第3章
驚いたことに、洋一は翌朝メイドに起こされた。もちろん、洋一付きのではなく、領事館に雇われているらしい。
フライマン共和国の公用語は現地語とフランス語だと聞いていた洋一は、いちるの望みを抱いてカタコトの英語で話しかけてみたが、褐色の肌に黒い瞳、黒髪のかわいいメイドはニコニコするばかりで話が通じる気配もなかった。
食堂に降りてゆくと、結構なごちそうが待っていた。贅沢ではないが、量だけはたくさんあって、しかもアメリカン方式のブレックファストである。
この食堂は、朝と夜やっていて、領事館の職員も利用できるそうだ。もちろん、領事館で公的な晩餐などをやる場合は別である。
料金も洋一の感覚では安く、しかも領事館の臨時職員である洋一はツケがきくということで、願ってもない待遇だった。
だが、腹がいっぱいになると、フツフツと不安がわいてくる。
一体、俺に何をやらせようっていうんだろう?
だが、訊ねようにも猪野も蓮田もどこに行ったのか姿を見せず、ただ「とりあえず待機していてほしい」という猪野からのメモを渡されて、結局洋一はその日は領事館の回りをぶらつくだけで終わった。
絶対何かある、と確信した洋一だったが、いごこちが良いだけに今の立場を投げ捨てる決心もつかず、そのまま1週間が過ぎた。
あいかわらず、洋一には仕事がない。猪野や蓮田はあれきり姿を消したままだったし、洋一への命令といえば「ココ島に慣れてくれ」という漠然としたメモが届いたのみである。
給料は月払いということだったが、それとは別にかなりの額のドルが渡された。なんでも好きなことをして、ココ島を見て回れということらしい。
費用は日本政府持ちで、ココ島観光をしろと言われているようなものだが、一通り見て回るともうやることがなくなってしまった。
特に観光名所といえるものもなく、仲間や女の子の知り合いもいないとなれば、退屈するのは当たり前である。
今までの洋一の放浪では、そうなる前に別の場所に移動していたのだが、今回は動くわけにもいかないのだ。
海と空と太陽だけは極上品だったが、そうそう日光浴をしていられるわけもなく、洋一はついにしびれをきらして現状の打破を試みることにした。
つまりは、なぜ洋一がこんな中ぶらりんの状態におかれているのか、を探り出すのである。
どう考えても、日本政府のやり方ではないし、大体気味が悪いではないか。
だが、あいかわらず、領事はおろか猪野たちも姿を見せない。にもかかわらず、領事館の業務が滞り無く遂行されているのは、現地スタッフが優秀な証拠だろうか。
もっとも領事の決済を必要とするような業務は、留められているようだったが、ココ島と日本との外交上の緊急事項は、今のところ発生していないらしい。
なにぶん、のんびりした場所なので、「いなければ帰ってくるまで待とう」ということで処理されているらしかった。
領事館には、もちろん猪野や蓮田だけではなく、かなりの人数の現地雇用者がいたので、洋一はかたっぱしから声をかけてみた。
もちろん、最初の目標は数人いるメイドたち。
領事館勤めのメイドという職が、この島では競争率が高いのか、あるいはこの島の女の子はみんな美人なのか、いずれもピチピチとした健康美を発散している少女たちばかりである。
ところが、みんな忙しいのか恥ずかしいのか、クスクス笑いながら逃げるばかりで相手にしてくれない。
現地人のスタッフたちも、洋一のことは何も聞かされていないらしく、首をかしげるばかりである。
庭の手入れをしている老人やらBMWを磨いている渋い中年の男やらも、話しかければ返事はするものの、「ウイ」「ノン」の繰り返しでらちがあかない。
もっとも、その一方では、全員がこの眠ったような領事館に突如出現し、しかもいついてしまった形になっている洋一に興味しんしんらしく、あちこちから痛いほどの視線を感じる。
