第199章
洋一の思惑はともかく、少女たちはすっかりその気のようだった。全員がてきぱきと動いている。どうやら洋一が眠っている間に役割分担が出来ていたらしい。
厨房には、メリッサとシャナが籠もっていた。この2人が食事係ということか。アンとミナは階段を登っていった。部屋のセットでもするのだろう。パットも、しばらく洋一にくっついていたがメリッサに一声呼びかけられるとしぶしぶ洋一のそばを離れてどこかに消えた。パットにも役割があったのだ。
みんな手際がいい。まるでこういう仕事に慣れきっているような動きだった。どこまで驚かせてくれるのか。
洋一は手持ちぶたさのまま、座り込んでいた。冷えたコーヒーを啜っていると、シャナがやってきて熱いカップと交換していった。どこまでも行き届いている。
この一団の指揮者たるサラは、洋一の隣りに座り込んで何やら帳面に書き込んでいた。どうやらホテル運営に必要な物資や設備のチェックをやっているらしい。そういう仕事が必要なのは洋一にもわかるが、他の少女たちが文句を言わないのは凄い。マネージメントという作業が、掃除したり料理したりといった仕事に劣らず重要であることを、全員が理解していなければ不満が出るはずだ。
そういうレベルの少女たちではないのかもしれない、と洋一は思った。洋一の常識で考えてはいけないのだ。そもそもココ島と日本では常識が違うのが当然で、しかもサラたちは並の少女ではないのである。ひょっとすると、小なりとはいえ一国の動向を左右するかもしれない存在なのだ。まあ、それは象徴的な意味合いの方が強いかもしれないが。
シャナが来た。
「ヨーイチさん、夕食は1時間後です」
「判った。ありがとう」
「それで、いまのうちにお風呂に入っておいたらいかがでしょう、という伝言です」
「風呂か」
そんな贅沢は思いつきもしなかった。今までは生ぬるい海水を浴びるのがせいぜいだったのだ。真水のシャワーなら何をおいても浴びたい。
「いいね。すぐ使える?」
「はい。用意も出来ています。こちらです」
シャナについてホールを出る。メリッサもサラも自分の仕事に没頭しているらしく、気にする様子もなかった。
シャナは厨房の裏に回ると、目立たないドアを開けた。下向きの階段が続いている。
シャナは平然と降りていった。
そういえば、洋一が寝ていた部屋にはシャワーがついていただろうか。確かめもしないで出てきてしまったが、ホテルだとしたら当然部屋ごとにトイレとシャワーくらいはあるはずで、だとしたらこの地下への階段は何なのだ?
ほぼ1階分降りると、そこはかなり広い部屋だった。小さな窓と向こう側にドアがある。その他には寝椅子やベンチのようなものが置いてあるだけの、がらんとした部屋である。
床は板張りだが、階段を下りきった所に靴箱らしい棚があった。ここで靴を脱げという意味らしい。
「服は、あそこの籠に入れて下さい。それでは食事の用意が出来たら呼びに来ます」
シャナはてきぱき伝えると、さっさと引き返していった。
洋一は靴を脱いで部屋に上がった。この部屋には何となく見覚えがある。この場所そのものではなくて、こういう造りを洋一は、いや日本人はよく知っている。
ドアを開けると、疑問は解消した。
そこにあったのは、岩風呂だった。壁の一方が完全に開いている。その向こうに見えるのは、美しい海岸だった。
露天風呂なのだ。それも日本式の。
そう思って見回してみると、小型の石灯籠のようなものが隅の方に立っているし、温泉旅館で使われる木造の洗面器が隅に積んである。ぎこちないながらも、日本の温泉に似せようという懸命な努力の跡が見える。
岩をそのまま使っているらしい不規則な輪郭の風呂場には湯が張ってあって、表面から湯気が立っていた。
こんな所で露天風呂に巡り会おうとは。
洋一は脱力しながら引き返し、服を脱いで籠に入れた。手ぬぐいが畳んで積んであったので1枚取ってドアを開ける。
お湯は生ぬるかった。日本なら温泉とは認められないだろう。それでも海水よりは暖かかったし、口に含んでみると真水だった。
まだ信じられない気持ちだったが、手早く洗い場で頭と身体を洗う。石鹸がなかったので手ぬぐいでゴシゴシこすると、思いがけないくらい大量の垢が流れた。これまで水を浴びるだけで、身体を洗ってこなかった報いである。
濡れたせいで少し寒くなった。洋一は風呂に踏み込んだ。
ゆったり浸かると、洋一は寝そべったまま回りを眺めた。天井はコンクリート造りで、外の方に大きく張り出しているためにあまり視界はよくない。洞窟の中から外を覗いているようなものだが、海岸と水平線くらいは目に入る。あいもかわらず、ココ島は快晴だった。
この風呂もノーラの会社の接待用なのだろうか。日本趣味がプンプンするから、おそらくそうなのだろう。ノーラにしてもあれだけ日本語がうまいのだ。ソクハキリ並の日本好きであってもおかしくないし、似たような趣味を持つ人を接待するのには、この風呂は最適である。
いや、そもそもこのホテルというか別荘は、この風呂のために存在しているのではないだろうか? こんなところに接待用の別荘がある理由はそれしか考えられない。
いずれにせよ、僥倖だった。洋一があの時眠くならなければ、狭いクルーザーに押し込められるはずだったのだ。ノーラとしても、その方が良かったはず……なのだが。
洋一は硬直した。
ひょっとして、あんなに唐突に熟睡してしまったのは誰かに一服盛られたからではないのか?
疲れていたとはいえ、あの眠気は異常だった。ほとんど倒れるようにして寝入ってしまったのだ。疲れが出たというよりは、睡眠薬でも飲まされたと考えた方が自然だ。
寝ていた時間も異様に長かったし、起きたときの気分の爽快さは格別だった。睡眠薬を飲むと起きたときに頭痛がするという話を聞いたことがあるが、その反対の効用のクスリを使ったのかもしれない。
だが、まあ、仮にそうだとしてもクスリを盛った誰かは洋一に危害を加えるつもりではなかったことは確かだ。それどころか、狭いクルーザーに押し込まれる代わりにこの快適な温泉付き別荘に入れてくれたのだから、感謝すべきかもしれない。そこまで計画していたとしたらだが。
しかし、そんな機会があっただろうか?
あの時、洋一が口にしたのは食事だけである。それ以外は水一滴飲まなかった。そして食事は少女たちといっしょだっし、全員が大皿から無作為に料理をとっていた。とても洋一だけを狙ってクスリを盛る機会があったとは思えない。
嚥下物ではなく、例えばガスのようなものを香がされたのだろうか。そっちの方がまだ可能性は高いが、洋一の回りには常に少女たちの誰かがいた。やはり洋一だけを特定して狙うのは難しい気がする。
まあ方法は判らないが、そういうことがあったとしよう。そうすると、やはり実行者は少女たちの中にいると考えざるを得ない。つまり、あの中の誰かは見えないチェスの指し手か、あるいはまた別のプレイヤーのスパイなのだ。
気持ちの悪い話である。できれば、そういう者にはそばにいてもらいたくない。しかし、仮にいるとしても特定するのは難しいだろう。しかも、そのスパイの正体がばれた場合、それが誰であっても今のチームとしての信頼感は破壊される。だけでなく、全員が、とりわけ洋一自身が何かをする気にならないくらい意気消沈してしまうのは間違いない。