第176章
「今いるのが、ここだ。この道を1時間くらい行くと、この街に出る。で、街のはずれに教会があるから、そこに行く」
歯切れ良く説明するノーラは、つい数秒前の女性とも、アマンダと馴れ合っていたときの得体のしれない妖婦とも違う。一体いくつの顔を持っているのだろうか。
ぼんやりしている洋一に代わって、サラがきびきびと返した。
「それから?」
「そこでとりあえず待つ。人に会ってもらいたいんだけど、まだ連絡がつかない。しかしまあ、ヨーイチがそこに着くまでには手配するから」
ノーラはサラを無視したようだった。サラの表情が堅くなる。この2人は上司と部下かと思っていたら、そうでもないらしい。立場の違いはあるが協力している、というところだろうか。もちろんサラの方が立場が弱く、命令を受ける側なのだろう。だからといって直接使われていると言うわけでもないらしい。
そして、ノーラもサラもそれを判っていてやっているのだ。
「……ヨーイチはそれでいい?」
「ああ」
もうこうなったらどうにでもなれである。
洋一は投げやりに言った。
その途端、再びノーラの態度が変化した。
「助かるわ。断られたらどうしようかと思ってたけど、ヨーイチって優しいね」
にっこり笑う。洋一が曖昧に頷き返した時、いきなりノーラが動いた。
あっという間に迫ってきて、洋一の頭が固定され、いきなり前が暗くなった。口唇がこじ開けられ、ノーラの舌が入ってくる。
濃厚なキスだった。
次の瞬間には、ノーラは離れていて、ばいばいとでも言う風に笑って見せた。情緒もへったくれもない、ただのキスである。しかしうまかった。洋一の経験した中では、間違いなく最高のテクニックと言える。惜しむらくは感情がこもってないため、劣情をかき立てる程度の意味しかなかったが。
そして、洋一にはそんな時間は与えられなかった。
サラが立ち上がると、もの凄い勢いで洋一を引っ張って部屋を飛び出したのである。
洋一の腕を抱え込むようにして大股で歩くサラは、ちょっと逆らえないくらい怒っていた。その怒りがどっちに向いているか判らない。ただ、今何か言ったら間違いなくこつちに向けて雷が落ちてくる。
だから洋一は、大人しくついていった。
屋敷を出ると、さすがにサラは洋一を解放したが、あいかわらず機嫌は直っていないようだった。ひたすら前を見つめて、足早に歩いて行く。洋一はしばらく黙ってついていったが、屋敷の敷地を出る当たりで声をかけた。
「サラ……もうちょっとゆっくり行こう」
サラの返事はなかったが、途端に歩くスピードが落ちる。洋一など眼中にないような態度だが、ちゃんと気配には気をくばっているらしい。というよりは、全身の注意を洋一に集中しているようだった。
ノーラもサラも、度肝を抜く行動ばかりである。理解しようとする方が間違っている。この上は何も考えまいと思ったとき、サラが立ち止まった。
「サラ、どうした?」
「何でも……ない」
しかし、サラは動かない。仕方なく洋一は道をそれて、土手を登っていった。サラの前に出ないように気をつける。
土手の向こうは、なだらかに続く下り坂だった。坂……というよりは斜面は道なりに続いていて、その向こうは森に消えている。さらにその向こうは海だ。
洋一は海の方を向いて腰を下ろした。いつの間にか雲が出ていて、太陽が翳っている。風が心地よく、まったくココ島の自然は洋一に優しい。
待つまでもなくサラが横に座ったことが気配で判った。随分接近したものである。洋一に「なつく」のはサラが一番遅かった。どうしてもサラの警戒心が抜けなかったのは感じていた。洋一くらい人畜無害な男はいないくらいなのだが……まあ、第3勢力の連中は違う意見かもしれないが。
「お腹すいたね」
サラがぽつんと言う。言われてみれば、相当空腹である。ノーラやアマンダといっしょにいるときは、そういう世俗的な感覚がどこかにいってしまっていたのだ。
「それじゃ、何か食いに行こうか」
洋一が言うと、サラは素直に頷いた。あいかわらず洋一の方を見ようとはしないが、自分が主導権をとるどころか、洋一に何となく甘えるような態度になっていた。
これでサラも落としたぜ、と洋一は胸の中で自嘲気味に呟いた。いくら「いい人」としての評価が上がっても仕方がない。ましてや、本命はメリッサなのだ。サラやミナには、むしろ敬遠された方がメリッサに近づきやすくなる。
そう思いながらも、何を偉そうに、という自己分析をやめない洋一である。平均的日本青年として、洋一もそれなりの修行を積んでいる。モテるので自信満々の連中をうらやましがったこともあったが、その反面バランスを維持するための苦労や、それが崩れた時の惨劇についても横から見ていて、絶対ああいう目には合いたくないと決心していた。
今までは三角関係どころかたったひとりの相手にも事欠いていたせいで、そんな用心は自意識過剰と自嘲していたが、ココ島に来てからは実地でその理論を応用しなくてはならない立場に追い込まれている。
しかし、結局の所洋一は普通の男だった。それは自分でも判っている。いくら今現実に恋をしている美女がいても、目の前に他の魅力的な少女しかいなければそっちに魅かれるし、相手に自分をよく見せたいと思ってしまう。少女漫画のヒーローのようには振る舞えないのだ。
ましてや、サラは美少女といってよかった。メリッサみたいな絶世の美女と見比べるから見劣りするだけなのだ。洋一の人生では、この先二度とお目にかかれるかどうかわからないくらいである。そんな娘と2人きりで田舎道を歩いている事自体、普段の洋一からしてみれば夢のような状態だった。ましてや、多分混乱していたからだろうが告白めいたこともして貰っている。
そういえば、ミナにもそういう風な告白をされたっけ、と洋一は思いだした。ミナの場合は今ひとつ信用できない面があって、洋一もさほど気にとめてなかったのだが、あれは表面的に見れば告白といってさしつかえないものである。あれからのミナにはそんなそぶりはまったくないし、ミナの立場や考え方からすれば当然の戦術としての意味しかないだろうから、今となっては無かったことと同じではあるが。
考えてみると、本命のメリッサだけには告白されていない。あのタカルル神殿での幻のような体験を別にすれば。
洋一はあわてて顔を引き締めた。あの時のことを思い出すと、足が挫けそうになる。本当にあったこととは思えない。それに、実を言えばほとんど覚えていない。メリッサの流れるような金髪がその白い額にかかっていて、紫色の神秘的な瞳が潤んだように洋一の目をまっすぐに見返しているというイメージが残っているばかりだった。
いつの間にか、洋一とサラは町と呼んでいいような場所を歩いていた。ノーラの屋敷はこの町のはずれにあるらしい。道は広くなり、さすがに舗装はされていないもののよく整備されている。道の両側にはところどころに民家が並んでいて、それが次第に密度を増して行く。
「このへんでいい?」
サラが、歩き始めてから初めて洋一を振り返って言った。目の前には、ハンバーガーショップと屋台の中間のような店がある。
あのタカルル神殿のそばにあった店に似ている。一応食堂らしいのだが、厨房とカウンターだけで、テーブル席がはみ出しているのだ。いや、はみ出しているというよりは、もともと屋外に設置してあるとしか思えない。遊園地のファーストフード店を地味にしたような店構えである。
「ここしかないんだろ?」
サラは笑って、あれこれ注文を始めた。