第5章
いつの間にか寝込んだらしい。乱暴に揺さぶられて、洋一はやっとのことで立ち上がった。身体がポキポキいっているが、かなり疲れはとれたようだ。もっともまだ手足が重い。
「迎えが来た。起きたか?」
「はあ」
洋一は、のびをしてあたりを見回した。
すっかり陽が落ちて、もうあたりは真っ暗だった。このへんにはなんにもないため、回りを見ても、もう草原なのか森なのかも見分けがつかない。
そのかわり、天空は黒い部分が少なく見えるくらい、星が輝いていた。
あまりにも星が多すぎて、星座などはまったく見分けられない。今夜は珍しくよく晴れていて、見ていると目が痛いくらいだ。
領事館の回りは、結構街頭などが明るくてこれほどの空は見えなかった。さらに言えば、ココ島に来るまでは、船や町では常に人工の明かりが邪魔をして、自然の星空というものは見えなかったのである。
「おい、行くぞ」
蓮田の声に、洋一は我に返った。
見ると、ありがたいことに自動車らしいヘッドライトが見える。今度は牛車は免れたようだ。
車はトラックだった。無蓋で、荷台には汚れているが一応シートらしいものがひいてある。
蓮田が平然と乗り込むのを見て、洋一も続いた。3等書記官が平気なら、なんで洋一ごときが躊躇することがあるだろう。
トラックはすぐに出発した。洋一は荷台につかまって覚悟していたが、思ったほど揺れは少なかった。島のこちら側は道路整備が進んでいるのか、あるいは蓮田の運転がよほどひどかったのもしれない。
「エエト・・・ヨウイチ・スサ、サンデスカ」
突然、隣に座っている人が話しかけてきた。トラックのエンジンがうるさくて、怒鳴っているらしいのにかろうじて聞き取れる程度である。
「そうですが!」
反射的に怒鳴り返してから、洋一は気がついた。今のは、なまってはいたが日本語だった。
「ドウモ!ワタシ、パット」
その人物は、また怒鳴るように声を張り上げて、手を差し出してきた。
トラックは走行中で、しかもどこを走っているのか街灯などはまったくない山の中である。明かりといえばトラックの前方ライトだけで、隣に座った人も輪郭がかろうじて見分けられるくらいの明るさしかない。
ぼんやりと見える手を、洋一は恐る恐る握った。すると、相手は手をぶんぶん振り回してきた。
「ヨウイチ、ヨロシク!」
意外にも、握った手はきゃしゃだった。それに柔らかい。
いきなり、荷台が明るくなった。トラックが大きくカーブして、洋一はバランスを崩して投げ出された。握手したままだったパットが洋一にひきずられるように倒れ込む。
洋一の顔のすぐそばに、パットの胸があった。
膨らんでいる。おまけに、夜になってもムシ暑いココ島のファッションは、Tシャツかランニングシャツと相場が決まっているのだが、パットは後者だった。おまけに、下はジーパンをホットパンツ風に切ったショートパンツである。
洋一の目の前で揺れる胸元には、身体がきゃしゃな分見事に見える谷間があり、汗が幾筋か流れている。
後続の車のヘッドライトが荷台をよぎったのだろう。一瞬の光の中で、洋一はその映像を目に焼きつかせた。
「すみません!」
洋一は飛び起きて、パットを引っ張り上げた。まだパットの手を握ったままだった右手が熱い。あわてて離す。
パットは、トラックの運転席の方に向かってペラペラペラっと激しく叫んだ。どうやら悪態のたぐいのようだ。
それから、どしんと洋一の横に腰掛ける。
「ゴメン、ヨーイチ」
ペラペラっと言いかけて、口ごもる。
「ああ、いや、えーと、アイアムノートラブル・・・」
「オウ!ユーキャンスピークエングリッシュ?」
「いや、えーと、アイアムスモールスピーク」
単語が出てこない。
洋一とて、日常会話レベルの英会話ならこれまでの旅でなんとかしてきた自信があるのだが、真夜中に走るトラックの荷台の上、しかも真っ暗な中で、水着に近いような服を着た初対面の女の子と密着したまま、平気で会話が出来るほどではない。
なんとか、英語では難しい話は出来ないことを伝えることが出来た。
パットの方も、英語が得意というわけではないらしい。日本語よりはまし、といった程度だが、洋一の方のヒアリングに難があるため、結局はパットのカタコトの日本語になった。
