第32章
「いつまでも突っ立ってないで。幕を引くから来なさい」
洋一はパットにしがみつかれたまま引きずられて艦橋の中に退却した。ドアをくぐりざま振り返ると、舞台では神様や妖精たちの乱舞の他に、観客席から乱入してきたらしい連中が駆け回っているのが見えた。そのうちの数人は、明らかに洋一目がけて真っ直ぐに進んでいるようだ。
洋一はあわてて目をそらした。その背後でドアがばたんと閉まる。
「今は隠れた方がいいわ。みんな興奮してどうしようもないから」
「はあ」
パットは、やっと洋一の首から手を離した。それでもすぐに洋一の左腕を抱え込み、身体を押しつけてくる。
一言も話さないが、頬を染めて幸せそうな表情である。
アマンダは、そんなパットをちらっと見て肩をすくめ、それから言った。
「あそこまでやってしまった以上、責任はとってくれるんでしょうね」
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
「冗談よ」
心臓に悪い冗談だった。
「とりあえず、ここから離れてちょうだい。ボートを出すから、船に戻っていて」
「わかりました」
アマンダは人気のない前甲板に出ると、繋いであるゴムボートのひとつを引き寄せた。
ラッタルを降ろし、もやい綱を結びつける。本職の船乗り顔負けの手際だった。なんでも出来る人らしい。アマンダと結婚する人は大変だろうな、と洋一はぼんやりした頭で思った。まあ、アマンダに対抗できるくらいの男でないと、ソクハキリの義理の弟は勤まらないだろうが。
「それじゃ、パティをよろしくね。夕食食べ損ねさせたみたいで悪いけど、あとで何か届けるから」
「はあ。お願いします」
洋一はパットを連れてゴムボートに乗り込みながら生返事した。事実、空腹はまるで感じない。
パットは洋一にしがみついたままで、こちらも文句ひとつ言わない。頬が紅潮したままで、心はどこか飛んでいるようだ。
アマンダは、パットを強引に洋一から引き離すと、肩をガクガクと揺すぶって何か鋭く言った。
パットは、目をぱちくりさせると、はしゃいだ様子で頷く。
アマンダが船に戻る。パットは、ラライスリの衣装のままゴムボートのエンジンをかけ、舵をとった。さっきの光の中のラライスリは綺麗だったが、その衣装のままゴムボートに横座りしてエンジンを操るパットも妙に似合っている。いかにも、活動的な少女神というイメージである。
パットが一声叫んで、ゴムボートをスタートさせた。洋一があおりを食って尻餅をつくと、アマンダが甲板に立って苦笑しながら肩をすくめているのが見えた。
食事船は、たちまち遠ざかっていった。
パットはまだ夢ごごちのようだったが、何も考えなくても身体は動くらしい。ゴムボートの舵取りは確かで、たちまち指揮船に近づく。舵を巧みに操ってボートを寄せると、一挙動でもやい綱を結んでしまった。
ココ島の娘としては当然のことかもしれないが、シャナならともかく「お嬢様」であるはずのパットがそういう技を見せると、洋一は違和感を感じる。
ただし、パットが単なる「お嬢様」なんかではないことは思い知っているのだが。
指揮船にはシェリーが残っていたらしい。すぐに船室から出てくると、洋一の方に手を差し伸べてきた。
思わず洋一が手を握る。その途端、すごい力で洋一の身体が甲板に引き上げられた。
シェリーが、片手で軽々と洋一を引き吊り上げたことに気がついたときには、すでにパットが引き上げられている。
ここにも外見と中身が違う女性がいた。
パットがペラペラとシェリーに話しかける。シェリーは頷いて、入れ替わりにゴムボートに乗り込んでスタートさせた。
ボートがたちまち食事船の方に遠ざかって行くのを後目に、パットは洋一の背中を押して船室に入った。
洋一をソファーに座らせると、パットはストンと隣に座って身をもたせかけてきた。
積極的と言えれば言える。だが、あまりにも天真爛漫なため、ロマンチックなムードはまったくない。
