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第4章

 次の日朝食に降りてゆくと、食堂で猪野が待っていた。

「猪野さん!」

「ああ、諏佐さん、お久しぶりですな」

 猪野は、にこにこしながらベーコンエッグにかぶりついている。

「お久しぶりって、一体今までどこにいたんですか?もう10日近く」

「まあまあ、あわてないで。とりあえず食事をして下さい。お話はその後ということで」

 洋一は仕方なく腰を下ろした。腹が減っているのは確かだったし、猪野が帰ってきた以上、今更慌てなくても洋一の問題は解決するはずである。

 猪野はデザートのコーヒーをお代わりするまで、天気の話とコーヒーの味の話しかしなかった。

 もっとも、天気はいつでも晴れだったし、コーヒーについてはまずいとしか言いようがなかったのだが。

 たっぷりと時間をかけた朝食が終わり、ついに猪野が立ち上がる。

「さて、それでは、仕事の話でもしましょうか」

「はあ」

 猪野は、洋一を連れて書記官室に入った。さすがにここは広くてソファーなどもあり、日本外務省の権威がかすかにではあるが感じられる部屋である。

 猪野はまあ気楽に、とか言って洋一をソファーに座らせると、向かい側にかけておもむろに言った。

「午後から蓮田くんが出張します。その助手をやって頂きたい」

「助手、ですか」

「そう。ま、あなたは蓮田くんについていけばよろしい」

「あのう、領事館の仕事は全然知らないんですが、助手なんか勤まるんですか?通訳も出来ませんし」

 猪野はニッと笑った。

「蓮田くんが、公用語をそこそこ話せますから、通訳はいりません。ブロークンですが、英語なら大抵通じますしね。いや、諏佐さんはそんなことは心配しないでもよろしい」

「はあ」

 心配するなと言われても、これでは不安が増すばかりである。

「あのう、出張って」

「何、島の向こう側というだけのことです。ただ、午後からなので一応泊まりがけの予定を組んであります。替えの下着など持っていかれる方がいいですね」

 肩書きの割に、細かいことに気がつく人だった。

「ということで、よろしく」

「はあ」

 書記官室を追い出されるように出てくると、洋一は大きくため息をついた。

 謎をとくどころか、訳も分からないまま妙なことになってしまった。

 それにしても、謎といえば猪野が一番の謎だ。いやしくも2等書記官といえば領事が不在の現在、この領事館の責任者のはずである。それが長期間領事館に不在だったり、洋一みたいなのと直接かかわったりしたりしていていいのだろうか?

 洋一のしろうと考えでは、書記官とか呼ばれる人たちは、もっとずっと偉くてエリートのはずなのだが。

 しかし、そんな疑問に答えてくれる人がいるわけもなく、あっという間に午後になって、洋一は蓮田のお供で出張とやらに出かけたのだった。

 用意された車は、ランドクルーザータイプだった。領事館にはBMWなどがあったので密かに期待していた洋一だったが、あれは領事自身が公式行事などで使うためのもので、蓮田レベルでは業務車がお似合いということらしい。

 しかも、運転は蓮田だった。

 ・・・ひょっとして、蓮田って3等書記官などと威張ってはいても、結構下っ端なのかもしれない。

 そういう洋一の視線に気がついたのか、蓮田はいきなり言った。

「おい、お前」

「はあ」

「とにかく、黙っていろ」

「はあ?」

「お前は、言われた通りにしていればいいということだ」

 蓮田はちらっと洋一の方を向き、それからフンとばかりに視線を前方に戻した。それきり、口もきかずに運転している。

 洋一は、あっけにとられた後、肩をすくめて沈黙した。まあ、色々な人がいるということだ。

 それにエリート意識の塊みたいな蓮田にしてみたら、いきなり助手として洋一みたいなのを押しつけられたら嫌な気分になるのは当然である。

 その気持ちは判るのだが、と洋一は思った。 しかし、それは蓮田の事情であって、やはり気分が悪いのは洋一の方も同じで、だからこいつとは必要以上に口をきくのをやめよう。

