第1章
ここの空は青い、と洋一は思った。
空の深さが、日本なんかとは違うのだ。白い雲も違う。どう違うのかは判らないが。
「おい!ぼやっとしてるんじゃない!」
「すんません」
怒鳴り声に我にかえり、洋一は鞄をかかえて走った。
怒鳴り声の主は、すでに細い山道をかなり先まで進んでいた。気温や湿度をものともせずに、ドブネズミ色の背広にネクタイまできっちり締めた洋一の上司、日本領事館3等書記官の蓮田である。
(いいかげん、名前呼んでくれないもんかな)
せかせかと歩く蓮田に追いついて、すぐ後ろに従いながら、胸の中で舌打ちする。
洋一のことを、部下などとは思ってないのだ。使用人、というより道具扱いだ。
まあ、その方が気楽でいい。どうせあと1週間もすれば、こんな奴とはお別れして、その後一生出会うこともない。
洋一は、空を見上げる。
青くて、深かった。
諏佐洋一は、半年前に20歳になったばかりである。一浪して去年大学に入ったが、早くもドロップアウトしかけていた。
まだ籍は残っているが、今年はまったく大学に行っていない。春休み中バイトして貯めたカネで格安のエアチケットを購入、とりあえず日本を出た。
脱出、というほどではない。単にツアーに参加したり、ホテルが決まっているような旅行ではつまらないと思っただけのことだった。
海外は、初めてではなかった。高校時代にサイパンと香港に行ったことがある。
だから、いわゆる海外の観光地が日本人には甘いということは判っているつもりになっていた。
もっとも、それは日本人に人気があるのではなく、円が好かれているだけなのだが。
とりあえずインドネシアに飛び、マレーシアに渡り、それからはどこをどう回ったのかよく覚えていない。
フライマン共和国に来たのは偶然である。
どこかの町で帰国用にとっておいた金がスリにやられたらしく、ほとんど文無しになった洋一はその国の警察に行った。
親切なのかやっかい払いをしたかったのかは不明だが、警察ではひどい英語を話す警官が、ここから一番近い日本の領事館があるのはフライマン共和国なので、そこに行って相談したらよかろうと教えてくれた。
さらに、文無しの洋一のために、この辺を巡っているという小さな貨物船の無給船員というか雑役夫の職を世話してくれたが、これはどうやら無給でコキ使える労働力を供給してリベートを貰ったらしい。
それは仕方がないとして、ひょっとしたらどこかのタコ部屋に売り飛ばされるのではないかという洋一の心配をよそに、途中で何かされるようなこともなく、洋一はどうやら無事にフライマン共和国に到着したのである。
初めて見るココ島は、田舎だった。
洋一は、ココ島などという場所は聞いたことがなかった。いや、フライマン共和国という国名も知らない。
それは現代の日本人青年としては、当たり前なのだが、それでも目の前にある場所はひどすぎた。
何もない、というのが第一印象だった。
南の島らしく、一応はヤシの木が生えた海岸が続くのだが、ただそれだけである。
貨物船が岸に近づいてゆくと、どうやら桟橋と2,3軒のほったて小屋のような建物があるのが見えてきた。
だが、それ以外何もないのである。
「ここ、本当にフライマン共和国?」
洋一のカタコト英語の問いに、貨物船の船員はにやっと笑って言う。
「何を期待してたんだ? 高層ビルにコンビナートか? 船着き場があるだけでも、このへんじゃ都会なんだぜ」
それは本当だった。
ココ島に着く前に、いくつかの島で荷を降ろしたが、大半の島では沖合に停泊したまま、島民がカヌーなどで荷を受け取りに来ていた。
だが、洋一が聞いたところでは、フライマン共和国は国連に議席を持つ歴とした独立国であり、しかも日本の領事さえいるはずなのだ。その国の、定期貨物船が立ち寄るほどの港が、まさかこんなに何もないところだとは思わないではないか。
ココ島に上陸してからも、違和感は消えなかった。
なんと入国管理所すらない。
パスポートは幸い盗まれなかったので不法入国にはならないはずなのだが、申告しようにも相手がいないのではどうしようもない。
貨物船の船員たちは、洋一の荷物を桟橋に放り出すと、上陸もしないで引き上げていった。船乗りを歓迎する酒場といった娯楽施設が、ここにはまったくないので停船する意味がないのだそうだ。
洋一は、貨物船が水平線に向かって小さくなってゆくのを呆然と見守っていた。
ふと気づくと、貨物船が降ろした荷物の小さな山を調べている老人がいる。
小柄だが、よく焼けた肌と白い髭がなんとも南国的で、まるで冒険小説に出てくる島の老人そのものといったかんじの人物である。
しかし、もはやこの人に頼る以外にどうしようもない洋一は、思い切って訊ねた。
「ファットチュースピーク? アイウォンチューユースピークエングリッシュ」
