第186章
もちろんそれさえクリアすれば、すべて許されるなどとは思ってはいない。何というか、それがスタートラインに着くための洋一側の最低限の姿勢だと考えていた。
しかし現実には、トラックに出る前に挫折しそうである。食事の支度をするサラが、可愛かったのだ。
ティナとはしゃぎながら働くサラは、とても幼く見えた。こうしてみると2人とも女子高生にしか見えない。特にサラは、日本領事館で働く姿やカハ祭り船団での落ち着いた様子を見ているだけに、見間違えるほどの変わり様だった。
サラも無理をしていたのかもしれない。というより、こんな事態に巻き込まれた以上、ただの女子高生では耐えきれないと判断して、自分の心を殻で覆っていたのだろう。
あの冷静なサラもサラには違いあるまい。強靱で素早い心の動きを全面に押し出すことで、どうにかやってきたのだ。
洋一と2人きりになったとき、やっとその仮面は剥がれたのだろう。そして、子供の頃の友人といっしょにはしゃぐことで、サラが本来もっている明るい性格が出てきているのかも知れない。
やがて、ティナとサラは料理を次々に運びこんできた。洋一がついているテーブルの上は、たちまち皿でいっぱいになる。
いずれも、正式な料理というよりは残り物の再利用といった外見だったが、洋一にはむしろこっちのほうが親しみやすい。
「ヨーイチ、いくらでもどうぞ。足りなければ作るから」
サラに続いて、ティナがサラの肩を抱きながら何か言った。サラが肩越しに言い返す。
「ティナさんは、なんて言ってるんだ?」
「なんでもない」
サラはニヤニヤしているティナをキッチンの方に押し返しながら答えた。あの顔だと、相当きわどい事を言われたに違いないな、と洋一は思った。
腹が減っているのは事実だった。洋一は猛然と食べ始めた。
「どう?」
「うん。うまいよこれ。好みの味だ」
「良かった」
サラがパッと笑った。
実際、サラたちの作った料理は外見はともかく味はなかなかのものだった。庶民風のおいしい料理、というべきだろうか。特に腹が減っている時にその味が引き立つようだ。
甘さ、辛さがきつい。単純で純粋で、肉体労働者が仕事の後で食ったらさぞかしうまかろうと思えるような料理である。
サラにそのことを言うと、サラは頷いた。
「この食堂の料理はティナがやっているのよ。お客さんはこのへんの人たち。地元のプロの味よ」
そういう意味でのプロなのだ。安い材料でそこそこうまい料理を大量に作るというコンセプトなのだろう。メリッサの料理の対極に位置するものと言えるかも知れない。
もちろん、単純に比較したとしたらメリッサの料理に圧倒的な軍配が上がることは間違いない。だが、メリッサの料理は売るためのものではない。商売としてみたら間違いなく赤字になる。つまり、アマチュアの料理なのだ。
洋一としても、毎日メリッサの料理だけを食い続けるよりも、週に1日くらいはティナの食堂で過ごしたいという気がする。あまりにも好みに合いすぎる料理を食べ続けていると、感動が麻痺してくるかもしれないという恐れを感じるのだ。
実際、メリッサの料理に慣れたら普通の食堂には入れなくなるだろう。
美食家というのは、ひょっとしたら見栄ではなく必然があってうまくて高い料理しか食わないのかもしれない。
こんなことを考えながら、実際には洋一は目の前に置かれた料理を食いまくっていた。
自分で気が付いていたより腹が減っていたらしい。
残り物の処理にしては量があった。おそらくは、明日お客さんに出すはずだったものもまじっている。そのへんは気にならない。別にただ飯を食っているつもりはないからだ。洋一は、食べた分は払うつもりだった。
サラも一段落つくと、洋一の向かいに座って食べ始めた。考えてみれば洋一とサラの条件は同じなのだから、サラだって空腹だったはずだ。洋一だけ休んでサラを働かせるというのは男尊女卑そのものという気がするが、サラの方から言い出した以上、洋一に反対する理由はない。むしろ、手伝おうかなどと言えば断られるのは目に見えていた。
大体、洋一は料理が下手とまでは言えないものの、そんなに上手いというわけではないのだ。
ティナはドアの向こうに姿を消した。しばらくして戻ってくると、サラに話しかける。サラは怒ったようにやり返していた。ティナは相手にせず、ニヤニヤしているばかりである。
「なんだって?」
「なんでもない!」
サラの剣幕に、洋一は黙って引き下がった。男は引き際が肝心だ。
サラはしばらくふてくされたように黙って食べ続けていたが、急に言った。
「部屋、用意してくれるって。ティナが」
「あ、そう」
洋一がそっけなく応じると、サラは一瞬探るような目つきで洋一を見て、すぐに視線を逸らせた。
それだけで洋一はすべてを察した。ティナが用意したという部屋には、ろくでもない仕掛けがしてあるのだろう。例えばベッドがひとつしかないというような。
途端に、洋一はあのモデルガンの事を思い出してしまった。今洋一が直面している事態に比べれば、そんなことはどうでもいいことだ。サラが妙に意識しているので洋一も引きずられたが、今は本来なら寝ている暇なんかないはずなのだ。
ベッドがひとつだったら、洋一が床に寝ればいいだけだ。それより、明日どうすればいいのか考えなければならない。
不意に黙りこくって深刻に考え始めた洋一に、サラも同調する。ティナが戻ってきたが、2人のお通夜みたいなムードを察するや回れ右して出ていった。
気まずい食事が終わり、2人は「ティナが用意した部屋」に案内された。どうやら普段は使われていない部屋らしい。日本の常識では考えられないが、割合きちんと片づけられた部屋が何もおかれずに放置されているのだ。部屋が余っているというよりは、モノがないのだろう。
洋一が予想したのと違って、部屋にはベッドなどなかった。板の間にありあわせの敷布がしかれているだけである。案の定、毛布はひとつしかない。
ティナは2人を案内すると、逃げるように消えた。あくまでこの状態を押し通すつもりらしい。
「ま、ゴロ寝しても大丈夫だろう。暖かいしな」
「そうね」
サラはぎこちなく応じて、顔を引きつらせたまま出ていった。ティナに文句をつけるつもりだろうか。
洋一は、壁際に寝ころんだ。いつものことだが、思ったより疲れているようだ。ココ島に来てから不眠症に悩んだことはない。今日だって一日中動いていたし、何度も精神的な打撃を受けて疲れ切っているのだ。
部屋の中は、少なくとも外よりは暖かかった。もともとココ島の気温は、夜になってもそんなに下がらない。絶えず風が吹いているために肌寒く感じる程度だから、空気が動かないだけでかなり暖かく感じる。
腕枕で見上げると、窓から星が見えた。ふと気を緩めたと思ったら、自然に瞼が下がってきた。