 だが、そんな決心は不要だった。

 町を出た途端、事実上道がなくなったのである。いや、道はあることはあるのだが、人が通るのがやっとという幅で、しかも大穴や倒木がサファリラリーよろしく出現する。

 町に来たときに通った道もいいかげんひどかったが、今回のはまるでサバイバルコースのようだ。

 しかも、蓮田は意地になっているのか、そのコースをしゃむにとばしていた。おかげで洋一は、舌をかまないように歯をくいしばっていなければならなかった。

 なるほど、これでは交通機関としては牛の方がましなわけだ、と洋一は助手席のダッシュボードにしがみつきながら思う。

 なんという「出張」なのだ。

 洋一は、猪野の口車に乗ったことを後悔した。やはり、いきなり領事館を訊ねた得体のしれない男を雇うような2等書記官が提供する仕事が、まともであるはずがなかったのである。

 あまりの揺れに酔ったのか、吐き気がしはじめたとき、いきなり揺れが止まった。

 エンジンが止まる。どうやら、とりあえずラリーは中断したらしい。

 蓮田が無言のまま運転席から出てゆく。洋一もよろけながら車から這い出した。

 車は、ちょっとした広場のような場所に着いていた。回りはもう森といっていいくらい木が密集しているが、このあたりだけ20メートル四方くらいの空き地になっている。

 ただの空き地だったが、よく見ると小さな小屋のようなものが建っていて、蓮田はそちらに向かっていた。

 小屋の前には、数人の男が待っていた。洋一がふらつきながら近づくと、蓮田がフライマン共和国の公用語らしい言葉で話していた。

 感心しかけた洋一だったが、聞いてみるとあまり流暢とはいいがたい。ボディランゲージをまぜてなんとか通じる、といったところのようだが、それでも全然話せない洋一に比べたらはるかにましである。

 少し蓮田を見直しかけた洋一だったが、蓮田が振り向いて言った言葉がぶち壊しにした。

「ここからは歩きだ。荷物をもってこい」

 洋一は、むっとしたまま無言できびすを返した。しゃべらないように言われているのだから、返事をしなくてもいいはずだ。

 蓮田の方も、返事も待たずに歩きはじめている。

 ムシャクシャした気分で鞄を抱えると、洋一は蓮田たちの後を追った。

 蓮田が話していた人たちは、どうやら案内人のようだった。いずれもTシャツに短パンというこの島の標準的な服装で、足下はサンダルである。

 対する蓮田は背広にネクタイ、革靴というサラリーマンルック、洋一も出張だというので一応フォーマルなズボンに猪野に借りた半袖のYシャツなどを着ている。もっともサイズが合う皮靴がなかったので、スニーカーだった。

 洋一は、すぐにネクタイをとってポケットにねじ込み、胸元のボタンを2つほど外した。

 車には、当然エアコンがついていたので、外がどれくらい暑いか忘れていたのだ。

 鬱蒼と茂った森の中の小道を、しかも石ころだらけの坂道を歩くという行為にはまったく合っていない服装だった。

 洋一たちが進む道は、ほとんど人ひとりが歩くのがやっとというところで、片側が崖のようになっていて、ちょっと油断すると転げ落ちそうである。

 足下は大小の石がゴロゴロしている上、草ぼうぼうで歩きにくいことこの上ない。

 案内の人たちは、慣れているのかサンダルばきでスイスイ進むが、洋一はへっぴりごしでついてゆくのがやっとである。しかも、蓮田に至っては革靴のはずである。

 それでも文句ひとつ言わないのは、さすがに日本外務省のエリートだな、と洋一は感心してしまう。もっとも、こんなところに赴任させられているくらいだから、ひょっとしたらおちこぼれているのかもしれないが。

 さらに言えば、洋一が蓮田の荷物まで持たされているわけで、そういう意味では軽蔑すべき上役だとも言える。蓮田の荷物はボストンバッグひとつで、洋一にとってはそれほどの負担ではなかったが、こういうことは気分の問題なのだ。

