第75章
目覚めたときに最初に思ったのは、小便がしたいということだった。
膀胱が張りつめている。むしろ、そのせいで目がさめたという方が正しい。
洋一は目を開けてみた。
もう天井は回転していない。それに、ヨットの揺れもゆったりしたものに変わっているようだった。
頭痛は治っていない。ただし、刺すような痛みではなく、何となく頭全体が曇っているという感じの穏やかな痛みに変わっていた。
そのかわり、全身を澱のような疲労感が満たしている。関節が痛い。
出来れば、このままもう一度眠りたい。しかし洋一は、膀胱からの切迫した要求に突き動かされて起きあがった。
その時初めて、ヨットの中が静かなのに気がつく。エンジンが止まっているのだ。
立てないかと思ったが、洋一の身体はそれほどヤワではないようだ。本人も驚いたことに、洋一は立ち上がって、よろめきながらもドアにたどりついた。
ドアを開けると、誰もいなかった。舵からはロープが伸びていて、洋一の頭の後ろに消えている。
「ヨーイチさん」
メリッサの声が降ってきた。
頭を動かすと、一瞬くらっときたが、洋一は我慢してドアを抜け出す。
メリッサが船室の上の甲板にいた。マストを背にしていて、首を洋一の方に向けている。
そして、ヨットは帆走していた。マストから大きな帆が膨らんでいる。メリッサはその影になった部分にいて、舵から伸びたロープを掴んでいた。
「どのくらい来た?」
「まだ、2時間くらいです」
メリッサは、ひょいと足を伸ばし、身体を回転させて降りてきた。ほれぼれするような動きだった。それにもちろん、ショートパンツから伸びた長くて形のいい足も。
「もう大丈夫なんですか?」
「いや、まだちょっと……」
「お水いりますよね」
そう言いながら、メリッサはドアをくぐって船室に入った。すぐにミネラルウォーターのペットボトルを持って現れる。
「どうぞ。ジョオが用意してくれてたんです。冷えてませんけれど」
「そんなことはかまわない」
洋一は、ボトルを見た途端に尿意を忘れた。
ほとんどひったくるようにして受け取ると、震える手でキャップをねじ切って、ラッパ飲みする。
生き返った。
生ぬるい水だったが、甘露のようだった。
息もつがずに3分の1ほど飲んで、やっとため息をつく。
そうして初めて、自分の態度に気がついて、洋一はメリッサに謝った。
「ごめん。最高だよ、これ」
支離滅裂な言葉だったが、メリッサの方が恐縮しているような表情だった。
「ほったらかしていてごめんなさい。何回かのぞいたんですけれど、眠っているようだったので。水のこと、言おうと思ったんですけれど」
ぎこちない日本語である。メリッサらしくないが、何かひっかかっているのだろうか。
「声かけないでくれてありがたかったよ。大分よくなってきた」
洋一の言葉は本音だった。水の一気飲みで、身体が回復しているのがわかる。
ただし、まだ世界が回転しているような不安定さは残っていて、快調とは言い難い。
「お腹すきません?」
「いや……まだ駄目みたいだ」
「もう少し寝ていて下さい。あと2,3時間でどこかに着けると思います」
洋一はほっとした。
もう一度眠れば、何とか回復しそうだった。
だが、そう考えた途端に切迫した欲求を思い出す。
「そうさせてもらうよ。ところで、トイレってあるのかな?」
「あ。あの、一応、大自然トイレというか……」
「わかった」
メリッサが真っ赤になって口ごもるのを見るまでもなく、洋一は察した。考えてみれば、この程度のヨットにトイレがあると思う方が間違っている。
しかし、欲求は切実である。恥も外聞もなく、洋一が口に出しかけた途端に、メリッサが先手を打った。
「私、船室にいますから、終わったら呼んで下さい」
そう言ったときには、もうメリッサの姿は船室に入っている。本当に優しくてよく気がつく女の子である。
洋一は、それでもしばらく待ち、さらに船室のドアがしっかり閉まっているのを確認してから、おもむろに自然の欲求に答えた。
まだ、大の方は我慢できそうである。ヨットを走らせながら、船尾に尻を突き出すのは出来れば勘弁してもらいたい。
洋一は、ズボンのチャックを閉めながら、ようやく落ち着いてあたりを眺めた。これまでは船酔いやら自然の欲求やらで、まわりの風景が目に入っていなかったのである。
ヨットは快調に進んでいるようだ。帆は綺麗に膨らんでいて、何やら複雑に組まれたロープが洋一のそばの舵らしきものにつながっている。自動操舵らしい。
それでメリッサも船室に籠もったのだろう。海も穏やかだし、とりあえずの危険はないと判断したらしい。
それにしても、メリッサは自然の欲求をどう処理しているのか?
そう考えかけて、洋一はあわてて頭に浮かびかけた妄想を打ち消した。そういうことは、今は考えない方がいい。いや、知ろうとしない方がいいのだ。これからもメリッサとつき合っていこうと思うならば。
いや、「つき合う」というのは言葉が違うような気がする。本当につき合ってもらえたら、こんなに嬉しいことはないのだが、それも今のところ洋一の妄想にしておいた方がいい。
洋一は船室のドアをノックした。
メリッサがすぐに顔を出す。金髪が額に流れていて、ちょっと色っぽい。
「終わりました?」
「ああ」
お互い、あまり詳しく触れたくない話題なので、会話はそれだけで済んだ。
メリッサは、狭いドアをスルッと抜けると、後部甲板に立った。狭い甲板は、2人が立っているだけでいっぱいになってしまう。
メリッサは、すぐにマストに手をかけて船室の屋根に移った。
マストと帆をちらっと見て、満足したらしい。洋一の方に身体を向けたまま後ずさりして、マストによりかかった。
そのまま、長い足をあぐらに組む。
何をやっても絵になる娘だった。リラックスしたその様子は、洋一にはやはり映画スターがくつろいでいるようにしか見えない。
洋一の方は、かなり気分が回復してきたとはいうものの、あの狭い船室に入る気がなくなっていた。
いつの間にかヨットの揺れに身体が慣れていて、こうして立っていても自分で気づかずに楽々とバランスをとっているようだし、出来ればここで潮風に吹かれていたい。
そこで洋一は、最初のメリッサの格好を真似て、舵のそばに座り込んだ。もちろん、ロープなどには触らないように注意する。
足を投げ出すと、これは居心地がよかった。ゆったりと揺れていて、そのリズムが眠気を呼びそうである。
「ヨーイチさん」
メリッサの声がして、洋一は現実に引き戻された。