振り向いた老人は、まずはじっくりと洋一を眺め、それから笑って言った。
「あんた、日本人だろ?わざわざ英語はなさんでもいい」
日本語が通じるらしい。聞けば、なんでも太平洋戦争の前後に、日本の兵隊がこの島にも来ていて、仲良くしていたそうだ。
ずっと海外貿易をやっていて、といってもほとんど雑貨屋みたいなものらしいが、そのせいで多少は日本ともつきあいがあるという。
「珍しいね。貨物船で来る日本人のお客さんなんか、ほとんどいないからなあ。入国管理所は空港にあったと思ったが、そこに行けばいいんではないかい?」
「空港があるんですか」
洋一はほっとして言った。ひょっとしてどこかの未開の島に流されたのではないかと疑っていたのである。
「あるよ。といっても、プロペラ機くらいしか降りられないけどね」
それでも、海外の客が着くというのなら立派な国際空港である。
「道を教えてもらえますか」
「一本道だけど、結構遠いよ。荷を積むのを手伝ってくれたら、車で送ってやるが?」
願ってもないことだった。
だが、「車」を見た洋一はまた足から力が抜けた。
それは牛が引く荷車だったのである。
「馬鹿にしたもんでもないぞ」
老人はそんな洋一を笑って言った。
「この島の道はほとんど舗装されておらん。普通のタイヤではすぐパンクするし、エンストの連続でエンジンの寿命も短い。部品は取り寄せなきゃならん。それに、ガソリンがいるだろう、走らせるのに」
「はあ」
「それに比べて、こいつはいいぞ。整備不要、運転不要、燃料は自給自足できるし、大抵の悪路は走破する。ま、ちょっとばかり速度が遅いが、この島ではそれは大した問題にはならんしな」
老人は、頼もしげに牛の背を叩いた。
「しかも、長い間働いてくれて、いよいよ最後の日には、盛大なバーベキューも出来るというものさ」
まあ、南の島には南の島の方法論があるということなのかもしれない。
洋一は、老人を手伝って荷物を荷車に積み込んだ。大小さまざまな箱が結構大量にあって、荷車に積めたのは一部にすぎなかった。 残りは、そばに建っていたほったて小屋のような倉庫に入れる。それが終わったときには、もう陽がかなり傾いていた。
やっとのことで出発した荷車は、牛と老人に引かれてのろのろと進む。洋一は、自分の荷物だけは荷車に積んだものの、そばを歩くしかなかった。それどころか、坂があるとすぐ牛が立ち止まってしまうので、荷車を後ろから押す役が回ってくる。
やはり、これが目的だったのかと思った洋一だったが、確かに道のりはかなりあるようだったし、言葉も通じない初めての土地を、ひとりでどこにあるかわからない目的地に向かうのに比べたら、同行者がいるということは心強い。
「あの、日本の領事館があるというのは本当ですか?」
洋一が聞くと、老人は首をかしげた。
「さあ。聞いたことがあるような気がするがなあ。まあ、行って見ればわかるだろう」
はなはだ頼りない返事だった。
オフロード車しか通れないんじゃないかと思える道を1時間も歩いただろうか。ちょっとした丘を越えると、眼下に町が広がっていた。
「フライマンタウンだ。半径千キロ以内では唯一の大都会だぞ」
老人がからかうように言う。
確かに、町といっていい規模ではあった。規則正しい碁盤目状の道が通り、2階建ての邸宅らしい建物がところどころにあり、あちこちに公園らしい緑の場所まである。
だが、やはり都会とは言えなかった。車らしいものがほとんど走っていないのだ。どうやら、フライマン共和国では自動車はあまりポピュラーな交通手段ではないらしい。
これだけの規模でなかったら、村といいたいような町である。
「立派なもんだろう?ここも、数百年前はヨーロッパの植民地でな。白人のダンナたちが、ヨーロッパ風の町を作ったというわけだ。その頃はゴムなどを作っていたらしいな。ところが、まあ経済的な理由で連中は撤退し、それから日本が来て、アメリカが来て、最後にみんな引き上げて、独立したというわけだが、結局残ったのはこの町並みだけなのかもしれん」
老人が言った。
「どうするね?空港は町の反対側だが、日本の領事館に行きたいとか言ってなかったか」
「あの、あるんでしょうか。領事館が」
「いや、わしはよく知らんが、多分警察に行けばおしえてくれるだろう。警察は、ほらあの旗が上がっているところだよ」
丘の上からも、その建物はよく見えた。フライマン共和国の国旗らしい、単純な星を組み合わせた旗が誇らしげに上がっている。
「わかりました。行ってみます。ここまで、ありがとうございました」
老人は最後に手を差し出した。
「わしの名はローグだ。多分、また会えると思うよ」
なぜかウインクすると、老人は牛とともに去って行った。
洋一は、ため息をついて荷物を担ぎなおした。警察署までは、まだまだありそうだった。