第62章
不意にボートがスピードを落とした。
エンジンの爆音がゴロゴロいうような音に変わり、傾斜していたボートが水平になって、洋一はやっと前方を見ることができた。
島は目の前に広がっていた。ほとんど真横から降り注ぐ夕日に染まって、どこもかしこも真っ赤である。
前方の砂浜だったが、メリッサはボートの向きを変えた。砂浜と並行して、ゆっくりと進める。
突然、シャナが言った。
「波が砕け散っていますから、きっとあの下は岩だらけですよ」
「そうなのか」
無意識に返事してしまってから、洋一はシャナをにらんだ。シャナは、どこ吹く風に吹かれたといった態度で、かすかに微笑みを浮かべていた。
いくら頭がいいとは言え、ほんの少女といっていい娘に心を読まれ、フォローまでされてしまうというのはあまりいい気持ちではない。
まあ、シャナは親切で言ってくれたんだろうし、と洋一は自分を慰めた。大人として、親切に対しては感謝しなければならないところを、睨みつけるが如き態度をとってしまう洋一は、馬鹿にされても仕方がないのかもしれない。
しっかりしなくては、と心に誓う洋一をよそに、メリッサは慎重にボートを進めていた。かなり岸に近いので、寄せ波と引き波がぶつかって小さなボートは大揺れに揺れている。
加えて、海底の様子がよくわからないので、油断すると底をかすったり岩に乗り上げたりしかねない。
突然、サラが鋭く叫んだ。間髪を入れず、メリッサが船外モーターを操作する。ボートは斜めに後進した。
いつの間にか、サラとシャナはボートの前方で海面を睨んでいた。何も指示されなくても、自然に見張り役をかってでているのだ。
というよりは、こういった場合の常識なのだろう。みんな島の娘だ。
メリッサは、サラとシャナの指示で着実にボートを進めていった。
いつの間にか、島の砂浜が近づいてきていた。波もおさまってきている。海岸ばかり見ていて気がつかなかったが、どうやら湾に入り込んでいるらしい。
ずっと砂浜が続いていたが、不意に砂浜が途切れてコンクリートの堤防のようなものが見えた。
その先には、突堤が視界を横切っている。桟橋は木造らしい小規模のもので、数隻の船が横付けされていた。
サラが振り向いて何かを言った。メリッサが頷いて、船外モーターの出力を上げる。
ボートは桟橋に向かって速度を上げた。
シャナがゆっくりと座り直す。洋一の顔を見て、ちょっとためらってから言った。
「フテ島、だと思います。景色に見覚えがありますから」
「ヨーイチさん、フテ島です。なんとか間に合いました」
後ろからメリッサがシャナを遮るようにして言った。
洋一は首を縮めていた。なんとなくだが、緊張がボートの上を走っているような気がする。
サラは我関せずとばかりにそっぽを向いているが、洋一の腕にしがみついているパットがじりじりしながら洋一を睨みつけている気配が伝わってきていた。
今にも何かがはじまりそうだったが、その時あたりが急に陰った。
夕焼けで真っ赤に染まっていた風景が、急速に明るさを失って行く。
振り返ると、太陽が水平線上で真っ二つになっていた。今日は雲がないので、ストレートに日没が見える。
もの凄い赤だった。太陽がはっきり見える。太陽は、みるみるうちに水平線に没した。
「急ぎます」
メリッサは巧みに船外モーターを操って、古いタイヤが重なっている桟橋を目指す。
最後に、斜めになりながらボートが古タイヤに軽くぶつかった。サラが身軽に桟橋に飛び移って、素早くロープを杭に巻きつける。
間一髪だった。その瞬間に、太陽が完全に隠れた。
西の方の空が赤く染まり、明るさがみるみるうちに衰えてゆく。
メリッサはエンジンを切った。もう一本のロープを杭に繋いで、軽い身のこなしで降り立つ。シャナも、いつの間にか桟橋に立っていた。
洋一は、パットを抱えたまま危なっかしく立ち上がった。ボートがロープで固定されているために揺れは少ないが、右手に女の子を一人ぶら下げているのだから、どうしても安定が悪くなる。
パットは頑固にも、この場に至っても洋一から離れようとしない。なぜか意地になっているらしい。
洋一は、仕方なくパットを抱き上げると桟橋によじ登った。足場が不安定だが、なんとかふんばって立ち上がる。
見ると、サラとシャナの後ろ姿が見えた。足早に去ろうとしている。2人とも目当てでもあるのか、自信を持った足取りである。
振り向くと、メリッサが腕を胸の前で組んで、こちら睨みつけていた。視線は、パットに釘付けである。
パットの方は、抱き上げられているのをいいことに洋一の首に両手を回していて、メリッサの様子に気づいていない。
突然、メリッサが鋭く何か言った。
パットがぱっと顔を向けて何か言う。2人はそのまま何か言い合っていたが、不意にメリッサが洋一の方を見た。
「ヨーイチさん。パティを甘やかさないで下さい」
堅い表情だった。口調も、感情を押し殺している様子が見え見えである。
美女が怒ると迫力がある。洋一はあわててパットを降ろした。
パットは猫のような身のこなしで洋一の腕から降り立つと、背筋を伸ばしてメリッサに相対した。一歩も引いていない。今にも、指先から爪が伸びそうだった。
気の強さは姉妹だけあって甲乙つけがたい。
あたりの空気が緊張すると、洋一は居たたまれなくなってこそこそと去ろうとした。サラとシャナの後ろ姿を追って、こっそりと歩き出す。
「ヨーイチ!」
「洋一さん!」
ほとんどハモッた声が、洋一を呼び止める。こわごわ振り向くと、2人の美少女が追いすがってきていた。
メリッサも、さっきとはうってかわって頼りなさそうな顔をしている。ほとんど洋一と変わらないくらいの身長のはずだが、なぜかパットと同じくらい小さく見える。
2人とも、そっくりな表情をしていた。
洋一が振り向いた途端、2人は同時に洋一の腕に飛びついて、しがみつく。
「ちょっと待ってくれ!」
洋一の悲鳴が上がった。メリッサとパットが、洋一の腕を逆方向にひっぱり始めたのである。
パットはともかく、メリッサは細い身体に似合わず、料理で鍛えた腕力がある。本気になったら洋一より強いかもしれない。
それに対して、パットはまだなんといっても子供だ。洋一の腕の耐久力を考えに入れなければ、この綱引きの勝負は見えている。
一瞬釣り合った後、やはりメリッサの力が勝った。
意地でも手を離さないパットもろとも、洋一はメリッサの方に引き倒される。メリッサの方もひっぱるのに夢中で、力を抜くのが遅れた。
3人は折り重なって倒れた。
幸い、地面はアスファルトではなく、ところどころに雑草すら生えている土だった。
3人とも泥まみれにはなったが、怪我はなかった。
しばらく、全員が黙ったままだった。
こんなとき、漫画なら全員が笑い出して丸く収まるものだが、と洋一は思ったが、現実はそんなにうまくはいかない。