第78章
「あそこの空き地みたいな場所が、タカルル神殿の跡です。もとは大きな木が立っていて、それが枯れたので整地しようとしたら、石材がゴロゴロ出てきたとかで、そのままになっているらしいです」
メリッサが唐突に言った。
なるほど、ぎっしり立ち並んだ家の間に、不自然な空き地が見える。さらに目をこらすと、空き地の中央に小さな建造物があるのが判った。
「何か建っているね」
「一応、観光資源ということで、整備はしているらしいです。といってもめったに観光に来る人はいませんけど」
メリッサがおかしそうに言う。
「ここは観光ルートから外れているし、あれ以外に何もない島なので、観光クルーズのコースに入っていません。だから外国の観光客はめったに立ち寄らないみたいです。私たちみたいなのが、何かのついでに寄るくらいでしょう」
「いいね」
洋一は、もう観光気分だった。
これからのことを考えると不安だが、あまり考えても仕方がないと気分を切り替えられるのは洋一の武器といえる。
切り替わるのは気分だけで、事態は別に好転しないのだが、それでもずっと悩んでいるよりはマシだろう。
メリッサは慎重にヨットを進めた。ヨットが波の静かな港に入ると、エンジンだけでも結構速度が出る。
桟橋にヨットをつけると、2人は早速町に向かった。桟橋も含めて、港には人影がない。
そういえば、港にもあまり船がなかった。
「もうお昼すぎてますし、みんな漁に出ているのかしら」
「誰もいないみたいだな」
町に入っても、あいかわらず人影がない。沖からは、ぎっしり家が立ち並んでいるように見えた町だが、実際に踏み入れてみるとだだっ広い街路の両側に平屋がポツポツとあるだけで、町全体が閑散としている。
それでも、どこからともなくおいしそうな匂いが漂ってきたり、あちこちの家から炊事の煙が立ち上っているので、人がいないわけではなさそうだ。
昼飯時で、みんな引きこもって食事中なのだろう。
洋一の空腹は、体調の回復に比例して存在を主張し、この時点では限界にきていた。今ならどんなものでもメリッサの料理並においしくいただけそうである。
「とにかく何か食いたい。腹が減って死にそうだ」
「このあたりにお店があった……と思ったんですけれど。ああ、ありました」
いつの間にか、タカルル神殿跡のそばまで来ていたらしい。家が途切れて、ぽっかりと空き地があった。
メリッサの指さす方を見ると、空き地に面して軽食堂がある。ハンバーガーやスパゲティの店らしい。
別に観光客向けというわけでもないだろうが、こじんまりした店の前には傘付きの屋外テーブルとイスがいくつか並んでいて、なんとなく観光地的な雰囲気がある。
ただし、半分くらい塞がっている席についているのは現地人まるだしのフライマン共和国人ばかりで、にぎやかではあるものの華やかな雰囲気はない。
まあ、そんなことはどうでもいいことである。それよりはメシだ。
洋一が木陰に空いているイスに倒れ込むと、メリッサが店に入っていった。
すぐに皿に山盛りのスパゲティが運ばれてくる。運んできたのは、珍しくもエプロンをつけたウェイトレスだった。
といっても、この暑い中、エプロンの下は膝上までのジーンズで、上はタンクトップである。まだ少女といっていい年頃で、日本領事館にいたメイドたちによく似ている。
何かペラペラと洋一に話しかけたが、もちろん一言も判らない。
少女は洋一の前に皿を置くと、すぐに戻って今度はトレイを運んでくる。メリッサが注文したのか、ハンバーガーとポテト、それにコークのラージカップが載っている。
そのときすでに、洋一は夢中で最初に来たスパゲティにかぶりついていた。少女は慣れているのか、洋一の隙をついてヒョイヒョイとテーブルの上に置いて行く。
メリッサが戻ってきたときには、丸テーブルの上に所狭しとご馳走が並び、洋一が大満足でハンバーガーにかかっていた。
「お待たせしました」
「悪いけど、先にやってる。どうにも我慢できなくて」
さすがに洋一はいいわけしたが、メリッサはにっこり笑って腰掛け、いきなりハンバーガーを取り上げてかぶりついた。
大口をあけてほうばっているのだが、それでも動作が卑しくならないのは、生まれついての気品というものだろうか。
そんなメリッサに見とれていた洋一は、いきなり気がついた。メリッサが姿を消したのは、トイレに行っていたに違いない。
気がついたことに気がつかれないよう、あわててポテトを口にいっぱい放り込む。
今まで考えたこともなかったが、メリッサだって天使ではないのだから、トイレは必要なのだ。思うに、ヨットの甲板に洋一が居座ってしまったために、トイレに行けなかったのだろう。
そんなそぶりを全然見せず、ここまで我慢するとはすごい娘である。ヨットで大騒ぎした洋一とは大違いだ。
いずれにせよ、洋一がぼやっとしていたために、メリッサに余計な負担をかけてしまった。だが今の洋一に出来ることは、気づかないふりをすることだけだ。
これでは、メリッサに好意をもっているなどと言う資格はない。情けない気持ちを隠すのでせいいっぱいの洋一だった。
メリッサの方は、ちっとも気にしていないようだった。それはそれで少し不安になるのだが、洋一としては早急にこの件は忘れることにする。ただし、次からはもっと気をつけるようにと心に誓ってである。
もっとも、「この次」にうまくやれるかどうかはなはだ不安ではあったが。
その間にも、2人はほとんど無言で食べ続けていた。
太陽の位置からみて、今の時刻は昼を少し回ったところだろう。今朝は夜明け前から何も食べずに走り回っていたのだから、エネルギーが枯渇する寸前といえる。特に、走った以外は船酔いで寝込んでいたり、甲板でぼやっとしていたりだけの洋一と違って、メリッサはほぼ休み無く働き続けていたのだ。
メリッサはよく食べた。テーブルに並んだ大量の食料をみて、最初は余ると思っていた洋一だったが、終わってみるときれいにたいらげられてしまっている。
洋一も食ったが、それ以上にメリッサが片づけたのだ。
コークを飲んでいると、立ち上がる気力が失せてくる。しばらく、このままだらしなく寝そべっていたかった。
だが、メリッサは食べ終わるとすぐに立ち上がった。テーブルの上のゴミをまとめて捨てに行き、帰ってくると言った。
「ヨーイチさんは、ここでしばらく待っていて下さい。買い物をしてきます」
「ああ。わかった。一緒に行くよ」
「いえ、すぐ済みますし、2人で目立つ行動はしない方がいいと思います。タカルル神殿跡でも見学していて下さい」
メリッサは、洋一が立ち上がらないうちにさっさと行ってしまった。
洋一の方は、満腹な上に朝からの疲れがでてきたのか、動くのがおっくうな状態である。つくづく体力がないのが情けない。
日本でのんべんだらりと暮らしてきた洋一と、生活そのものが体力トレーニングのような島の娘とでは、土台勝負にならないと判ってはいるのだ。
だが、それでも男のくせに女性に頼り切りでついてすら行けないというのは自尊心をいたく傷つけるものである。
慣れるしかないのか。