第43章
「ヨーイチ!」
突然の爆発的な叫びとともに、凄まじい暴風が襲ってきた。
「ちょ、ちょっと……いて!やめてくれ!」
「ヨーイチ! ヨーイチ!」
パットが力任せに洋一の髪の毛を引っ張る。洋一はたまらずメリッサを離してソファーから転げ落ちた。
メリッサは、洋一と一緒に床に投げ出されたが、尾てい骨でも打ったらしく、腰を抱えて顔をしかめている。
洋一が恐る恐る見上げると、怒りに満ちたパットが仁王立ちになっていた。
「パット、ちょっと落ち着け!」
返事は、わけの判らない言葉の嵐だった。
もはや日本語も、英語すら使おうともせず、ココ島語一本槍の激しい言葉が洋一に叩きつけられる。
一言も聞き分けられないが、言っていることは明白だった。浮気(?)を責められているに違いない。
弁解しようにも、今のパットには洋一の英語は通じそうにないし、第一何を言っても聞いてもらえないに違いない。
こうなったら、ことの是非はどうあれ、ひたすら謝るしかないな、と洋一が思ったとき、メリッサが立ち上がった。
まだ腰を押さえながらも、メリッサはパットに短く何か言った。そんなに大きくはないが、激しさがこもった一言である。
パットはしばらくきょとんとしていた。自分の耳が信じられないようだったが、我に返ってメリッサにくってかかった。
メリッサもやり返す。
パットがわめき散らし始める。メリッサは腕を組み、目をつぶって聞いていたが、いきなりパットに掴みかかると、パットを抱き上げた。
「洋一さん、失礼します」
一言捨て置いて、メリッサは暴れるパットを抱えたまま、船室から出ていってしまった。
すぐに上から喚く声や足を踏みならす音が聞こえてきた。どうやら、姉妹喧嘩は甲板に移ったらしい。
洋一が呆然としていると、シャナが奥の部屋からひょこっと顔を覗かせた。洋一を見て、首をかしげる。
洋一はやっとのことで立ち上がって言った。
「シャナは知らないふりをしといた方がいいよ」
シャナがこくんと頷いて引っ込む。洋一はしばらく息を整えると、船室を出た。
甲板では、美しい姉妹がにらみ合っていた。シェリーは、賢明にも見て見ぬ振りを決め込むつもりらしく、操舵室の扉は堅く閉ざされたままだ。
パットが、いきなり叫んだ。足を踏ん張って、何度も繰り返す。はち切れそうなエネルギーが体中から溢れている。
いつの間にか月が上っていて、月光に照らされたパットは妖精である。ただし月光の下で踊る無力な妖精ではなく、ショートパンツにTシャツ、素足の姿は今にも空に舞い上がりそうで、ワーグナーに出てくる戦乙女のようだ。
それでも、怒っていてもパットは可愛い。
突然、しずかな声がした。パットとは対称的に、怒気のかけらも感じられないその声も、しかし氷のような冷気が籠もっていてその背後に渦巻く感情の強さを示している。
メリッサは、腕を組んで彫像のように立っていた。
太陽の下で微笑んでいても女神のような美女は、月光の下では背筋が凍るような美しさをかもしだしている。
普段は華麗という表現が似合うメリッサだが、青い月の光の元では鋭く冴え冴えとした印象が強い。どちらにしても、人間離れした魅力があることは確かだった。
そのメリッサは、月光を背負って影になった美貌に、洋一がこれまで見たこともなかった冷たい笑みを浮かべている。
メリッサの返答に、パットは激怒したように叫び声を上げた。メリッサは、頭を一振りして肩をすくめる。月光に輝く金色の髪が流れ、何か神話の世界の出来事を見ているような気がした。
パットは、じだんだを踏んで何か叫んだ。いくつかの単語を投げつける。
冷静に見えたメリッサだったが、いきなりうろたえたようによろめいた。月の光の下でも、はっきりと頬が赤くなるのが判った。
パットは、それを見て勝ち誇ったように言い募る。それに対してメリッサが、どもりながら何かの言葉を投げつけると、今度はパットの顔色が変わった。
パットは口を何回かパクパクさせた後、叫び声を上げてメリッサに飛びかかった。
たちまち姉妹のとっくみあいが始まった。
狭い甲板の上で、美女と美少女がつかみ合って転げ回るさまは壮観である。
洋一は考える間もなく動いた。パットを押さえ込んだメリッサと、メリッサの髪を掴んで引っ張っているパットを抱きかかえる。
メリッサとパットが驚いて洋一の名前を叫ぶ間もなく、洋一は2人を抱いたまま海に飛び込んだ。
派手な水しぶきが上がり、いったんかなり深く沈んだ後、3人はからみあったまま浮かび上がる。幸い、月が明るいせいで指揮船の船体はよく見える。
立ち泳ぎしながら見上げていると、操舵室からシェリーがあわてて飛び出してきた。一瞬で状況を見て取ると、縄ばしごを投げてよこす。
メリッサが、なめらかな動きで縄ばしごに泳ぎ寄り、パットの手を掴んで引っ張る。パットが登り始めると、メリッサはちょっとためらってから洋一の方に泳いできた。
落ちた拍子に海水を飲んだ洋一は、塩辛い水を吐いていた。2人を抱えて飛び込んだのはとっさの行動としては上出来だったかもしれないが、その後の対応は落第である。
メリッサは、さっきまでの狂態など微塵も見せない態度で言った。
「洋一さん、鮫がいます。早く上がって下さい」
「鮫!」
洋一は、泡を食って泳いだ。
メリッサは、ほとんどしぶきも立てずに、洋一を楽々と追い抜いて、縄ばしごのところで待っていてくれた。
ようやく船腹にしがみついた洋一は、そこでやっと正気に返った。ここでレディーファーストを示さないわけにはいかない。
メリッサと自分の実力を比べると、茶番のような気もするが。
「メリッサ、先に上がってくれ」
「わかりました」
メリッサは、あっさり頷いて、それから不意に洋一の耳に口唇を寄せた。
「ありがとう」
ほんの小さな囁き声だったが、その言葉ははっきりと洋一の心に届いた。
メリッサが、滑るように縄ばしごを駆け昇った。洋一は、メリッサの囁きで放心状態だったが、何かが足をかすった気がした途端に鮫のことを思いだした。
慌てて縄ばしごをたぐり寄せ、力任せに自分の身体を引き吊り上げる。途中から縄ばしご自体がたぐり上げられた始めた。船の全員が引っ張っているらしい。
洋一は腹や膝を船腹に打ちつけながら、無事甲板にたどり着いた。
しばらくは、喉の奥から吐き出される塩水の味と、ぜいぜい喘ぐ息の音だけが全世界だった。
息も胃液も吐き尽くして、力つきて甲板に大の字になった洋一は、自分の回りにこの船の全員が集まっているらしいことに気がついた。
回りに合計8本の足が立っている。その足を辿って行くと、泣き出しそうなパットから相変わらず無表情なシャナまで、それぞれの個性を明確に映し出した4つの顔があった。