第52章
パットは満腹したらしく、猫そっくりにソファーに長々と伸びている。さっきまであれほど怒っていたのに、その怒りはどこかにしまいこんでしまったらしく、満足しきった表情である。
しかし、洋一の方はそうはいかない。本来ならこの指揮船の唯一の男として、パットやシャナなどの女の子たちを守る義務がある。
にもかかわらず、実体はみんなの足手まといになりながらウロウロしているだけだとは、あまりにも情けないではないか。
シャナは行方不明になってしまったし、サラのことも気にかかる。そして、カハノク族なのかどうかはわからないが、仮想敵はカハ祭り船団の船を沈めるという暴挙に出ているのだ。
洋一の中で何かが変わってきたようだった。昨日までは、とにかくひたすらに関わり合いにならないように頭を低くしていようと考えていた。カハ祭り船団とかカハノク族との抗争とか、洋一とは本来何の関係もないことにへたに首を突っ込んで、訳の分からないまま怪我でもしたらつまらないと思っていたのである。
だが、どうやらもう知らん顔していられる状態ではなくなっているようだ。
洋一のそばで、実際に船が沈められているのだ。おそらく怪我人も出たことだろう。
そして、それは洋一の身に起こっても不思議ではない状況での事件だった。
パットやシャナ、メリッサといった女の子たちも、否応なしに巻き込まれている。自分の目の前で、彼女たちに何か起こったりしたらどうすればいいのだろう。しかも、そうなる確率はかなり高いと言ってよい。
目の前で伸びているパットや、まぶしいメリッサの笑顔を思い浮かべる。そして、さっき見た沈みかけていたり焦げたりしていた船を思い出す。
もはや、流されれば良いなどと逃げていられる事態ではないのは明かだった。
洋一は、コーヒーを飲み干して立ち上がった。満ち足りた猫のようなパットを見てから、外に出る。
外は、あいかわらず晴天だった。気温は高いが、風が強いので心地よい。
ココ島の方を振り返ると、カハ祭り船団の船が集まっているのが見えた。数隻はどうやら浅瀬に乗り上げているらしい。沈没する前に何とか浅瀬にたどりついたのだろう。
その他の船は、岸のそばに停泊して何かを積み込んでいる。こんなところで補給が出来るのだろうか。
食事船を含む大多数の船は、朝と同じように沖の方で距離をおいて停泊していた。これだけの船団では、襲われる危険があるからといっても、急に何とかするというわけにもいかないのだろう。
甲板には誰もいなかった。シェリーもアマンダと一緒にどこかに行っているようだ。
洋一が残っていたゴムボートのもやい綱を解いていると、パットが船室から出てきた。
「パット、アマンダさんに会いたいんだ。一緒に来るか?」
「イク!」
パットの答えは単純明快である。
洋一は、もう一度書き置きを残した。今回はアマンダに会うのが目的であることを付け加える。これで、少なくとも行方不明になったとは思われないだろう。
洋一とパットは、再び指揮船を離れた。
洋一はゆっくりとボートを漕いだ。今ではもうゴムボート漕ぎは慣れたもので、波を越えながら着実に進んで行く。
目的地は食事船である。アマンダがいる確率が一番高いし、いなくてもいずれは帰ってくるだろう。それに、シャナもいるはずだ。
もちろんメリッサも。
行ってどうするかは、考えていない。とりあえず動かなければならないと感じたまでで、その衝動に動かされたというのが本当のことだった。
ただ、行けばどうにかなるという直感があった。
洋一は、慎重なように見えて実は感覚で動くような性質がある。いつもはちゃんと計画を立て、見通しをつけてから行動するのだが、時々後先考えずにやってしまうのだ。
その結果は、良いこともあれば悪いこともあり、一概には言えない。
例えば、ココ島に渡るなどという暴挙に出た結果として、カハ族とカハノク族の抗争に巻き込まれるというやっかいな状況に陥っているのだが、その反面美女や美少女に囲まれながらの南の海岸を巡る無料の船旅を体験し、しかも複数の女性から好意を寄せられるという、日本にいるときには夢にもみたことがないくらいの幸運に恵まれている。