魔法は解けてしまったらしい。今の洋一は、かわいい妹になつかれている兄の心境だった。
ほんの数分もすると、パットはすやすやと寝息を立て始めた。まったくよく眠る娘だった。
これだけ無防備に眠られると、もはや手を出すどころではない。また、無意識にもそれがわかっているからこそ、パットは安心して眠れるのだろう。
洋一は、パットを起こさないように注意して立ち上がった。そっと抱き上げて、寝だなに運ぶ。ラライスリの衣装を脱がせたほうがいいような気がしたが、さすがに今それをやる気はしない。まあ、汚すわけではないからあとでアイロンでもかければ元通りになるだろう。
洋一は、パットにシーツをかけてやってから船室に戻った。前にもそっくり同じ行動をとったような気がする。パットとは、そういう縁があるのかもしれない。
ソファーにぐったりと座り込む。今頃になって、しでかしたことの記憶が甦ってきて、洋一は頭を抱えた。
海のカハ祭りに参加しているカハ族のほとんどの連中の前で、こともあろうにパットとラブシーンを演じてしまったのである。
パットの方が積極的だったとはいえ、片や年端もいかない少女、片や立派に成人した大人となれば、どちらが責任を問われるかは言うまでもない。
まさか、責任をとって結婚しろとまでは言われないと思う。ソクハキリが家長である限り、パットの行動について洋一に尻を持ち込むことはまずあるまい。
だが、一般のカハ族にそこまでの理解を期待できるはずもない。特に、舞台から引き上げるときに血相を変えて向かってきた屈強な若い男たちのことを思うと、一刻も早くココ島から逃げ出したいくらいである。
こうなった以上、もはや洋一はカハ族の間に単独で入って行く度胸はない。パットかアマンダについていて貰わないと、何が起こっても不思議ではなくなってしまった。
だが、と洋一は思った。
今までだって、似たようなものだったではないか。どうせフライマン共和国の公用語は判らないし、話せないのならカハ族の連中の前に出て行っても仕方がない。出て行く必要もない。
幸い、この船はアマンダの専用船で、パットやシェリーなども乗っていることから、いくら血の気の多いカハ族の若者でもいきなり乗り込んでくる勇気はないだろう。
だから洋一は、カハ祭りが終わるまで、この船で過ごせばいいのである。そして船団がアグアココに帰還したら、ソクハキリに頼んでこっそり抜けだし、日本に引き上げる。
卑怯で情けない気もするが、これ以上のトラブルを起こさないためにはそれが一番いいだろう。
とりあえず、カハ祭りの間はなるべくひっそりと過ごすことだ。
もう、どんなに頼まれてもタカルルなどは演らないことにしよう。
洋一は、強く頷くと急いでタカルルの衣装を脱いだ。こんなものを着ていては、ラライスリとの仲を認めたように思われてしまうかもしれない。パットと同じ船で寝起きして、一緒に行動しているのだから、いまさらそんな用心をしても、あまり関係がないかもしれないが。
Tシャツとジーパンに戻ると途端に、現金にも腹が空いてきた。
あの騒ぎで夕食を食い損ねたことを思い出す。船を出るとき、アマンダがあとで何か持っていってやるというようなことを言っていたが、アマンダはカハ祭りの総指揮官として忙しいはずだから、あてにはならない。
パットに何か言われてシェリーが出かけたが、彼女が夕食を届けてくれることを願うしかない。
その時、何かが船に接舷する音がした。続いて、かすかな揺れが感じられる。誰かが来たらしい。
洋一が立ち上がったとき、ドアが開いてシェリーが入ってきた。
ちょっと困ったような表情で、ドアを押さえる。続いて、巨大な箱を抱えた女性が入ってくる。
その女性は、テーブルの上に箱を置くと、髪を額から掻き上げてにっこりと笑った。
「メリッサ!」
「また、来ちゃいました」
少しいたずらっぽく瞳をきらめかせたメリッサの笑顔は、洋一の頭から一瞬のうちにラライスリやタカルルに関わる諸々の事象を消し去った。