話すとは。
フライマン共和国には日本に留学していたとか、日本語がネイティヴだとかいう人間がざらにいるのかもしれないが、それにしてはパットなどはカタコトもいいところで、日本語会話が広まっているというわけでもないらしい。
ただし、日本領事館があるくらいだから、フライマン共和国は日本とつながりが太いとは言えるかもしれない。
洋一がそれを言うと、ソクハキリは肩をすくめた。
「さあな。俺もよく知らないが、多分国と国よりも個人的な縁てやつじゃないのか?俺の場合は、オヤジが第2次大戦中に知り合った日本の軍人と親友だったという話だ」
留学中は、その人の家に下宿していたんだがな、とソクハキリは言った。
サラは母親が日本人だといっていたが、このソクハキリにはどうみても日本人の血はまじっているようには見えない。
留学中に日本語を覚えたとしても、帰国してからかなりたっているだろう。
それでいてこれだけネイティヴな日本語を話せるというのは、おそらく普段から使う機会があるとしか思えない。
蓮田とか猪野が関係しているのだろうか?
そういえば、サラがそんなことを言っていたな・・・
「僕は、ここに来るまでフライマン共和国という国があることさえ知りませんでした」
「我が国は、戦前も戦後も日本とはうまくやってたらしいんだよな。ヨーロッパ列強は儲からなくなるとさっさと引き上げて見向きもしなくなったし、アメリカも戦略的な価値がないところからは手を引いてて、結局日本しか相手にしてくれなかったという話だ」
「そうなんですか。アジアじゃ日本は嫌われ者だそうですが」
「日本の委託統治領だったときには、日本の援助で橋や港が出来たし、戦争中は最後まで連合軍に無視されていて、日本の軍人さんたちは毎日魚釣りをしていたらしい。もともと、大した資源もないんで搾取のしようがなかったんだろう。
だから、この国では日本は最友好国だよ。戦後はアメリカの平和部隊やらなんやらで重点があっちの方に移ったが、それでも昔からのつながりが強い日本は、フライマン共和国にとっては頼れる相談役ってとこなのさ」
だから、猪野や蓮田が駆け回っているのかもしれない。
洋一は、もう一度ズズッとお茶をすすった。
いきなり、パットがペラペラッとソクハキリに向って話した。洋一の方に顔を向けて、何か力んでいるが、思うように言葉が出てこないらしい。
「すまん、ヨーイチ、と言ったっけ?パットが言いたいことがあるそうだ」
ソクハキリが、笑いをこらえながら言う。
「はあ」
「ああ、言い忘れていたが、パットは俺の妹だ。日本語はまだまだなんだが、いずれ日本に留学したいと言ってる」
「妹さん・・・・ですか」
全然似ていない。
肌の色も違うし、そもそも顔立ちに共通点がまったくないのである。
「言いたいことはわかるよ」
ソクハキリが苦笑した。
「パットと、あと2人こいつの姉がいるんだが、俺のオヤジの後妻の子なんだ。俺はオヤジの血をもろに引いて、このご面相なんだが、
パットたちはオフクロさん似でな。まあまあ、美人だろ」
すると、さっきホールで出会った娘がパットの姉の一人なのだろう。まあまあどころか、大した美人である。ソクハキリの義理の母親は、すごい美女に違いない。
「ところで、パットがさっきから言いたいのは、こういうことだ。つまり、留学したときには日本で頼りにしていいかと・・」
パットがいきなり言った。
「ソウ!リュウガクスル」
続いて、何かペラペラっと言いかけて、悔しそうに絶句する。
ソクハキリが、パットに何か短く言うと、パットはため息をついて立ち上がった。
ちらっと洋一を見て、いきなり洋一に抱きついてきたかと思うと、頬にキスする。
「ちょ、ちょっと」
慌てる洋一を後目に、パットは身を翻して部屋から出ていってしまった。
「あんまり気にすんな。こっちの習慣はヨーロッパ風で結構ラフだからな。あれは挨拶がわりみたいなもんだ」
頬を押さえて呆然とする洋一に、ソクハキリが笑いながら言った。
それから、一転して顔を引き締める。
「青春の話はこのくらいにしてだ。本題に入らせて貰おう」