「ワタシタチ、マッテタ!」
「待っていた?僕を?」
「イノサンガ、ヤクソクシタ!」
「約束?」
だが、怒鳴りあわなければ通じない上に、パットの日本語はおせじにもわかりやすいとは言えない。
大した意志の疎通も出来ないうちに、トラックは目的地に到着したらしい。
エンジンが止まって、あたりは静まり返る。洋一は、ぎこちなく荷台から飛び降りてあたりを見回した。
どうやら、広場のような場所らしい。投光器がいくつかあって、トラックを照らしている。広場の回りにはいくつか建物があり、かなりの人数が忙しげに動き回っていた。
まるで災害現場か、あるいは対策本部みたいだな、というのが洋一の第一印象だった。テレビで見る大規模災害の現場中継がこんなかんじだろう。
なんとなく空気がピリピリしていて、動き回る人たちの顔つきも殺気だっている。
「ヨーイチ、コッチコッチ」
パットがいきなり、洋一を背中から押した。そのままぐいぐい一番大きな建物の方に押してゆく。
「やめてくれ!自分で歩けるよ」
洋一は、あわててパットの手から逃れる。パットはきょとんとしたが、すぐに頷いて洋一と並んで歩き出す。
横目で見ると、パットは小柄で細身だった。
ウエストが細いため、バストが張り出してみえる。もっとも身長を基準にすれぱ、パットは十分グラマーといえるだろう。日本人の平均身長がせいぜいの洋一の顎に、頭のてっぺんがようやく届くくらいの背たけしかない。
投光器の黄色い光のせいで本来の色はわからないが、パットの髪はどうやら金髪のようだ。あまり長くない髪を、ポニーテールにしていた。
肌の色や瞳の色は、サラや領事館のメイドたちに比べて白っぽいので、どうやら白人系らしい。
小作りな顔は造作が整ってはいたが、いかにも小妖精じみていて、まだ幼いといってもいいくらいだった。
ただし、なんとなく少女であると言い切ってしまうのをためらうような感触があり、ローティーンからハイティーンまで、いくつと言われても頷ける気がする。
「ナニ?ヨーイチ」
「い、いやなんでもない」
洋一は、あわてて視線を戻した。
蓮田が、誰かと忙しく会話しながら早足で洋一の前を歩いている。蓮田の顔も、いつものぶっちょズラに戻っていた。今話しかけたら、いつもの皮肉な返事が返ってくるだろう。つかの間の親しい心の交流は消えたとみてよさそうだ。
「パット、ところでこの騒ぎは一体」
言いかけて、洋一はやめた。
どうせ誰かが説明してくれるだろうし、パットがカタコトの日本語で教えてくれても、洋一に理解できる言葉で話してくれるかどうか怪しい。
パットには、洋一の声が聞こえなかったようだ。パット自身も、かなり焦るというか余裕のない顔つきをしていて、なんだかわからないが大変なことになっているらしい。
すぐに建物に着いた。
どうやら公共施設のようだった。平屋で、装飾などはまったくない、実用一点張りの建物である。
フライマンタウンではヨーロッパ形式の屋敷をいくつも見かけたし、警察署や裁判所などは装飾過多のなんとか式だったが、このへんには建築ブームが及ばなかったのだろう。
内部は、まるでプレハブだった。
会議室らしい部屋に案内され、洋一は蓮田の隣に着席した。
会議机が円形に並べられ、席は半分ほど埋まっている。ただし、席についていない人たちが、会議室の壁に張りついた椅子にぎっしりこしかけていて、椅子が足りなくて立っている人もたくさんいた。
あたりに漂っている雰囲気は深刻で、それでいてなんとなく熱気に包まれているようだった。ある種の期待のような感触もある。
そして、部屋にいる大多数の人の視線は、洋一に集まっていた。
まともに視線をからめてくる人はほとんどいないが、視界を外れたあたりからの、多数の人間の凝視が痛い。
さりげなく視線をめぐらすと、もはやそこにはそっぽを向いた人たちしかいないが、今度は反対側の顔の皮膚がムズムズしてくるのだった。
不思議なことに、蓮田にはその視線は浴びせられていないようだった。注目の的になっているのは、洋一だけなのである。
その蓮田は、洋一そっちのけで隣の人と話し込んでいて、問いただせるような雰囲気ではない。
