第6章
ひとりの男が洋一を引っ張っていた。周囲の熱狂にまったく影響を受けていないのか、無表情である。
洋一は、蓮田を探したが回りの喧噪に巻き込まれたらしく、どこにも見えない。
男が、いらついたように何か言ったので、洋一は肩をすくめて歩き出した。どうせ訳がわからないのである。こうなったらなりゆきにまかせてみるしかない。
男は熱狂する群衆を巧みに縫って洋一を連れ出した。そのまま建物を出て、遠くにポツンと灯っている光の方へ歩き出す。
辺りは、いくつかの建物の窓と投光器でかなり明るかった。男が向かった方向には、家ひとつないのか弱々しい光以外は真っ暗だった。
さすがに洋一が躊躇していると、背中を叩かれた。
「パット?」
「ナニシテル?イコ!」
いつの間についてきたのか、パットがぐいぐいと背中を押してくる。
「わかったってば。押すなよ、行くよ」
「ハヤクハヤク」
男は、無表情のまま立ち止まって待っていたが、パットと洋一がついてくるのを見てまた歩きはじめた。
その瞬間、男の顔に、パットを見てやれやれというような表情が一瞬走った。洋一は、内心ほっと胸をなで下ろした。どうやら、ロボットではなかったらしい。
パットの扱いに手をやきつつ、誰かに遠慮があって何も言えない、というところだろう。
とすると、パットはお嬢様なのかな?
いつの間にか洋一と並んで歩いているパットに目をやる。と、パットがいきなり洋一の左腕にしがみついてきた。
「おい」
「イイダロ」
どうやら、腕を組んでいるつもりらしい。
だが、小柄なために、洋一の腕を両手で抱きしめて、ぶら下がっているような格好になっている。
それはかまわないのだが、パットの意外に豊かな胸の膨らみが、もろに洋一の左腕に押しつけられていた。
しかも、パットの頬も洋一の左肩にかすらんばかりである。
洋一は、なるべくパットを身体から離すように、ぎこちなく歩いた。もてているらしいのは嬉しいのだが、どうも洋一自身の魅力のせいではなさそうだし、パットはかわいいがワケありなのは見え見えである。
それでなくても不安なのに、これ以上のやっかいごとは背負いたくないというのが洋一の本音だった。
男は、どんどん暗い方に向かっていた。
街灯というものが知られていないのか、ところどころにある明かりはみんな家の窓からもれる光である。
家は、洋一が心配していたような、いかにも南洋の原住民の部落にある草葺きの屋根に高床式というイメージではなかった。
一応日本でもみかけるようなツーバイフォーの家もあり、その他はほとんどがプレハブのような簡易住宅である。
経済的にも文化的にも、別に遅れているというわけではなく、単に利便性を追求しているだけらしかった。
つまり、島国であるフライマン共和国では、日本のような手間と材料のかかる家を建てる必然性がないだけの話だろう。
街灯がないのも、必要がないからだった。
要するに、こっちの方には家がほとんどなかったのである。
男は、やがて長く続く塀にうがかれたドアの前に立った。
なかなかの邸宅である。これまで通り過ぎてきた家が、門どころか境界を示す柵すらなかったのに対して、この邸宅は周囲を2メートル以上ある石塀で囲まれている。
邸宅自体は、多分邸宅だと思っているだけなのだが、塀のせいで外からは見えない。
門は石造りの立派なものであり、門の上のライトのせいで明るかった。
門のあたりだけ明るいせいで、回りの光景は闇に呑まれていたが、おそらくは映画に出てくるようなヨーロッパ風の邸宅に違いない。
フライマンタウンには、いくつかそんな建物があった。あの日本領事館も、そのひとつである。
この島でこれだけの家に住めるということは、主人はやはり指導者階級の人間なのだろう。しかし、言ってみればこの家が建っているのは住宅地のどんづまりであり、偉い人の邸宅というよりは、引退した実力者の家というイメージと言える。
まあ、引退した実力者というのが実は影で表面的な指導者を操っているというのはよくある話だが。