ただ一人の例外は、タイピストらしい娘だった。メイドたちと違って混血なのか、小麦色の肌にうす茶色の長い髪、瞳は薄いブルー。
年齢はわかりにくいが、領事館でオフィス勤務についていることからして、キャリアウーマンだと思われる。もっとも、服装はTシャツにジーンズの短パン、サンダルという、ココ島の標準服だったが。
奥の部屋でいつもタイプを叩いていたため、洋一はなかなか声をかけられずにいたのだが、ある日領事館の中庭のベンチで弁当らしい籠を広げている彼女を見つけた。
食事は、サンドイッチだった。
ものほしそうな視線を感じたのかもしれない。彼女は、いきなり洋一の方を向いて言った。
「ひとつ、いかが?」
それが日本語だとわかるまで、数秒を要した。
「あ、ありがとう。いただくよ」
腹はへっていなかったが、洋一が断るはずもない。
実をいうと、彼女とは自分が雇われた謎をさぐるという目的抜きでも、ぜひ知りあいになりたいと思っていた。
領事館のメイドたちは、かわいいがただそれだけだった。だが、この娘は美人で、清潔で、知的で、ちょっと謎めいている、つまりは洋一の好みのタイプである。
おまけに、予想もしてなかったが、日本語で話せるとは。
彼女は、洋一が隣に座ると無言でサンドイッチを一切れ渡してくれた。
ツナのサンドだった。手作りらしく、荒目のパンにツナをたっぷり挟んだだけのものである。
塩気が効いていてうまかった。
「うまい」
「そう」
そっけない返事だった。洋一も、無言でサンドイッチをかじった。
「ところで、君の名前は?」
「サラ」
「あ、俺は洋一っていうんだ」
「そう」
洋一はサンドイッチを飲み込んだ。喉につかえる。
サラは無言で、カップを差し出す。水筒の蓋だが、コーヒーらしい液体がつがれている。
思い切り飲み下し、ため息をついてから、洋一はカップを見つめた。
間接キスなのだろうか?
「ど、どうもありがとう。悪い。口つけちまって」
「洗ってきてくれればいいわ」
洋一は、その通りにした。
領事館の洗面所で水洗いして、ベンチに戻ってみると、サラはいなかった。オフィスに行くと、もうタイプに向かっていて洋一には小さくうなづくだけである。勤務時間中につきあってくれるつもりはないらしい。 多分、同じ部屋にいた数人がうさんくさげに洋一の方を見ていたせいもあっただろうが。
洋一はカップをおいてそうそうに引き上げた。
変わった娘だったが、それでも洋一にとっては、初めてまともに対応してくれた相手である。
次の日に中庭に行ってみると、サラは同じ場所で同じように食事をしていた。
今度は、洋一も弁当を持参している。今までは少しはなれたところにある食堂に食べにいっていたのだが、今日はぬかりなく領事館の賄いに頼んで、朝食の残りをサンドイッチにしてもらっていた。
「ここ、いいかな?」
「どうぞ」
あいかわらずそっけない返事だが、とりあえず拒否はされなかった。しかも、日本語である。洋一はいそいそとサラの隣に座った。
「今度は、俺もコーヒーもってきたから」
「そう」
「日本語、うまいんだね」
サラは、初めて洋一を見た。まずいことを言ったかな、とひやっとしたが、特に怒った様子もなく、サラは答えた。
「うちでは半分日本語で話しているから。母親が日本人」
それにしてはネイティブな話し方だった。サラの顔や回りの風景を見なければ、新宿かどこかで普通の女の子と話しているかのようだ。
「小学校低学年までは、日本にいた。あとは日本とこっちを往復」
なるほど。
「この領事館、長いの?」
「もう1年になるかな。高校出てすぐ勤めたから」
すると、サラはまだ未成年なのか。意外だった。外見と態度で、どうみても洋一より年上だと思っていた。
「ところで、聞いていいかな」
「何を?」
洋一はつまった。
何を聞けばいいのだろう。
俺は何をやることになっているのか?
