第77章
メリッサはしばらく帆を調節しながら立って操船していたが、島の砂浜が見えるくらいになると、操舵席についた。洋一はペットボトルを持ったまま、前部甲板に移動する。
やがてエンジンが起動する時の鋭い振動が伝わってきて、すぐにドッドッドッという安定した音に変わった。メリッサは、舵を固定すると洋一に頭を下げるように言って、帆を畳む。洋一は、まったく役に立たないどころか作業の邪魔になっていることを自覚しながらも、船室に入る気になれずヨットの上を転々としていた。
メリッサも何も言わない。このあたりも洋一が好みとするところである。
ヨットは、帆を降ろして速度は落ちたものの、エンジンで着実に進んでいた。砂浜を横目で見ながら、海岸線と並行に航行している。
「このへんは、珊瑚礁が多いんです。海流の様子もあまり知らないので、慎重に行きます」
「この島は何ていうの?」
「タテマイ島……だったかしら。海図にはそう書いてあったと思うけど」
メリッサは、そこでクスッと笑った。
「何?」
「私たちは、タカルル島って呼んでいるんですよ。タカルルを祭る神殿がある……いえ、あったんです」
「へえ」
タカルルの化身だと噂されている身としては、興味ある話だった。
「あったというのは、今はないの?」
「というより、神殿というほどの規模はもともとなかったらしいんです。お祈りするところというか、そのツールというか……」
「祭壇?」
「あ、そうかもしれません。とにかく、特別にタカルルにお願いをするための建物と場所です」
メリッサの日本語は大したものだ。祭壇などという単語が判るとしたら、普通の日本人以上かもしれない。
「なるほど」
「ココ島人がカハ族とカハノク族にまだ分かれていない頃に使われていたみたいで、だから不思議な場所です。今の私たちは、結局のところ植民地時代からの文化しか知らないので、当時のココ島人の建築とか生活はなじみがなくて。それに、あんまり古いので記録が全然残っていなくて、そこがタカルル神の、祭壇、だということも、発掘調査で出てきた遺跡から判断しているだけみたいです」
メリッサは楽しそうだった。
洋一も、緊張を解いてくつろぐ。現在、小さなヨットにメリッサと2人きりで乗っているという認識以前に、ジョオのホテルから逃げ出した、誰だか判らない集団に追われる身であるという状況は判ってはいるのだが、こんなにのんびりしているとついつい忘れてしまいがちになる。
本当はこんなことを話している場合ではないのかもしれないが、とりあえず今は楽しい時を過ごしてもいいのではないだろうか。
「見てみたいけど、そんな暇はないだろうね」
「見られますよ」
メリッサが言った。
「実をいうと、町の真ん中にあるんです。どうせ買い物をしなければならないので、帰りにでも寄ってみます?」
「それは嬉しいけど、寄り道している暇なんかあるのか? ほら、俺たち今逃げている最中なんじゃ」
「大丈夫でしょう」
メリッサは言い切った。
「スタートでかなり引き離してますし、ヨットでフテ島を出たことまでは頭が回らないと思います。かりに、そこまで判ったとしても、どっちに向かったかまでは判らないだろうし」
そこまで言って、メリッサは肩をすくめた。
「でも、スパイがあちこちにいそうだから、あまりゆっくりも出来ませんけれど」
洋一は頷いた。
確かに、洋一とメリッサの組み合わせは目立つだろう。洋一だけなら、今やフライマン共和国人といって通るところまで同化してきていると言えるが、金髪の美女はそんなに多くない。
しかもメリッサの姿はフライマン共和国内では広く知られていると思うべきで、探す気になればスパイなど使わなくても、噂だけで十分である。
「ところで、あの連中の正体って見当がついているのかい」
「多分……どっちかの過激派だと思うんですけれど、兄や姉の手のものという可能性もありますし……わかりませんね」
「……とにかく、つかまらないことだね」
2人とも歯切れが悪い。
いずれにせよ、洋一が目当てなのは確かだった。メリッサを目標とするには、フライマン共和国においてはリスクが大きすぎる。彼女に何かあったら、少なくともカハ族全体を敵に回すことになるのだ。
その点、洋一のことを多少でも気にかけているのは、せいぜい日本領事館くらいなものだろう。それも気休め程度の保証にしかならない。
風来坊の日本人など、どこかで行方不明になっても、最悪の場合うやむやになってしまう可能性もある。
日本領事館では多少の配慮はしてくれるだろうが、大の虫を生かすためには小の虫を見捨てるくらいは平気でやりそうだ。
そして、洋一を追っている連中は多い。カハ祭りに絡んで、妙に有名になってしまったおかけで、今やカハノク族の過激派だけではなく、カハ族すら洋一の身柄を確保しようとして動いている可能性がある。
そのどれかにつかまったら、土地勘もバックアップもない洋一は動きようがない。
だから、現在の洋一にとって一番良いのは、とにかくココ島に戻って日本領事館に駆け込むことだろう。いったん領事館の保護のもとにおかれたら、うかつに手出しはできないはずだ。
洋一の方は、仕事を完遂しなかったことで猪野書記官あたりに非難されるかもしれないが、命の危険がなくなると思えば安いものだ。
とにかく、自分の立場を確保することだ。そうしなければ、現状では下手をすると何らかの政治的な謀略に利用される危険があり、ひいてはフライマン共和国と日本との間の政治的な摩擦にまで発展するかもしれない。
よその国の内乱の引き金を引いた男として有名になるなど、考えたくもない。
洋一があれこれ想像して鬱になっているのを察してか、メリッサも黙ってしまった。
その間にも、ヨットは快調に進んで行く。
しばらくすると、海岸から砂浜が消えて、防波堤が現れた。岬を大回りすると、そこはもう港である。
その港は、シャナがいたカナラ村と同じような規模だった。小型の漁船らしい船が並び、奥の方にはヨットやモーターボートが数隻もやってある。
湾の向こうは緩やかに高度を上げる丘陵地だった。フライマン共和国ではおなじみの平屋の家が並んでいる。