第2章
洋一は別に独立独歩で歩もうとか、自立への情熱に燃えているとかいう性格ではなかったから、金がなくなれば日本に帰るつもりだった。
だが、親に連絡をとって送金して貰おうと訪ねた領事館で、なぜか洋一はバイトの口にありついてしまった。
洋一の身分は、日本領事館付きの現地雇用要員、ということになる。もちろん外務省の役人である領事館員たちとは天と地くらいの身分の差があり、洋一には何の権限もないのだが、とりあえず日本政府から給料を貰っている、ようだ。
ただし、洋一が役人になったということではない。洋一のバイト料は外務省の人件費からではなく、領事のポケットマネーというか現地対策費あたりから出ているらしい。
警察署にたどりつき、怪しげな英語で懸命に訴える洋一の努力が実ったのか、それともボディランゲージのせいなのかは判らないが、ともかく道順を教えて貰った洋一が領事館にたどりついたときには、もう陽がとっぷり暮れていた。
フライマン共和国の日本領事館というのは、実のところ領事の家だった。もちろん、一国を代表する人物の家だし、公的な役割も兼ねているのだから、邸宅といってよい規模である。
こんなところに、なんでまた日本の領事館があるのかと思って聞いてみると、なんでもこのあたりにある10いくつの島国をまとめて担当している領事の家が、たまたまココ島にあるということらしい。
洋一が領事館を訪ねたときには、猪野と名のった定年間近の老人と、やたらに威張りくさった蓮田という若い男が、留守を守っていただけだった。
ちなみに、猪野は2等書記官、蓮田は3等書記官という肩書きである。その他には現地採用の職員がいるだけで、私らにしたって雑用係みたいなもんですよ、と猪野は言った。
フライマン共和国は、今時珍しいくらい国際的に重要視されていない国で、戦略的にも地政学的にも国際社会ではへき地と見なされているということである。
第2次世界大戦以前は短期間ではあるが日本統治領だったため、結構気を使う部分もあって、日本は領事館を置いている。
ただし、一応領事館はあるものの、特にこれといって外交上重要な交渉もなく、まあそれでも一応国連で議席を持っているため、八方美人の日本政府としては、それなりのおつき合いをする必要があるということらしい。
領事は、どこか他の国を訪問中で、戻ってくるのは来月になるということである。
「日本に送金を頼むことは可能ですが、こっちの銀行に金が振り込まれるのに2,3日はかかります。このへんはのんびりしてますからね。ホテルにでも泊まって、観光なさってはいかがですか?」
初老の2等書記官は、丁寧に言った。
「金がないんです」
「それは困りましたね。まあ、外国人向けの観光ホテルなら、ツケはきくと思いますが」
国際航路からはずれているとはいっても、そこは南洋の島のこと、一応海外資本のリゾートホテルくらいはあるという。
フライマンタウンから少し離れたところにプライベートビーチと専用桟橋を持ち、観光客は船でやってくるらしい。
ただし、グアムやハワイのように、大規模な観光地化をしていないせいで、大量の観光客を受け入れることが出来ず、つまりは宿泊費の単価が高くなる。
宿泊料を聞くと、1週間も泊まったら送金して貰うつもりの額をこえそうである。
仕方がない、野宿か、と洋一は思った。幸いもうすぐ夏だし、フライマン共和国も乾期に入っていて、そう苦しいことにはならないだろう。
どんな場所だって、ここに来るときに乗った船よりひどいはずがない。
「あ、ここらあたりは色々出ますから、そこらへんで寝たりしないほうがいいですよ」
毒虫やらヘビのことらしい。
困った洋一が、こうなったら日本人としての同胞意識に訴えて領事館に泣きつこうかと考えていると、猪野が遠慮がちに言い出した。
「そこでですね、とりあえず衣食住すべてまかなえて、おまけに給料も出るという方法があるんですが、どうですか?」
「え、でも、俺就労ビザもってませんし、日本語しか話せませんよ」
猪野はにんまりする。
「ビザについては心配せんでよろしい。ここは領事館です。それから、やってもらいたい仕事には日本語が話せれば十分」
「ちょっと猪野さん、いくら日本人だからといって、いきなり得体の知れない奴を」
うしろから蓮田がくってかかる。
「彼は信用できそうだよ。金に困ったからといって領事館に泣きついてくるような人に悪人はいないさ」
「しかし」
「だったら、他に何か手はあるのかね?」
不満そうな蓮田をよそに、猪野は洋一の方を向き、おもむろに電卓を取り出してポンポンと打つ。
「どうです?食費と宿泊費ロハで、こんなところでは」
「ええと」
あっけにとられていた洋一がつまる。猪野はニンマリとしながら囁いた。
「1ヶ月やってくださったら、これ以外に日本までの旅費をなんとか出来るかもしれませんよ?こう見えても、航空会社や船会社には結構コネがありましてね」
「……お話を聞かせて下さい」
それはやっぱり、親に泣きついて金を送ってもらうのと、とりあえず自力で帰国できるのとでは、どちらをとるかは考えるまでもないことだった。
ただ、あまりにもうまく行きすぎる事態の展開に、洋一はかすかな疑問と懸念を抱いていたのだが、エサがあまりにも魅力的だっただけにそのままになってしまったのである。
あれよあれよという間に、話が決まってしまった。
臨時雇用契約書らしき書類にサインと拇印を押させられ、洋一は被雇用者となった。
部屋が余っているらしく、領事館の一室の、とても臨時雇いとは思えないような立派な部屋に通される。
まあ、その日はゆっくりしてくれという猪野の言葉に甘えて、洋一は久しぶりにシャワーを浴び、清潔なベッドで休んだ。
フライマン共和国にたどりついたときは貨物船の船底でのザコ寝だったから、大いなる出世だった。