第61章
メリッサが、舷側をひらりと越えた。身軽に縄梯子を伝って、小型のボートに降りる。
洋一は、おっかなびっくり舷側を越えた。パットが手を離してくれたので、思い切って飛び降りた。グラグラ揺れるボートの上で何とかバランスを取った途端、背中にパットが降ってきて、洋一は尻餅をついた。
「パット、気をつけてくれよ」
パットは、相変わらずしがみついたまま、プイと横を向いた。だが、よく見ると横目で洋一の様子を伺っている。怒っているふりをしているが、引っ込みがつかなくなっているのだろう。
洋一はやれやれとばかりに足を伸ばした。ボートは、4,5人くらいならゆったりと乗れそうだ。しかも、船外機付きのボートだから、今度は漕がずにすむ。
続いて、サラとシャナがふわりを降りてくる。この少女たちにとっては、手慣れた動作なのだろう。全員が島の娘だ。
メリッサは既に船外機についていた。洋一が見ていると、無表情でもやい綱を解いて、エンジンを作動させた。
ボートはいきなり走り出した。
みるみるスピードを上げて、カハまつり船団の中心を突っ切ってゆく。爆音以外に何も聞こえないが、周り中の船から男たちが顔を出して見送っているのがよく見えた。
きっと、新しい噂が走るだろう。謎の日本人が、カハ祭り船団の綺麗どころをそろえて去っていったと。
いや、この疾走を何かのデモンストレーションと思う連中もいるかもしれない。今や洋一は、神様かその使いと思われているらしいから、噂する側の想像力の暴走には限度がないだろう。
考えるだけで頭が痛くなる。だから、洋一は考えるのをやめた。
指揮船に着くと、洋一たちは黙々と荷物を持ち出して、すぐに出発した。指揮船は無人のままである。たった数日とはいえ、慣れ親しんだ船を去るのは意外なほどつらかった。
おそらく、ただ指揮船から離れるということだけではなく、それなりに安定した平和な暮らしから去ることへの不安なのだろう。
またしても、洋一は運命に流されるのだ。
最初に指揮船を出発したときの決心など、とうにどこかに失せている。ソクハキリとアマンダに聞かされた秘密に比べたら、洋一の思いなど何ほどのこともなかったわけだ。
小なりとはいえ、一国が動こうとしているのである。その中で、洋一なんかが何をどうしようと大した影響はない。
その意味では、ソクハキリたちの努力も、むなしいあがきかもしれない。しかし、やはり洋一としては、訳の分からないまま一方の陣営に取り込まれることは避けたかった。
とは言うものの、もう抜け出せないくらい巻き込まれている。今さら何事もなかったように去って行くのは無理だ。
それに男としてはやはり、ここ数日の夢のような暮らしを忘れたくない。
日本に帰ったら、間違いなく洋一自身がこれまでの経験を夢のように思うだろうし、だとしたら出来る限り長く経験しておくというのが当然だ。
日本の平凡な一学生に戻ったら、メリッサやパットのような美少女たちのそばに近寄ることも出来まい。そういうことの出来るのは、物語のヒーローだけなのだ。
奇妙なことだが、洋一が自分の立場を意識したのはこれが初めてだった。
何回か潮風に吹かれながら、ハーレクインロマンスの主人公の立場に自分をなぞらえてみたことはあったが、本気でそんなことを考えていたわけではない。
だが、今はまさしくそうなのだ。洋一は、アドベンチャーロマンスの主人公なのである。
複数の美少女や美女を従え、戦乱の中を運命に翻弄されるままにさまよう男。ガラではないが、そうなってしまっている。
いまだ目的もなく、それどころかこれからどうすればいいのかの指針すら持たない洋一が、メリッサたちに甘えたままでいいのだろうか。
このままでは、メリッサやパットを巻き込んでしまいはしないか。
巻き込まれているのはむしろ洋一の方かもしれないが、それでもメリッサは洋一がいなければ、アマンダやソクハキリと仲違いせずに済んだはずだ。パットだってアグアココで大人しくしていただろう。
洋一には責任があるのだ。少なくとも、メリッサたちが危険な目にあうのを防ぐという責任が。
洋一は頭を振った。ようやく、あたりがはっきりと見え始めた。今までは夢を見るように座っていただけらしい。
ふと見ると、すでにカハ祭り船団ははるか後方に去っていた。
ボートは快調に進んでいる。船外モーターだけにかなり高速が出せるようだ。
洋一の手は、ボートの手すりをしっかりと掴んでいた。いつの間にか洋一も島の生活に慣れたのか、かなり揺れるボートに合わせて、ごく自然に身体が動いている。
ただし、身体の右側が重かった。例によって、パットががっしりとしがみついているのだ。
前を向いているため、船尾のメリッサは見えないが、なんとなくうなじのあたりに視線を感じる。チクチクするところをみると、あまり好意的な視線ではないらしい。
パットの方は、洋一に寄り添って横座りに座ったまま、しごく満足そうにしていた。フンフンと鼻歌らしいものすら聞こえてきている。
洋一の前には、サラとシャナが並んで座っていた。2人ともこちらを向いていて、同じような無表情を見せている。
別に不愉快であるとかではなく、この顔が2人の通常の表情なのだろう。それにしても、こうやって並んでいる様子はまさしく姉妹そのものだ。なぜもっと早く気がつかなかったのか不思議なほどだ。
といっても、顔立ちはそんなに似てはいないし、シャナがいつものようにほとんど目を閉じて瞑想にふけっているように見えるのに対して、サラは絶え間なくゆっくりと辺りを見回し続けている。
性格にしても、似ているようでいてその実かなり違う。シャナが熟慮断行の計画型だとしたら、サラはむしろ突発的に動く激情型であり、かつ賭博好きな性格といえるかもしれない。でなかったら、いくらソクハキリやアマンダに頼まれたとは言え、カハ祭り船団の指揮船に、夜中に忍び込んでくるようなマネをするはずがない。
それでも、2人は似ているのである。姉妹だと言われれば、ほとんどの人が信じるだろう。もっとも、遠いが血はつながっているらしいので、それほど不思議というわけでもないが。
船外モーターの爆音のせいで、誰も口をきかない。何か言っても聞こえないだろう。洋一にしがみついているパットが2,3回何か叫んだようだが、洋一が反応しないのであきらめてしまった。
30分も走っただろうか。
前方にぼんやりと島らしい影が見えてきた。そういえば、いつの間にか影が長くなっている。南洋にいるせいで、夕方になっても暗くなることはないが、やはりなんとなく日が陰ってきているような気がする。
振り返ると、太陽は驚くほど水平線近くにあった。もうすぐ日没である。
日が沈んだら、あっという間に暗くなるのだが、こんなボートで大丈夫だろうか。
洋一が考えているうちに、前方の島はぐんぐんと近づいてきた。メリッサも気がせいているらしく、ボートはこれまで以上に飛んだり跳ねたりしていて、洋一は必死で手すりにしがみついた。