第76章
眠りかけていたらしい。メリッサを前にして、そういう行動に出るのは、洋一の身体がよっぽど参っているのか、あるいはメリッサと2人きりという状態に慣れてきたのかもしれない。
「ああ、起きてる」
「すみません。寝てしまったのじゃないかと思って」
「うん。すごく気持ちがいい」
洋一は、ゆったりとした気持ちになっていた。いつの間にか、頭痛もほとんど感じなくなっている。身体がヨットの揺れに慣れたのだろう。
しかし、あれだけ吐いたにもかかわらず、食欲がない。まだ本調子ではない。
「船室には入りたくないんだ。ここで眠っていいか?」
「どうぞ」
メリッサは微笑んだ。
ちょうど太陽がいっぱいに広がった帆からのぞいて、逆光にメリッサの金髪が輝く。
座り込んだ洋一から見ると、天使が翼を広げているようだ。
ぼんやり見ていると、メリッサの姿が霞んできて、落ちて行くような感覚を覚えて、洋一は目を閉じた。
そのまま眠り込んだらしい。
と思った次の瞬間には目覚めた気がしたが、視界からメリッサの姿が消えている。
それだけではなく、辺りの空気が変わっていた。太陽の位置がかなり動いている。帆が遮っていた直射日光がときおり洋一の視界を横切る。
身体を起こしてみると、斜め前方に緑の筋があった。まだかなり遠いが、島のようだ。
立ち上がると、メリッサがいた。ヨットの前方に、ロープを支えにして立っていた。
ほぼ真横から風が吹いているので、金髪やTシャツがなびいている。毎度のことながら、あまりにも絵になりすぎる。映画のシーンを生で見ているようだ。
メリッサはショートバンツとTシャツだけの姿で、身体のラインがはっきり見えた。
日本では、テレビですらめったにお目にかかれない見事なプロポーションである。
後ろ姿だけでこれだけのインパクトがあるのだ。洋一たち凡人とは、はっきりと人種というか人間の出来が違っている。
洋一は、しばし見とれた後、やっと声を出す勇気がわいた。もっと見ていたかったが、このままメリッサが振り向いたらお互い気まずい思いを味わうだろう。
「メリッサ」
「あ……ヨーイチさん」
メリッサは、振り向いて微笑むと、ひょいひょいと甲板を踏んでマストのところまで移ってきた。船尾は狭いので、そのまま長い足を横座りにして腰を降ろす。
「船酔い、治りました?」
「ああ。みっともないところを見せて恥ずかしいよ」
メリッサは、顔を曇らせた。
「そんなことはありません。私がいけなかったんです。ヨーイチさんの体調も考えずに、いきなり船出してしまって」
自分の頭をコツンと叩くマネをする。
「てっきり、ヨーイチさんは船に慣れてるものと思ってしまいました。でも、考えてみたら、ヨーイチさんは日本人ですものね。私たちみたいに、子供の頃から小舟に乗っているわけではないんだし。ごめんなさい」
メリッサに心からすまなそうにされると、洋一としては身の置き所がない気がしてくる。
それにしても、目のさめるような金髪美女が、やや古風ながらきちっとした日本語を話すのは、未だに違和感があった。
どちらかといえばラジオのアナウンサーじみた口調だし、ほとんど死語とも言えそうな単語もまじっているが、それでも目をとじていればネイティヴの日本人が話していることを疑う者はいないだろう。
それに、古風な表現なだけに、言葉に込められた誠意がひしひしと伝わってくるような気がする。
ゆえに、メリッサの言うことならなんだって受け入れてしまおう、という気になってくる。
もちろん、その前提条件として、メリッサの美貌が大いに影響しているのだが。
美しい、ということは何なのだろうか?
回りの人間に対する影響はすごいものがある。特に、メリッサほどの美女ならなおさらだ。
メリッサが美人すぎることで、洋一は数々の影響を受けてきたのだが、果たしてメリッサがこれほどの美女でなかったらどうだっただろう。
おそらく、そんなに違った結果にはなっていないだろう、と洋一は思った。感情的にはともかく、これまでの洋一の行動に違いが出ていたとは思えない。
そういう意味では、もし違いが出るとしたら、メリッサの美しさではなく性格が原因だろう。
メリッサが綺麗なのは美人だからだが、メリッサが可愛いのは可愛い性格だからだ。
そして、洋一が引かれたのはメリッサの可愛さにである。美貌は、洋一に対しては、圧倒されるだけにむしろ敬遠の原因となっている。
ここまで親しくなれたのも、考えてみればメリッサの方から近寄ってきてくれたからで、間違っても洋一の方からアタックしたのではない。
洋一の性格では、日常とはかけ離れたメリッサの美貌を自分とは切り離して考えるしかない。
もしメリッサが、最初に聞かされた通りの性格だったのなら、多分洋一とはまったくまじわることなく通り過ぎてしまっただろう。
洋一が考え込んでいる間に、メリッサはテキパキと仕事を片づけていた。
といっても、ヨットが順調に走っている間は大してやることはない。あちこちのロープを点検したり、舵の調子を確認したりしているのだが、身体の動きにまったく危なげがない。
まったく、何でもできる女の子だ。これだけ才能やら美貌やらに恵まれていながら、こんなに可愛い性格に育ったというのは、奇跡のようなものだろう。
カハ族の中ではお姫様だっただろうが、これまで見てきたところでは、ちやほやされて甘やかされたというよりは、むしろ敬遠されてきたとみた方がいい。その環境がいい方向に作用したのかもしれない。
そして、今となってはメリッサはカハ族の若者たちにとって高嶺の花と化してしまい、やはりうかつに手を出せない状態にあるのだろう。
モテまくっているのだが、誰も手を出さないという不自然な状態にいるメリッサは、やはり寂しかったのかもしれない。だからこそ、フラフラと近づいてきた洋一とすぐに親しくなってしまったのだろう。
洋一にとっては、望外の幸運だった。
しばらくすると、斜め前方にあった島影が大きくなってきた。ヨットの向きも、次第に島の方に向いてきている。
「あの島に行くのか?」
「はい。あわてて出てきちゃったから、補給品をほとんど積んでないんです。とりあえず、食料や水を買い込みたいと思って」
日本人と発想が違う。海を移動するのに移動手段は自前が当たり前とは。
「そういえば腹が減ってきたな」
考えてみれば、昨日の夜から何も食べてない上に、数キロの早朝マラソンをやって胃液まで吐いたのである。
胃の中はカラッポだ。
そう気がついた途端、洋一は猛烈な空腹に襲われた。思わずしゃがみ込みそうになったくらい、ひどい腹の痛みである。
気がついているかどうかで違うらしい。
「大丈夫ですか」
「ああ……。だけど、早く何か食いたい」
洋一が苦笑しながら言うと、メリッサは真面目な顔で頷いた。
「あと1時間くらいだと思います。船室で横になっていて下さい」
「いや。ここにいるよ。役にたたないけど、こっちの方が気持ちいい」
それに、メリッサを見ていたいからね、と洋一は頭の中で付け加えた。
メリッサは頷いた。洋一の内心の声に気づいた様子はない。
色恋沙汰どころではないのは判るが、ここまでサッパリされると少し寂しい。まあ、それ以外の対応をされたら困るのだが。
洋一は、とりあえずミネラルウォーターで空腹を紛らわしながら、島が近づいてくるのを待った。