席につくのは、町なのか村なのか不明だが、どうやら主だった人のようだった。見た限りでも、Tシャツやジーパンといった格好の人はいない。この暑いのに、半数以上がYシャツにネクタイをしめている。
ネクタイなどは、ココ島に着いてからは蓮田くらいしかしているのを見ていない。猪野すら、アロハを着ていたくらいなのだ。
どうやら「公式」な集まりらしい。
ふと気がつくと、パットが正面の壁際の椅子に座っていた。パットは洋一の視線を捕らえると、ハデなウィンクを送ってきた。
突然、あたりが静まり返った。
誰かが部屋に入ってくる。部屋はもう壁際に座るどころか、もたれかかる場所もないくらいギャラリーでいっぱいで、テーブルの回りにもかなりの人が立っているのだが、それらの人波が割れて、誰かが進んでくることが判った。
大物らしい。
数人の先触れらしい若い男が、手早く立っている人を押しのけて道を作る。
そして、花道を歩むプロレスラーのような巨漢が姿を表した。
身長は2メートルはあるだろう。にもかかわらず、ずんぐりして見えるくらい、身体に肉がついている。
ハデなアロハのようなシャツを着込んでいるが、シャツの胸の隙間から赤銅色に焼けた筋肉がはみ出していて、それだけで洋一は気圧されて身体を縮めたくらいである。
顔も巨大だった。太った人間にありがちな肥満顔ではないが、ひとつひとつの部品が大きいせいで全体的にむくんでいるように見える。
よく見ると、ハンサムとは言えないまでも、男くさい、なかなか魅力的といってよい顔だったが、圧迫感が先にたってそこまで気がつく人はあまりいないだろう。
その男は、会議席についている人たちをぐるっと見回すと、無表情でどっかと席についた。
回りから「ソクキハリ」という小さな声が起こったが、すぐに静まりかえった。
それがその男の名前なのか、それとも何かの役職名なのか、とにかく彼が来たことで会議の準備は整ったらしかった。
まず、蓮田の隣にいた男が立ち上がって、何かをしばらく話した。
途中で何度かヤジのようなものが飛んだり、あるいは質問や横やりがはいったらしいが、全体としては男の演説は順調に5分ほどで終わった。
続いて、数人がかわるがわる話す。
洋一には、その内容はまったく判らなかったが、言葉の調子からかなりの興奮が感じられた。そして、それはひとりが話し終わるごとに高まってゆくのである。
「蓮田さん、これ・・・」
「黙っていろ」
洋一の質問は、蓮田の一言で封じられる。もう蓮田はいつもの調子に戻っていた。
5,6人目あたりが話し出す頃には、もう会議室内は完全な興奮状態だった。誰かがひとこと話すたびに、オウ!とでもいうような反応が返ってくる。
会議机についている者の半数が立ち上がっていた。それ以外の立っている連中は足を鳴らして、今にもデモをはじめそうないきおいだった。
ふと見ると、パットも興奮して腕を振り回して何かを叫んでいる。もともと暑苦しかった部屋が、みんなの熱気で息苦しいくらいである。洋一の目が自然にパットの胸元に吸い寄せられると、汗が幾筋も流れているのが見えた。
はっと気づいて目をそらした洋一は、先ほど最後に入ってきた男が、周囲の喧噪を無視したように、微動だにせずに腕を組んでいるのに気がついた。
目を閉じているように見えるが、彼は薄目を開けてじっと洋一を見ていた。
何の感情も感じられない冷たい目だ、と思った瞬間、その男はウインクした。一瞬、そのいかつい顔に笑みが走る。
おそらく、洋一以外の誰にも気づかれなかっただろう。
次の瞬間、男は腕を解いて立ち上がっていた。
あいかわらず無言のままである。だが、頭ひとつ突き抜けた彼が立っているだけで、それに気がついた群衆の興奮は次第に収まってきた。
部屋中の者が黙ってしまっても、男はじっと立ったままだった。
群衆の視線は、ひとつ残らず男に集中してした。みんな、男が何か言うのを待っている。 男は、さらにしばらく沈黙を保った後、ゆっくりと左右を見回した。
そして、何か言ったようだった。
いきなり洋一は、爆発に巻き込まれたと思った。
回り中の人間が叫んでいた。何度も両手を中空につきだしている男、飛び跳ねている女、まさに熱狂だった。
前に一度だけ行ったことのある、ロックバンドのコンサートに似ているな、と思う間もなく、洋一は肩をつかまれて、後ろからぐいと引かれた。