猪野や蓮田は何をたくらんでいるのか?
そんなことをサラに聞いて、どんな答えが期待できるというのか?
黙って焦る洋一の顔を見ていたサラは、唐突に言い始めた。
「猪野さんたちは、多分アグアココの方に行ってるんだと思う」
アグアココというのは、地名らしい。
「今、カハノク族とカハ族の間がうまくいっていない。猪野さんは、昔からカハ族と親しかったから、意見調整とかしているんじゃないかな」
「カハ族?」
「知らない?」
「ああ。全然わからない」
サラは、意味ありげに洋一の顔を見る。
「そう?」
「そうだよ。ココ島にも1週間前に来たばかりで、そういう知識は全然ないんだ」
洋一はどぎまぎして言った。ココ島では、そういうことを知っておかないと失礼にあたるのだろうか?
なおも洋一を妙な目つきで見つめるサラは、まあいいか、と小さく呟いて話しはじめた。
「ココ島、というよりフライマン共和国には、大きく分けてカハノク族とカハ族っていう2つの種族がある。別に民族系統的に違うわけじゃなくて、単なる呼称的な分け方なんだけど」
いったん話し始めると、サラは饒舌だった。
「なんでも、昔ココ島に住みついた人たちが、ふとしたことで甘党と辛党に別れて喧嘩したのが分離の始まりだと言われている。
あまりひどい喧嘩だったので、ついに別れて暮らすことにしたという。その子孫が、カハノク族とカハ族」
洋一は、よく動くサラのくちびるに見とれていた。薄いピンク色で、ルージュにしては自然すぎる色だ。リップクリームくらいは使っているのだろうか?
「カハっていうのは、ココ島原産の果物の呼び名なんだけど、ものすごく酸っぱい。だからカハ族が辛党の子孫。逆に、ココ島の昔の言葉でノクっていうのは嫌いっていう意味で、だからカハノク族は甘党の子孫」
「それ、ホントの話?」
「もちろん、本当のことよ。ちゃんと年代記にも載っているし。それに、カハ族の家では小さいころから甘いものは一切食べさせてもらえなかったりして、それがまた学校でカハノク族の子供が甘いお菓子をみせびらかしたりするものだから、すぐ喧嘩になる。小さい頃からそれの繰り返しで、代々続いているもんだから、今では完全に対立している」
「そんなことで、フライマン共和国ってうまくやれるのか?どっちかがどっちかを弾圧するとか」
「それがうまいことに、大体人数的にも経済的にも五分五分で、政府も議会も勢力が均衡している。まあ、対立しているといっても、お互いにフライマン共和国国民だっていう自覚はあるから、国外との対応とかだと一致協力するしね。それも、今まではあまり利害関係がなかったから、まあまあうまくいっていたんだけど・・・」
サラは言葉を切って、ため息をついた。
「今までは?」
「ええ。なんか、最近おかしなことになっているみたい。外国人がたくさん入り込んできているし」
そこまで言ってサラは、意味ありげに洋一を見た。
「だから、ヨーイチ、あなたが来たんじゃない?」
「え?俺に何か関係あるの?」
サラは肩をすくめた。
「言いたくないなら、いい。それとも言えないのかな」
「どういうことだい?俺は、旅行中にたまたまココ島に寄って、猪野さんが臨時に雇ってくれるっていうから」
「そういうことにしておきましょう」
サラは、さっとサンドイッチが入っていた籠を持って立ち上がる。
「ちょっと待ってくれよ。一体、俺がどうしたって?」
だがサラは振り向きもせずに去っていってしまった。
結局、判ったことと言えば、フライマン共和国がキナくさくなっていることと、猪野たちがそれに何らかの形でかかわっているらしいことである。
おまけに洋一自身も、それに関係していると思われているらしい。
この時点では、洋一自身は自分の置かれた立場に気がついていない。だから、訳もわからずに頭をひねるだけだった。