これはすべて洋一が衝動に従った結果であって、だから洋一は衝動を感じたときにはためらわずに行動することにしている。
なんと言っても、そうした方が面白い結果になるのだ。
だが、今回はいささか状況が深刻だった。面白いなどと言っていられない状況に陥っていて、ひとつ間違えればとんでもない結果になる可能性が高い。洋一自身だけのことならどうなってもいいが、パットたちを巻き込むことは避けたい。
それは、言ってしまえば責任を回避するための自己防衛を目的とした行動なのかもしれないが、少なくとも何もしないで案山子を演じたまま流されて行くよりはマシなのだ。
近くに見えたが、食事船はなかなか近づいてこなかった。回りに停泊しているカハ祭り船団の船がみんな小型船だったこともあって、食事船の巨大さに距離を誤認していたらしい。食事船は船団で唯一、長期外洋航行が可能な本格的な貨客船なのだ。
ボートを漕いで行くと、すれ違うカハ祭り船団の船から幾度となく誰何の声が上がった。 さすがに2度も襲撃されると警戒が厳重になるらしい。殺気だった声を投げつけられて、洋一はそのたびに首をすくめた。
大抵の場合は、パットが間髪をいれずに叫び返すことで通過を許された。パットの姿と声は何よりの通行許可証である。一度などは、パットが応えるとバラバラと男達が乗り出してきた。パットが手を振ると、口笛や歓声が飛んでくる。パットの人気は衰えていない。
ボートを漕いでいる洋一は無視されるだけだが、これはむしろ幸運かもしれない。最近パットと何かと噂になっている謎の日本人だとばれたら、血の気の多い連中が何をするかわからない。
そう思ってから、洋一は自分の身体を眺めた。Tシャツから出ている腕はこの1ケ月の南洋巡りで真っ黒に日焼けしている。顔も似たようなものだろう。もともと日本人にしては色黒で、多少バタくさい顔つきをしていることもあって、ちょっと見ただけではココ島の男と見分けがつかない。
カハノク族は知らないが、洋一が見たカハ族の人たちは、いわゆるポリネシア人種から彫りの深いインド系まで千差万別な顔つきをしていた。かなり混血が進んでいるらしく、白人種や東洋系の特徴を持った人も少なくない。
さすがにパットやメリッサのような純粋な白人に見える人はあまりいなかったが、かなり日に焼けたイギリス人とか、サーファー気取りの日本人だと言われれば納得してしまうような容貌がいくらでもいるのである。
カハ族とカハノク族には人種的な区別はないそうだから、おそらくココ島全体がそんな状態なのだろう。
ということは、洋一でもそんなに違和感なく、ココ島にとけ込めるということだ。
さすがに近寄ってしげしげと見られたら日本人だとわかるだろうが、ボートを漕いでいるだけではパットの下働きの男だとしか見えない。
洋一は、なるべくカハ祭り船を見ないようにうつむいて、ボート漕ぎに専念した。
そのかいあって、どうやら無事に食事船についたときには、大いに胸をなで下ろしたものである。
だが、大変なのはむしろこれからだといっていい。どう大変なのかすら判らないのだ。
食事船は、停泊地におけるカハ船団の基地になっているらしく、船腹の回りはボートや小舟でいっぱいだった。緩衝用の古タイヤがならべられた桟橋のようなものが船腹に降ろされ、所狭しとボートが繋がれている。この緩衝用桟橋は、移動するときにはクレーンで引き上げられると聞いている。
洋一はやっとのことで隙間を見つけて、自分のゴムボートをつないだ。パットはすでに桟橋に飛び移って、食事船に駆け上がっている。
洋一もあわてて後を追った。パットは、洋一のいわばパスポートである。パットと一緒にいれば、大抵のところはフリーパスだろうが、洋一ひとりでは食事船の中で迷うばかりだろう。それどころか、いつトラブルに巻き込まれても不思議ではない。