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第35章

 マグカップを受け取って、洋一は息を飲んだ。きついと言ってよいコーヒーの香りがする。

 口をつけると、熱い液体が喉に流れ込んだ。

 本物のコーヒーだった。

 しばらくの間、口に含んでは喉に流し込む動作を繰り返す洋一をメリッサはニコニコ笑いながら見守っている。

 やっとのことで頭痛が収まってきたときには、洋一はコーヒーを飲み干し、2杯目にかかっていた。

「これ、新しく煎れたの?」

「はい」

 メリッサは当然のように答えるが、この船には道具がないから、食事船で煎れたコーヒーを運んできたのだろう。洋一が寝込んでいる間に、メリッサは動き回っていたようだ。

 昨夜はメリッサも洋一と同じくらい飲んだはずなのだが、そんな様子は微塵も見せない。もっとも、あの程度で潰れる洋一の方が弱いのかもしれない。その証拠に、シェリーも忙しく働いているらしく、甲板をしきりに動き回っている音がしている。

 洋一は、2杯目を飲み干してしまうと、ぐったりとソファーに沈んだ。かなり頭痛はよくなってきたのだが、まだ船室が回転している。船らしくゆっくり揺れているのも拍車をかけている。

 突然、洋一は飛び上がった。

 メリッサから目を逸らせて船室を飛び出し、トイレに飛び込んで黒い液体をぶちまげる。

 吐くだけ吐いてしまうと、洋一は真水でうがいをして、ぜいぜい言いながら船室に戻り、ソファーに倒れ込んだ。

 本当言うと、寝棚に転がり込んで眠ってしまいたいところだが、あいにくパットに占領されている。その横に自分から潜り込む度胸は、洋一にはない。

 そのまま喘いでいると、額がいきなり冷たくなった。誰かが冷えたタオルを被せてくれたらしい。

 刺すような頭痛が、いったんひどくなってからじっくりと収まって行くのを感じながら、洋一はやっとメリッサの前で醜態をさらしたことに思い当たった。

 しかし今はもうそんなことはどうでもいい気がする。二日酔いの治りかけでは、人間はすべての虚飾を捨てられるものだ。

 しばらく喘いでいると、頭痛が急速に引いてゆくのが感じられた。やはり二日酔いは吐いてしまうのが一番だということだろう。

 それにしても、やけにすんなり吐けたが、あのコーヒーのおかげだろうか。すると、メリッサはこれも予想していたのか?

 洋一がタオルを外して起きあがると、船室には誰もいなかった。メリッサは出ていったらしい。

 コーヒーの代わりに、小型のクーラーがテーブルの上に置いてある。あけてみると、ミネラルウォーターのボトルと氷が入っていた。

 その他に冷えたグラスもあり、洋一は感激して半ば泣きながら氷水を作って飲んだ。

 一杯目は、一気に飲み欲した。二杯目は3口だった。3杯目でやっとグラスから口を離して、洋一は座り込んだ。

 頭痛は、嘘のように収まっていた。

 奇跡のような二日酔い対症療法である。そして、その演出者はメリッサ以外にはあり得ない。一番効果的な酔いざまし策を洋一に施し、しかも回復時には自分が席を外して気まずさをなくすという心理的な効果まで計算されている。

 これが偶然だとは、洋一は思わなかった。すべてを計算しているとは思えないが、無意識にやっているとしたら、メリッサは生まれながらにして良妻賢母の資質を持ち合わせているということなのかもしれない。

 その時、船室のドアがためらいがちにノックされた。少し開いて、おずおすとメリッサが顔をのぞかせる。

「洋一さん、いいですか?」

「もちろん」

 メリッサは、何もなかったように笑顔で入ってきた。

「パティ、もう起きました? そろそろ出発らしいんです。私も帰らないといけないので」

「まだ起きてないみたいだけど……帰るって、向こうの船に?」

「ええ。朝は勘弁してもらったんですが、お昼の用意のスタッフが足りないので」

 すると、メリッサはこの船に泊まったのか!

 洋一は内心愕然とした。そんなチャンスに二日酔いで寝込んでしまうとは。

 それはともかく、これで洋一の立場はますます微妙になりそうだ。パットだけでも色々噂が立っているのに、メリッサまで加わるとは。

 しかも、昨夜は責任者のアマンダがおらず、事実上洋一と女の子たちだけで夜を過ごしたことになってしまったのである。

 おそらく、朝一番でカハ祭り船団全体に噂が飛んでいるだろう。洋一は、さっきまでとは別種の頭痛を感じた。

 そんな洋一にかまわず、メリッサはてきぱきとテーブルを片づけた。大きなバスケットと魔法瓶をテーブルの上に置く。

「朝食、用意しておきますから。パティにも起きたら食べさせて下さい。お昼は後で届けるようにします」

「ああ、ありがとう」

「それでは、行きますね」

 メリッサは、身軽にゴムボートに乗りこんで食事船に向かっていった。

 なんだか、日毎に活発になってゆくようだ。最初に出会ったときは自閉症かと思ったのに、今ではパットと同じくらい活動的な女の子である。しかも、パットがいわば遊んでいるだけなのに、メリッサはカハ祭り船団でも重要な役目を果たしている。

 一体、どれが本当の顔なのか。もちろんすべての顔がメリッサなのだろう。その他にも洋一の知らない顔があるだろうし、多分知る機会もないだろう。知らない方がいいのかもしれない。

 何はともあれ、二日酔いが去った以上空腹を訴えている胃をなだめなくてはならない。メリッサが置いていったバスケットを開けると、よだれが出そうなパン、サラダ、ベーコンなどが並んでいる。

 それでも、洋一はまず魔法瓶からコーヒーをついで、甲板に出た。無性にコーヒーが飲みたくなったのである。

 うまいコーヒーだった。さっきよりおいしい気がするが、それは洋一の体調が回復しているからだろう。

 夜が明けてから数時間というところらしい。太陽はすでに真上に近い。南太平洋特有の突き抜ける明るさが満ちている。

 マグカップを片手に海を眺めていると、心から悩みが消えて行くような気がした。

 こうやって南太平洋に浮かぶヨットの甲板でコーヒーなどを飲んでいると、ハーレクイン・ロマンスのヒーローになったような気もしてくる。しかも小説とは逆に、ヒーロー1人に対して複数の美女・美少女が回り中に溢れているのである。

 もちろん、小説とは違ってハッピーエンドを迎えられるかどうかはなはだ危ういと言わざるを得ない。洋一自身がヒーローの柄ではないことを自覚しているのでなおさらだ。

 またしても現実を思い出しそうになったが、なんとか無視して洋一は船室に入った。

 パットを見に行くと、寝棚はからだった。水音がしているところをみると、シャワーを浴びているらしい。

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