第73章
洋一の体力が限界に近づいた頃、ようやく港が目の前にあった。
「ヨーイチさん、もうすぐです」
メリッサが立ち止まって声をかけてくれても、洋一としては膝に手をついて立っているのがせいいっぱいである。
メリッサの方も、さすがに息を弾ませていたが、自然体で立つその姿勢はいささかも崩れていない。
日本の大学生と島の娘の体力差が如実に現れている。これでも洋一はがんばった方だろう。クロスカントリーさながらの道を、小走りとはいえ4,5キロは走り続けて、とりあえず倒れなかったのだ。
「わかった」
洋一としては、はずむ息の間からそう答えるのがせいいっぱいである。気力でもっているだけだった。好きな娘の前で意地を張っているというのが正解だ。
メリッサは、その言葉をどう受け取ったのか、ちらっと微笑みを見せるまた動き始めた。
洋一としても、ここで泣き言を吐くわけにはいかない。夢遊病者のように後を追う。
メリッサは、すぐに普通の足取りに戻ると、ハーバーに向かった。
ジョオの話では、ここがこの島の最大の港だそうだから、島のほとんどの船が集まっているのだろう。
メリッサは中型のヨットを見て回っていた。
何かアテがあるらしい。
洋一の方は、情けなくもコンクリートの桟橋に座り込んでいた。完全に息が上がってしまっていて、どうにもならない。
霞む目で歩き回るメリッサを見ていたが、その姿が目に入ってきたのは5分もたってからだった。
メリッサは、あいかわらずヨットをチェックしている。さっきまでと違って、特に急いでいる様子は見えない。
さすがに、ここまで追いついてくるとは思っていないらしい。来るにしても、しばらくは余裕があると考えているのだろう。ひょっとしたら、まだ何か洋一の知らない情報を握っているのかもしれない。
辺りはもう完全に明るくなっていた。太陽が、いつの間にか水平線のかなり上の方にある。
港にも、ちらほらと人影が見え始めていた。漁に出て行くのか、網を抱えた数人が通りがかり、洋一の方にはちらっと目をくれただけだが、メリッサに気づくと遠慮がちに、それでも丁寧に挨拶しながら通り過ぎて行く。
この島でもメリッサのことは知れ渡っているらしい。おそらく、カハ族・カハノク族とわずに有名なのだ。
メリッサの方は、挨拶されているの気づくと、ぎこちなく返礼している。といっても、かすかに頭を下げる程度だったが。
やはりまだ普通の人には人見知りするらしい。おかしな話だが、出会ってまだ数日にしかならない日本人の洋一に対しては、完全に免疫が出来ている。
それにしても、前に聞かされたメリッサの様子とはかなり違いがある。アマンダの話では、それこそ対人恐怖症の塊のような描写だったのだが、こうして見ている限りではそれほどのことはないようだ。
ソクハキリの屋敷で会ったときは、いかにもアマンダの話を肯定するような態度だったのだが、あれはやはり未知の日本人である洋一を前にして緊張していたからと考えるべきだろう。
メリッサがそんなに変人ではないことがだんだん判ってくるにつれて、おかしな話だが洋一の中の違和感が増してきているような気がする。
あれほどまでに、男の理想を絵にしたような女性が本当にいるはずがない、という確信みたいなものがあって、だからメリッサに欠陥があればあるほど安心感があったのだが、欠陥がどんどんなくなりつつあるのだ。
それを認めてしまうと、洋一の人生観にまで影響が出てきてしまうのである。
完璧な女性がいても、それが洋一の人生とは関係のないところで発生した事象なら、なんということはない。洋一には影響しない。
だが、メリッサの場合モロに洋一の人生と交差していて、しかもこのところ触れあわんばかりの近くを並行に走っている。
しかも、洋一が内心確信している通り、洋一のことを歯牙にもかけないのならともかく、信じられないくらい親しくされているとしたら、これは大問題である。
メリッサにつき合って貰って幸せだ、という洋一の感情とは別のレベルで、洋一は感情的に判断してしまうのだ。
「ヨーイチさん」
いきなり、メリッサが呼んだ。
「ヨーイチさん、来て下さい。船がみつかりました」
洋一は無言で立ち上がった。幸い、普通に歩ける程度には息は整っている。
それでも、膝の関節が心許ない。洋一は努めて歩調を整えて、メリッサが呼ぶ方に歩いていった。
メリッサは、ハーバーの先の方にいた。
そのあたりは、小型のモーターヨットが係留されている場所である。
洋一はよく知らないが、いわゆるモーターボートではなく、マストがあって帆走できるようになっていて、しかも船室がついているタイプの船である。
メリッサは、その中の一隻のデッキに立っていた。
船体は白で、1本マストのヨットである。船首の方に、流れるような英字体で船名が書いてある。
そんなに大きくはない。全長はせいぜい6メートルくらいだろうか。何型かは判らないが、いかにもヨットらしい、優美な船体だった。
メリッサが誘うように微笑むので、洋一は用心しいしい大股で乗り込んだ。洋一が乗っただけで、船体がかなり揺れる。
「これ、ジョオの船なんです」
洋一が何も言わないうちに、メリッサが言い出した。
「でもいいのか? 勝手に使ったりして」
「許可はとってあります」
メリッサは固い言い方をしたが、洋一は納得した。と同時に、メリッサのこれまでの行動にも頷けるものがあった。
今朝のメリッサの動きに、迷いがなさ過ぎたのが引っかかっていたのだが、おそらくは事前にある程度は事態を予測し、こうなることを覚悟していたのだろう。
そして、ジョオと今朝のような事態になった場合の行動について、打ち合わせしていたに違いない。その中に、万一の場合はこの港に来てジョオのヨットを使う、ということまで含まれていたのだ。
もっとも、今後のことについてはどうなるか判らないが。
「わかった。まかせるよ」
洋一が頷くと、メリッサはパッと微笑んだ。こういうときのメリッサは、清楚で、可愛くて、綺麗で、しかも色っぽい。
洋一は、またしても映画の登場人物と話しているような気分に追い込まれてしまう。
「船室に入っていて下さい。出航準備にかかります」
要するに、邪魔だから引っ込んでいろというわけだ。もっともな話である。
クラクラきそうな頭を必死で立て直して、洋一はヨットの船室に入った。