第63章
まずメリッサが立ち上がった。
黙ったまま服の汚れをはたき落とす。こちらの方は見ない。
パットは既に洋一の腕にしがみついていて、はっきりと所有権を主張している。
メリッサは、最後にちらっと洋一を見ると、顔を隠すようにして歩き始めた。
「メリッサ……」
洋一が声をかけた途端、メリッサは走り出す。流れるようなフォームで見る見る遠ざかって行くメリッサを、洋一はぽかんとして見送った。
アマンダから聞いた話や、メリッサの外見や態度などから、洋一はてっきりメリッサを身体の弱い深窓の令嬢のように思っていたが、ひょっとしたら彼女はスポーツウーマンなのかもしれない。
そういえば、これまでにも並外れた身体機能を何回も見せてきているのである。先入観を捨てて見れば、メリッサがどういう女性なのかは一目瞭然だ。
「ヨーイチ!」
パットがいつの間にか立ち上がって、洋一を引っ張っていた。
もうニコニコしている。メリッサに勝った、と思っているのだろう。洋一の気分など、おかまいなしだ。
洋一はなんとか笑顔を作って起きあがった。かわいい少女に好かれるのも、なにかと心労が多い。
桟橋を出ると、そこはメイン・ストリートだった。といっても、目につく家はただ1軒だけで、あとはどうみても倉庫にしか見えない建物が数軒散在しているだけである。
その向こうは急な上り坂で、道はそのまま林の中に消えている。
人っ子ひとり見えなかった。先に行ったシャナやサラどころか、メリッサの姿もない。
もうかなり暗くなってきているのだが、街灯ひとつ点くわけでもなく、あたりには不気味な雰囲気すらただよっていた。
「みんなどこに行ったんだ?」
パットも頭を振るばかりである。
とりあえず、洋一は辺りではただ一軒の「家」に向かった。2階建ての欧風の家だが、窓のシャッターはすべて閉められていて、人の気配はなかった。
どうやら、ここは必要な時だけ使う家、いや港自体がそうなのだろう。どうやら、そういった場所は少なくないようだ。洋一が初めてココ島に着いたときも、ここよりもっと寂れた無人港だったのだ。
辺りはもう真っ暗といってもいいくらいだった。水平線はまだかすかに輝いていたが、見ているうちに明るさが薄れて行く。
同時に、天空には星が輝き始めていた。日本では絶対に見ることができない、見事な満天の星々である。
今はまだ目が慣れていないが、太陽が完全に消えれば、星明かりで辺りがはっきり見えるようになる。
しかし、こんな場所での夜明かしは、出来れば御免こうむりたかった。家や倉庫がしっかりと戸締まりされているとしたら、犯罪を犯さないかぎり野宿しなくてはならないのだ。
ココ島に来たとき日本領事館で聞かされた話だと、野宿しようものなら、何か毒をもつ動物が「出る」ということで、そんな目にあうのはまっぴらである。
洋一が、無断家宅侵入罪を犯す覚悟をかためていると、パットが急に手を引いた。
振り向くと、林の中で明かりが動いていた。
パッパッと移動することから、人魂のたぐいではあるまい。光源は、道をまっすぐたどってこちらに向かってくるようである。
洋一は休めの姿勢で待った。誰がくるにしろ、座ったり寝転がったりしていては失礼だろう。あたりに座るところもないし。
パットは、ライバルがいなくなって気が緩んだせいか、腕にしがみつくのはやめていた。そのかわりに洋一の前に回り、洋一に寄りかかっている。しかも、洋一の腕を両方ともたぐり寄せて胸の前で抱え込み、安っぽい恋愛映画で恋人たちがやるような姿勢に持ち込んでいた。
洋一は黙殺していた。
毎日やられていると、学習効果で少々のことでは動じなくなっている。
パットについては、オールヌードまで見てしまったせいか、逆にそういう対称として考えなくなってしまった。冷静に考えてみると、パットはまだ子供なのである。まあ、あと2,3年もしたら意識するようになるかもしれないが。
光はまっすぐ洋一たちを目指しているようだった。林を抜けたあたりで、光の正体が懐中電灯だということがわかる。
まだ持っている人間は黒い影にしか見えないが、シャナやサラ、メリッサといった女性たちでないことだけは判った。
背景が暗闇であるためか、影はおそろしく巨大に見えるのだ。それに、メリッサたちが全員どちらかと言えば細身なのに、その影はひどく幅がある。
やがて、懐中電灯は洋一をまっすぐ照らした。洋一はまぶしさに手の平で目を覆う。
光はすぐに外れた。洋一を捕らえたせいではないらしい。懐中電灯の所持者は、明らかに洋一たちのことをあらかじめ知っていたと見える。
影が洋一の前に立ちはだかった。
洋一は、思わず後ずさっていた。
巨人なのである。身長は2メートルはあるだろう。しかも、横幅も凄い。ソクハキリも相撲取り並の巨人だったが、それに勝るとも劣らない。
突然、あたりが暗くなった。懐中電灯が消えたのである。
洋一はぞっとした。
目の前に立ちはだかっている黒い壁から、もの凄い圧迫感が押し寄せてくるのだ。
殺気などではないが、ちょうど高層ビルの前で壁を見上げたときのような、圧倒される感覚である。
パットが、何か言った。意味はわからないが、ごく平常な口調である。パットの方は圧迫を感じていないらしい。
影が動いた。
その巨大さな比べて、ごくスムースに、音もなく近寄ってくると、パットに向かって何か言う。
闇の中で影が動くのだから、洋一にはほとんど見えなかった。だが、パットははしゃいだような声で返事をして、洋一の腕から抜け出すと影に抱きついた。
「ヨーイチ、というのか。パルに気に入られているな」
驚くほどやさしい声だった。
しかも日本語である。ソクハキリと違ってネイティヴとは言い難いが、それでもガイジンが話すカタコトよりは随分マシな口調だった。
フライマン共和国には、日本語を話せる人が一体どれくらいいるのだろう?
ひょっとして、みんな話せるんじゃないだろうか。だが、カハ祭り船団にいた連中は話さなかったし……。
洋一が棒立ちになっていると、影は頷いた。
「失礼だった。俺はジョオ。ジョオ・マーシャルが通り名だ。本当はもっと長いんだが、ジョオと呼んでくれ。怪しいもんじゃない。パルやメルとも昔から馴染みだ」
「はあ。ヨーイチ・スサです」
洋一はぼんやりと答えた。無意識のうちに手を差し出す。
影……ジョオはスッと手を伸ばして握手してきた。