第64章
まるで起重機と握手したような感じである。ジョオの手の平は暖かいし、確かに人間の皮膚の感触なのだが、恐ろしく堅いのだ。おまけに巨大だった。洋一の手の平が完全に相手のそれの中に包み込まれてしまっていた。
手を離すと、懐中電灯の光が一瞬ジョオの顔をなめた。
漆黒の肌に、白い歯がきらめく。ジョオは黒人だった。
「それでは行こう」
ジョオの声と同時に、懐中電灯が点いた。
「少し歩く。あっちに食事と寝床がある。来るだろ?」
「あ、はい。もちろんです」
野宿や押し込みに比べれば、なんだっていい。それに、パットの知り合いならまあ信用できるだろう。
そのパットの関心は、今や完全にジョオの方に移っていた。にぎやかにはしゃぎながら、しきりにジョオに話しかけている。
ジョオは短く答えていたが、ひょいとパットの腰を抱えると、肩に担ぎ上げた。パットは器用にジョウの頭を基点にして肩車の体勢に持ち込む。どうやら、今までにも何回もこうしたことがあるらしい。2人とも慣れきった動作だった。
ジョオの動きは、パットを肩に載せてもまったく変わらなかった。すべるような動作で進んで行く。洋一はあわてて後を追った。
結局、パットは子供なのだ。
洋一のことも、ちょっと珍しい兄貴が出来たくらいにしか思っていなかったのだろう。
だから、ジョオおじさんが現れた途端に、関心がそっちに移ってしまった。
洋一は、真っ暗な緩い上り坂をトボトボと歩きながら、ひどくがっかりしている自分に気づいて呆れていた。してみると、まとわりついてくるパットを案外気に入っていたらしい。
まあ、子供とはいえ美少女だし、あれだけ人なつっこくされれば情も移ろうというものだ。というより、ここ数日寝てもさめてもパットがそばにいたので、あの暖かくて小さな感触が消えると、何かが足りないような気がしてしまう。
それでも、これでどうやらパットとメリッサの姉妹喧嘩の仲裁はしなくてすみそうだ、と洋一は自分を励ました。仲のいい姉妹の諍いの原因になっているのは、結構つらいものがある。
上り坂はすぐ終わって、暗い林の中を進む。ここは星も見えないので、前を行くジョオの懐中電灯だけが頼りである。
幸い足下は舗装こそされていないものの、結構よく使われているようで歩きやすかった。
荷物を載せたトラックか、荷車でも通るのか、幅も1車線は十分ある。
もっとも街灯がないのが、この道の使われ方を物語っていたが。
5分も歩くと、唐突に林から抜け出た。
洋一がほっとしたことに、そこには結構大きな町があった……というか、家が並んでいた。
ちゃんと家の窓からは明かりがもれている。電気が来てないのではないかと心配していたが、取り越し苦労だったようだ。南の島というと絶海の孤島を考えてしまうが、フライマン共和国は結構豊かな国なのだ。
洋一がこれまで足を踏み入れた町や村で、電気がきてなかったようなところはない。まあ、比較的大きな町にしか行っていないということもあるが。
この島も、メリッサが目的地にしたくらいだから、フライマン共和国諸島の中でもそれなりの島なのだろう。
林から出ると、すぐに道は舗装道路に変わった。街灯もついている。ただし、人通りは皆無だった。
「あっちは普段は使わない港だ」
突然、ジョオが言った。後ろに目があるらしい。
「たまに小物の荷揚げとかするくらいだ。だから、誰もいなかった」
「他に港があるんですか?」
「普通は、もっと北にある港を使う。そっちには灯台もある。だが、日が暮れかかっていたから、いい判断だった」
さすがはメルだ、とジョウは呟いたのかもしれない。だが洋一には聞こえなかった。
「ジョオ!」
澄んだ声が聞こえた。
「パティ! ヨーイチさん」
街灯に照らされて、すらっとした人影が立っていた。長い金髪がキラキラ輝いている。
これだけ離れていても、その姿は衝撃だった。
パットが何か叫び、続いてジョオも短く叫んだ。
その人影は、しなやかに走り寄ってくるといきなり洋一の前で頭を下げた。
「ごめんなさい」
「え?」
「感情的だったわ。パティとヨーイチさんを置き去りにしてしまった」
「いや、別に無人島に取り残されたわけじゃないんだし、すぐジョオさんが来てくれたから」
「私が頼んだの。こっちに来てしまってから、パティもヨーイチさんもここが初めてだって気がついて。私は、何回か来たことがあるんだけど、パティはジョオがここに住んでいることは知らないはずだから、迷っているんじゃないかって……」
メリッサは頭を下げっぱなしだった。感情的になって動いたことがよほど恥ずかしいらしい。
「いや、結構面白かったよ。ジョオさんが来たときはちょっとびっくりしたけど……わっ!」
「ヨーイチ!」
不意をつかれて、洋一はひっくり返った。
暖かい息が洋一の顔にかかり、目の前にパットの大きな瞳があった。
怒っている。いや、怒っているというよりは焦っているというべきか。いずれにせよ、真剣な表情のパットはぞくぞくするほど可愛い。
「パット」
「ヨーイチ! イコウ!」
パットは、跳ね起きて洋一を引っ張る。洋一は、あやふやに笑いながらメリッサを盗み見た。
メリッサは、口をへの字にして、洋一とパットをまともに見つめていた。さすがに、姉の貫禄を見せて、何も言わない。
パットの方は、洋一の腕にしがみついて必死で引きずっていた。一刻も早く洋一をメリッサから引き離したい様子がありあり判る。
その間にも、メリッサの方をちらちら盗み見ている。いわく言い難い感情があるようだ。
ジョオにかまけて、洋一を一時的にも忘れてしまったことが原因らしいが、少し気にしすぎという気がする。それだけ洋一が好かれているのかもしれないが。
洋一は、引きずられながら、混乱した感情を持て余していた。
一番大きいのは、パットが戻ってきたという安堵感だった。自尊心も救われていて、それが喜びにつながっている。
その反面、またしてもメリッサ対パットの感情的対立に巻き込まれてしまったという、うんざりした感情もあった。
勝手なものだが、パットが去ってくれて、これでやっとメリッサとまともに話せるようになる、という期待もあったのである。
食事船の一件からみても、メリッサは現在のところ洋一にかなり入れ込んでいるように思える。
洋一としては、あれほどの美女がそばにいることすらまだ信じられないでいるのに、好意すら寄せてくれていることなど意地でも信じたくないと思っている。
期待したら最後、いずれ100%確実に訪れる破局で傷つくことになり、せっかく夢のような南の島の経験が一挙に暗い思い出になってしまうからだ。
もっとも、だからこそ少しでも長く夢を見ていたいわけで、そのためには出来るだけメリッサと仲良くしていたいと思っているのである。
ここ数日は、パットが邪魔するせいもあって、ほとんどまともに話していない。幸い、メリッサの方はパットの相手をしている洋一を非難するような態度はみせていないが、これ以上パット側につくようだと、洋一なんか見捨ててしまうかもしれない……。
そういう感情が一挙に頭の中を流れ、その嵐の後遺症でぼんやりしていた洋一は、パットに引きずられるまま一軒の家にたどり着いていた。