第44章
目があった途端、パットは顔をクシャクシャにして飛びついてきた。
「ヨーイチ!」
後の言葉はチンプンカンプンな音の奔流だったが、その意味ははっきりしていた。
パットに首を締められたまま、洋一は何とか身体を起こした。パットの頭ごしにメリッサと目が合う。メリッサははにかみがちに笑ってから、小さく手を振った。
シェリーは、トラブルは終結したと見たのか、いつの間にか操舵室に引っ込んでしまっていたし、シャナもどこに行ったのか姿がない。
パットがかじりついたまま離れないので、洋一は仕方なくパットをかついだまま立ち上がった。そのまま船室に向かう。
とにかく、海水でズブ濡れの状態を何とかしなくてはなるまい。
そういえば、メリッサやパットも不本意な夜の海水浴を強いられたのだが、洋一ほどには気にしていないようだ。
ココ島ではこの時間でも暖かく、洋一にしても濡れたままでも寒いとは感じなかった。ただ塩水でベトつくのが嫌なだけだが、島の娘であるメリッサたちには、そういう感覚が少ないのかもしれない。
「パット。着がえたいんだけど」
パットは、聞こえているはずだが知らないフリをしていた。あいかわらず手と足で洋一の抱きついたまま、顔を伏せている。
船室に入ってもパットがしがみついたままなので、洋一はパットの両脇の下をくすぐった。
パットはしばらく耐えていたが、突然笑いながら身をよじって洋一から離れた。猫そっくりのしなやかな身のこなしで床に着地し、尻餅をついたまま脇の下を隠す。
洋一は、パットの手を掴んでひっぱり起こすと、奥の部屋に押しやった。パットは濡れた髪をしぼってから洋一にもう一度抱きつき、おとなしく奥の部屋に消えた。
洋一も身体を拭きたいところだったが、奥ではパットが着替えている。シャワー室には真水があるはずなので、ここはパットが出てくるまで待つしかない。
上はTシャツなので脱いでしぼったが、下は脱ぐには少し抵抗がある。奥にはパット、甲板にはまだメリッサがいるはずで、そのどちらもいきなり船室に入ってくる可能性がある。だから、ここは待つしかない。
それにしても、メリッサはどうしたのだろう。船室に入ってこないところを見ると、まだ甲板にいるのだろうが、いくら暖かいとは言ってもズブ濡れで夜風に当たっているのはまずくはないだろうか。
やむを得なかったとは言え、ズブ濡れの原因である洋一としては、心おだやかではいられない。
だが、ここでメリッサに接近しすぎるのは考え物だった。さっきのパットとメリッサの喧嘩は一応うやむやのまま棚上げになっているが、その原因が解消されたわけではないのだ。
まさか自分が色男の役を勤めるとは思わなかったが、なりゆきでそうなってしまった以上、とりあえずは炎を煽るようなマネはしない方がいい。
メリッサの方は、少し残念なのだが洋一がパットに接近することについては、ほとんど気にしていないようだ。逆にパットは、さっきの調子だと今度メリッサに近づいたら本気で逆上しかねないだろう。
ということは、洋一はとりあえずパットについていればいいことになる。そして、ココ島はおろか半径千キロ以内で最高の美女には、当分の間近づかない方が平和だろう。
洋一は、船室で所在なげに立ったままでいた。ズボンが乾かないのでソファーに座ることも出来ない。甲板にはメリッサがいるらしいので、船室を出ることも出来ない。奥のシャワールームはパットが使っていて、出てこないうちは洋一の方から覗くこともできない。
この暇に全部脱いで身体を拭きたいところだが、タオルも奥の部屋にあるから動きが取れない。
それにしても、パットは遅すぎる。シャワーを浴びに奥に入っていってから、もう20分以上たっているだろう。
パットの着替えを覗いてしまったという苦い経験から自分を押さえていた洋一だったが、さすがに20分は長すぎた。
それでも、何回か迷った末に、洋一は奥のドアをノックした。
返事がない。
さらに数回ノックしてから、洋一は思いきってドアを開けた。
シャワールームには、人影はなかった。
その向こうは寝棚で、下の段ではシャナが早くもぐっすり眠っている。
思った通り、パットもそこにいた。
シーツにくるまって、かわいい寝息を立てている。その顔には、微塵も罪悪感はない。
まだ子供だ、と洋一はほっとした気分になったが、ふとシャワールームを見ると、パットのTシャツとショートパンツが干してある。その隣に、かわいいパンティもぶら下がっているのに気が付くと、洋一は自分が寝棚を覗くのを止められなかった。
パットの肢体が、薄いシーツにくっきりと浮かび上がっていた。顔つきや態度は幼いが、身体の方は十分に発達している。しがみつかれている時は意識しないのだが、こうして生で見ているとひどく挑発的である。なまじなアイドルなどよりはるかに魅力的で、洋一にとっては危険な光景と言えた。
洋一は、ギクシャクと向きを変えて、船室に戻った。もはや、真水で身体を拭くという贅沢は諦めざるを得ないようだ。
船室に戻ると、奥のドアをしっかり閉める。まあ、パットは寝ているようだから、こちらからの危険はひとまず去ったと言って良いだろう。
洋一はゴワゴワになったジーパンを脱ぐと、シャワールームの棚から持ってきたタオルで下半身を素早く拭いた。
ソファーの影に隠れてパンツを海パンに履き替える。この分では、今後はずっと海パンで過ごした方がいいかもしれない。
乾いたTシャツを着て、洋一は船室を出た。まだ眠るには早いし、メリッサがどうしたのかも気にかかる。
いつの間にか、雲が出てきていた。月が隠れていて、暗闇に近い。
カハ船団の明かりが回り中にぽつんぽつんと灯っていて、なんとなくほっとするような懐かしさを覚える。
甲板には、誰もいなかった。
操舵室にも人影がないところを見ると、シェリーと一緒に食事船にでも行ったのだろう。ゴムボートがひとつ消えている。
無防備のパットとシャナだけを残して、よくもまあ船を空にできるものである。要するに、洋一のことを「保護者」として認めてくれているわけだが、嬉しくないこともないが男としては情けない気もする。
そのとき、どこからか水音がした。
続いて、何かが船腹にこすれるような音とともに、船がかすかに揺れる。
船首に近い方からのようだ。どうやら、誰かがボートで接舷したらしい。
シェリーやアマンダなら、エンジン付きゴムボートで帰ってくるだろうから、今回来たのは別の誰かだろう。
航海灯と船室の窓からもれるわずかな光しかなく、甲板はほとんど真っ暗なので、洋一には誰が訪ねてきたのか判らなかった。
洋一は、ロープを伝ってそろそろと船首に向かった。
誰かが船腹を昇ってくるようだった。一言も発しない。洋一は足を止めた。
何かがおかしい。
誰かが訪ねてくるにせよ、声もかけないで指揮船に乗り込んでくるはずがない。舷窓から明かりがもれている以上、乗船者がいることは分かり切っているはずなのだ。
ようやく闇に目が慣れてきた洋一が凍りついたように立ちすくんでいると、ぼんやりした視界の中に白い手が現れた。
すぐに頭が現れ、あっという間に身体が手すりを乗り越えて、体重がないかのような軽い動きで甲板に降り立っていた。
その間、まったく音を立てない。
闇に紛れてよく見えないが、別に黒装束に身を包んでいるというわけではなさそうだ。