第54章
「ところで、何か私にご用なのでしょうか?」
シャナが言った。
そういえばそうだった。洋一は、ここにシャナを探しに来たわけではないのである。本来の目的は、この非常事態に何とか役立ちたいということではなかったのか?
いや、そういえば、シャナについてはもっと別の疑問があった。
「シャナ、昨日サラと会ったよね」
「はい」
「サラは何しにきたんだ?」
「よく知りません」
シャナは真面目くさって言った。あいかわらず感情を伺わせない。この娘は政治家とかギャンブラーになったらトップクラスまでいくだろうな、と洋一は思う。
「俺と会ったときには、食事船に行きたいと言ってたんだけど」
「そのことは私も言われました。それで案内しました」
「案内しただけ?」
「はい。ゴムボートは、持ってきてましたから。サラさん、ボートを漕ぐのがとても上手です」
「なるほど」
意識して話をそらしているのか、何も知らないのか、これはやはり一筋縄ではいきそうにない。
だが、数カ国語を自在に操る少女なのだ。何かを隠そうと思っているとしたら、洋一ごときに太刀打ちできるとは思えない。
洋一は肩をすくめた。ここで問いつめても、どうにもならないだろう。遠回りに思えても、やはりシャナの信頼を得て行く方がいい。
「それじゃ、行こうか」
シャナは頷いた。その瞳が少し和んだように見えたのは、洋一の期待が見せた幻だろう。 つまらなそうに海を見ているパットを促して、洋一は歩き始めた。どこに行くあてはなかったが、いつまでもここでぼやっとしていても始まらない。
ところが、数歩も歩かないうちに、艦橋から走り出てきた人影があった。その女性は、あたりを見回して洋一を見つけると、うれしそうに大きく手を振った。そのまま、小走りに駆け寄ってくる。
「ヨーイチさん!」
そういえば、食事船にはメリッサがいるのだ。意外にも洋一は、メリッサのことを完全に忘れていた。
そもそも洋一はメリッサのことを、少し非現実的な存在のように感じている。もう見慣れたはずなのに、あまりにも完璧すぎるメリッサの容姿を見るたびに、洋一は自分が見ているものが何かの間違いではないかと思うのだ。
パットやシャナもとびきりかわいいが、彼女たちはまだ洋一が認識する現実の範囲内に収まっている。街角ですれ違ったり、喫茶店や駅のホームで見かけておっ可愛いな、と思う程度のインパクトしかない。
これがメリッサとなると、彼女が洋一の目の前に現れるたびに、どうしても自分が映画でも見ているのではないかという疑いが晴れないのだ。
そんな洋一の思いを知らないメリッサは、端麗な顔に無邪気な親しみをうかべて洋一の前に立った。少し頬が上気して、鮮烈な魅力を発散している。どうも、メリッサの方はパットほど自分の立場をわきまえていないらしい。
「やあ」
洋一は短く、呟くように言った。
洋一の方は、自分の立場を思い知っているので、どうしても遠慮がちになる。パットの反応も気がかりだった。
万一、ここで昨夜の大立ち回りの再戦でも始められたらと思うと、今の状態ですら気が気ではない。
「今日はお昼、持っていけないでごめんなさい。こちらの厨房が忙しくなってしまって、どうしても抜けられなかったものですから」
「そんなことはいいんだ。ランチは食べたし、美味しかったし」
「ありがとうございます。私が作ったの。急いでいたから、ちょっと手抜きになってしまって、心配だったんだけれど」
メリッサは右の人差し指を額に当てて、少し首をかしげてみせた。しかし口元は笑っている。
ほとんど物理的な衝撃を受けて、洋一はよろめいた。目の前30センチほどで、ハリウッド級、いやワールドビューティコンテストクラスの美女が微笑んでいるのだ。いくら見慣れたといっても、普通の日本人である洋一が平気でいられるはずがない。
洋一は救いを求めて視線を走らせた。いつもなら、このあたりでパットが乱入してうやむやにしてくれるはずだ。
だが、パットの姿はなかった。ついでに、シャナもいなかった。どうやら2人でどこかに行ってしまったらしい。
あるいはシャナが気をきかせてくれたのかもしれないが、洋一にはありがた迷惑である。
「どうかしたんですか?」
「パットがいなくなってしまったみたいだ」
「シャナちゃんと2人で下に行くのを見ましたけれど」
メリッサが指さす方を見ると、目立たない階段があった。
「あれは? どこに通じているの?」
「船倉か機関室じゃないかしら」
「じゃあ、行ってみようか」
洋一はぎくしゃくと歩き出した。
いつの間にか、艦橋や甲板に鈴なりの人が出ていて、その全員がこっちの方を伺っていることに気がついたのである。
パットのときは隠れるようにして見ていた連中も、メリッサ相手だとおおっぴらになるらしい。
食事船でメリッサに会ったのは失敗だった。
パットの場合は、まだ幼いということもあって、洋一と親しくしていても何となく微笑ましいような雰囲気があったのだが、メリッサとなれば話は別だ。
やはり、この船上での女神に手を出すと誤解されるような行動は、慎むべきだった。
だがもはや手遅れかもしれない。これでスケコマシとしての洋一の悪名は、カハ祭り船団全体に轟きわたるに違いない。
視線を前方に据えていても、回り中からの視線が体中に突き刺さってくるのが感じられる。それでも何とか躓きもせずに、洋一は階段につくと、飛び込むようにして降りた。
後ろからメリッサが軽い足音をさせて続いてくる。洋一と行動を共にするつもりらしい。
「メリッサ、仕事はいいのかい?」
「大丈夫です。夕食の仕込みまでは暇なんです」
メリッサは真面目に応えた。洋一は、こっそりとため息をつく。
美女といっしょにいられるのは嬉しいのだが、今の状態では精神衛生上よろしくない。
だが、考えようによってはメリッサはパットやシャナよりはるかに有効な道案内かもしれない。
食事船の中での顔の効き方はシャナの比ではないだろうし、日本語がよどみなく話せるというのは、洋一にとってこれ以上ないくらいの助力になる。
それに、メリッサが何かやりたいとか見たいとか言えば、この食事船の中でそれを拒めるのはアマンダくらいなものだろう。無敵のパスポートを握ったようなものだ。
2階分ほど降りて、狭苦しい通路に出た。あまり人が来ない場所らしく、薄汚れていて明かりもまばらだ。
「パットたち、こっちに来たのは確かなのかい?」
「ちらっとだけど、2人が階段を降りるのを見たし、一本道だからこっちに来たはずです」
メリッサはきっぱりと言った。少し、表情が堅い。
「とにかく、進んでみよう。迷子になるっていっても、この船では知れているし」
食事船は、それでも全長数十メートルはある。歩きまわれば結構な広さはあるだろうが、まさか迷って飢え死にするようなこともあるまい。