第50章
「ちょ、ちょっと!」
「ヨーイチ! アソボウ!」
パットは元気いっぱいで、太股まである海水をぐいぐいと突っ切って向かってくると、洋一に抱きついた。
しなやかな身体が押しつけられ、洋一は思わず両手をその背中に回してしまう。海水ですべすべする背中は暖かくて、洋一はあわてて手を離した。
パットは、一瞬洋一に全身を押しつけてから、するりと身をかわす。そのまま洋一の手を引いて、海に向かった。
「オヨゴ!」
洋一は、白い身体から必死で目を反らしながら、つんのめるように海に入った。
パットが手を離し、しなやかに泳ぎ始める。
洋一も、いったん頭まで潜ったせいかようやく落ち着いて、平泳ぎで進み始めた。
パットは、まさしく水を得た魚だった。昨夜みんなで飛び込んだとき、メリッサは見事な泳ぎを見せてくれたが、今のパットはさらにその上を行っている。
抜き手をきって泳いでいたかと思うと、潜っていきなりとんでもない場所から顔を出す。
盛大に水をはねちらかしながら洋一のすぐそばで立ち上がり、洋一に水をぶっかける。
洋一も、いつの間にかパットの裸体を見慣れて、やり返していた。
パットの態度があまりに自然なのだ。自分が裸であることについてまったく気にする様子がないので、洋一の方も恥ずかしいという感覚が失せてくる。
もっとも、洋一の方はパンツを脱ぐ気にはなれなかったが。
楽しかった。なんだかずっと緊張していた気持ちがほどけてゆくような開放感があった。6,7歳くらいの子供の感覚に戻っているのかもしれない。
しばらくパットと水をかけあった後、洋一は少し沖に出た。深呼吸してから潜ってみる。
海岸は緩やかな砂浜だったが、少し離れるといきなり落ち込んでいて、もうこの辺では3メートル程の水深があるようだ。一応珊瑚礁の内側ではあるのだが、これ以上沖に出ると鮫が危ないらしい。
水は澄んでいて、水底まではっきりと見通せる。
魚はほとんど見えなかった。水底もずっと白い砂が続いていて、海草のたぐいはあまり見えない。
海水で目が痛かったが、水中で静止したままあたりを見回すと、岸の方に海面すれすれに泳ぐ細い影があった。水面の照り返しでシルエットしか見えないが、そのしなやかな動きはまるで人魚のようだ。
と思う間もなく、その影は反転して洋一の方に向かってきた。
早い。まるで水を縫うような動きで、パットはあっという間もなく洋一のそばまで来ると、水中で立ち泳ぎしたままウィンクしてみせた。
パットの全身が丸見えである。洋一は思わず目をそらし、海水がしみるので目を閉じたまま海面を目指す。
海面で大きく深呼吸して、洋一は動揺を押さえた。今ので童心がどこかに消し飛んでしまった。
立ち泳ぎしていると、パットがそばに顔を出した。きょとんとした顔をしている。この女神には、まだ当分そういう劣情は無縁のようだ。
「ヨーイチ!」
突然、パットが叫んだ。
立ち泳ぎしながら、沖を指さしている。
「アレ! カハ・フリート!」
「何だ?」
洋一は半回転して、岬の方を向いた。そして硬直する。
岬の向こうのカハ船団の停泊地点で、何かが起こっていた。
遠すぎてよく見えないが、白いカハ祭り船が時々チカチカと光っている。そして、ところどころで真っ黒い煙がしだいにひろがってゆくのが判った。
「パット、帰るぞ!」
パットは頷くと、あっという間に遠ざかった。泳ぎながら見ると、白い身体が岸で立ち上がり、パンティなどを拾いながら砂浜をかけてゆく。
洋一が背が立つところまで引き返したときには、パットはもう服を着てゴムボートにとりついていた。
洋一は息をはずませながらゴムボートまで走り、パットと息を合わせて海まで引きずっていった。
さっきより潮が満ちているらしく、いくらもいかないうちに足を波が洗う。
洋一は、ゴムボートを押し出す前に一息ついてズボンを履いた。漕いでいる最中にズボンを履く余裕があるとは思えない。パットはすでにボートに乗り込んで、沖をじっと見つめていた。
カハ祭り船団の混乱はますますひどくなっているようだ。ここから見えるかぎりでも、数隻から黒い煙が上がっている。
突然、パットが小さく叫んだ。一隻がチカッと光ったかと思うと、見る見るうちに海に没してゆく。
しばらくたって、どーんという小さな音が聞こえた。間違いなく、爆発だった。
洋一はボートを海に押し出すと、飛び乗って半回転してから、力まかせに漕ぎ始めた。
パットは時折小さく方向を指示する。
すぐに腕が重くなった洋一は、しばらくするとオールを緩めた。海が荒れ始めているのか、波が高くなっていて進路を保つのが難しい。
それはパットも判っているようで、歯を食いしばってボートにしがみついていた。洋一の方を心配そうに見る。洋一はパットに笑って頷いてから、慎重にオールを漕いだ。バテた後に大波に襲われたりしたら目もあてられない。ここは、気がせいてもゆっくり行った方がいい。
それから、洋一は黙って漕ぎ続けた。来るときにはすぐだったような気がする距離が、なかなか縮まらない。
いつまでたっても近づいてこないように思われたカハ祭り船団の停泊海域だったが、洋一の感覚ではいきなり入り込んでいた。
パットが興奮して指さす。
オールを止めて振り返ると、ほんの数十メートル先にカハ祭り船の一隻が漂っている。
ひどい有様だった。船腹に大穴が開いていて、傾いたまま甲板を波が洗っている。マストやロープがあちこちで燃えているところを見ると、焼夷弾か火炎ビンも使われたようだ。
新型のグラスファイバーボートならひとたまりもなく沈没していただろうが、漁船を改造したらしい木造船だったため、とりあえずは沈む心配はなさそうだった。
傾いた甲板には数人の男たちがいて、燃えている箇所に水をぶっかけたり、けが人の手当をしていた。
パットが叫ぶと、全員がこちらを向いた。一人が何かわめく。続いて、それぞれが思い思いに叫んだり指さしたりし始めた。
パットは、少し黙ってからまた叫んだ。それに答えて男たちが騒ぐのを後目に、洋一の方を向いた。
「イソゴ!」
「パット、何があったんだ?」
「カハノク!」
パットは、一言たたきつけるように言うと、黙ってしまった。
洋一は、仕方なくまた漕ぎ始めた。とりあえず、指揮船に戻るしかない。