男が門のインターホンに向かって何か話す。洋一は、映画で見たように、鉄格子の門が自動的に開くのを期待していたが、男はインターホンを切るとさっさと自分で門を開けた。
最初から鍵などかかっていなかったらしい。 あいかわらずパットにしがみつかれたまま、洋一は邸宅の敷地に足を踏み入れた。ところでパットといえば、ここに至ってもまったく動じる様子もない。やはり、何かのワケありらしい。
門をくぐってからしばらく歩く。ところどころに路灯が立っていて道をはずれる心配はなかったが、門から建物までは20メートルはあっただろうか。ますます映画のようになってきた。
一体これからどうなるんだろう、蓮田さんはどこにいっちまったんだと内心で思いつつ、洋一は扉の前に立つ。
その家は、想像した通りの邸宅だった。
いかにも重厚そうな扉で、獅子をかたどったノッカーが付いているところなど、イギリス映画そのものである。ココ島は、かつてフランスの植民地だったのだが、おそらく英国からも入ってきた入植者がいて、その人が成功してこの建物を建てたんだろうな、と洋一は思う。
フライマンタウンを築いた入植者たちとは別の勢力だったのかもしれない。
「コッチ!」
「うわっと」
ぼんやりしていた洋一は、パットにひっぱられて、開かれた扉に転げ込んだ。
入ったところは、ホールだった。外からは見えなかったが、高い天井には巨大なシャンデリアが明々と灯っていて、非常に明るい。
洋一は結構映画が好きで、こういったシーンでは次に何が起こるかを予想する事が出来た。
初老、白い髪と白い髭を見事に整えた、老いてなお謹厳実直を絵に描いたような執事が、「いらせられませ」とか言いながらぴったり30度上半身を傾けた礼をする。
そして、「ミスターがお待ちでございます」というおきまりのセリフを言って、案内する。
もちろん、その前に客人のコートを受け取って丁寧に埃を払い、クローゼットにしまったりするはずである。
だが、またしても洋一の期待は裏切られた。
ホールは、だだっ広いだけのがらんとした場所だった。かつては見事な調度が整えられていたはずの壁は、そこに絵などがかかっていたと思われる白い部分を、ところどころ残したまま薄汚れている。
しかも、初老の執事などはいなかった。そのかわりに、若い娘がホールの真ん中に腕を組んで立っていた。
見た印象では、年齢は洋一と同じくらい、つまり20歳前後に見える。
少女というには、威厳というか落ち着きがありすぎるが、かといって女性とか婦人とかいうには若さというエネルギーが発散しすぎている、ゆえに娘という形容が相応しい。
シャンデリアの光を受けて、見事な金髪が鮮やかに輝いている。髪をほどいて自然に垂らしているのだが、クセ毛なのかもつれながら肩のあたりまで覆っていて、まるでフランスあたりの雑誌に出てくるモデルのようだ。
肌の色は白い。それも、太陽に当たらないための病的な白さではなく、内側から光っているような健康な白だ。
着ているのは、ごくあっさりとしたドレスというか、ただの普段着らしいが、ノースリープのシャツとゆったりした白い膝までのスカートが正装のように見える。
ウェストは細く、スカートからは形のいい足が伸びていて、素足にサンダルのようなものを履いているのもミスマッチ気味で魅力的と言えた。
金髪が目立ちすぎるせいで気がつくのが遅れたが、瞳の色は紫だった。これで青い瞳だったらまるきりフランス人形だが、瞳のせいで全体の印象が違ってしまっている。
あまりに美しすぎて無機的なイメージを、その紫色の瞳が人間的なものに逆転させている。だが、同時に普通の人間にはあり得ないような、例えば女神とか天使のような何か特別な存在に見せていた。
洋一が、その娘の形をした何物かに目を奪われていると、パットがじれったげに腕を引っ張った。
ペラペラペラッと女神に向かって早口で話す。
女神は組んでいた腕を解くと、パットに向かって短い言葉を投げ、くるっと振り向いて廊下をすたすたと去っていってしまった。
洋一の方には一顧だにしなかった。