 案内人たちは、誰ひとりとして無駄口を叩かず、黙々と歩を運ぶ。洋一も、唯一言葉が通じる蓮田が無言なので、何も言えないまま森林の歩行がもう2時間以上も続いていた。

 この蒸し暑さと、いつ果てるともしれない熱帯樹林の中の行進は、まるで本で読んだ旧日本軍の死の行軍のようだ。

 ボルネオだかどこだったかで、日本陸軍が満足な補給も受けられないまま、ジャングルをさまよううちに一人また一人と飢えや熱病で倒れていったという話を、洋一は高校時代に読んだことがある。

 その雰囲気って、今の俺達みたいなのじゃないかな、と洋一が考えていると、突然回りが開けた。

 いつの間にか、高度が上がっていた。

 視界を遮っていた森は、すべて眼下の広がっている。そして、鬱蒼とした暗い緑の向こうに、きらきらと輝く海が見える。

 ココ島は、島だったのである。洋一の立っている場所からは、180度以上の視界で水平線が見えた。

(結構来ていたんだな)

 森の向こうに、フライマンタウンらしい白く輝く塊がかすかに見える。島といっても、それなりの広さがあるものである。

 案内人の一人が、どこから取り出したのか、ミネラルウォーターらしいミニボトルを蓮田と洋一に渡してくれた。どうやら、この高台で休憩らしい。

 そう思った途端、足がガクガクして洋一は座り込んだ。夢中で歩いていたせいで気がつかなかったが、結構疲れていた。もともと、体育会系ではない洋一である。今までもったのが不思議なくらいだった。

 ミニボトルの封を切って、むさぼるように飲む。水はなま暖かかったが、今の洋一には甘露である。

 洋一は、しばらくそのまま風に吹かれていた。山登りの後は、一時的とはいえすべての悩みから解放されるものである。しばしの楽園に、洋一はいた。

 だが、幸せは長くは続かない。

 放心状態の洋一は、いきなり背中をどやされてあやうくひっくり返るところだった。

「おい、行くぞ」

 蓮田のぶっきらぼうな声に、洋一は思わずはいっと答えて立ち上がる。

 案内人たちは、すでに歩を運んでいた。

 いつの間にか、陽がかなり傾いている。暗くなる前にこの山を下らないと、洋一なんぞはろくに歩くこともできなくなるだろう。

 今度は下りだから、楽が出来ると思ったのだが、それは洋一の間違いだった。

 登山は、下る方が体力も神経も使うのだ。

 幸い、今度は30分も進まないうちに、道が平らになってきたから良かったようなものの、あと30分続いていたら洋一はひっくりかえっていたに違いない。

 山の終わりも、唐突だった。

 いきなり森を出ると、そこはもう草原だった。なだらかな薄緑が、ずっと続いているようだ。

 だが、もう陽はほとんど稜線に隠れていて、草原の向こうがどうなっているのか、洋一にはよく見えなかった。

 案内人たちと蓮田が、何やら話しているのを後目に、洋一は座り込んだ。身体がガクガクしていて、口をきくどころか考える気力もない。

 かろうじて、今度は何するんだろうという疑問が沸いたが、もうどうでもいい気がした。 それにしても、蓮田はタフである。外交官という職業は肉体労働らしい。

 やはり身体は資本だから、鍛えないと駄目なんだろうなと思っていると、蓮田がこちらに向かってきた。

「大丈夫か?」

「はあ」

「いきなり強行軍だったからな・・・今日中にこっちに来るには、あのコースしかなかったんだ。しかし、なかなかやるじゃないか。よくついてきたな」

 蓮田が笑っていた。それも、いつもの皮肉な笑いではなく、親しげな微笑である。

「今、車を用意して貰ってる。そのまま休んでいろ」

 どうなっているんだ?と洋一は思った。

蓮田って、ひょっとしたらいい奴だったんだろうか。

 だが、あまりにもくたびれきっていて、考えるのが面倒だった。洋一は、膝を抱えて目をつぶった。

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