第168章
アマンダとは、あの懐かしいカハ祭り船団の食事船の秘密作戦室らしき場所で別れて以来である。あそこで、洋一はカハ祭りなどという浮かれた目的とは裏腹の、今回の破滅的なミッションを知った。あの時のアマンダは真剣だった。ソクハキリもそうだった。上辺はいつもの通りの軽薄な態度を装っていたが、いくら洋一が呑気でもそのくらいは判る。
だからこそ、洋一は今までの理不尽な扱いを我慢してきたのだ。でなかったら美少女だらけとはいえ、こんな状態に追い込まれることにはならなかったはずだ。
そして今や、引き返せない所まできている。ここで逃げたらもう誰にも合わせる顔がない。メリッサに軽蔑されるくらいなら、このまま破滅してしまった方がマシだった。
だから、本来ならこんな立場に引き込んだアマンダやソクハキリを恨んでもいいはずなのだが、どうもそういう気にはなれない。
目の前で真剣な顔でオールを漕いでいる女性に、つい好意を持ってしまう。それは、アマンダが水準以上の美人であることとは関係なくはないが、それ以上に彼女自らがフライマン共和国の危機に対して真摯に対応しようとしていることが伝わるからだろう。
しかし、と洋一は思った。
ここで今、洋一の目の前に座ってゴムボートを漕いでいるのがソクハキリだったら、これだけの好意を持てたかどうか怪しいものだ。やはり、美人は得だ。
アマンダは、5分ほど漕ぐとオールを戻した。そのまま洋一の方に近寄ってくる。
「ヨーイチ、ちょっとどいて」
味もそっけもない口調が、洋一の密かな期待を砕く。アマンダは洋一と場所を入れ替えると、静かにエンジンを始動させた。
性能がいいのか、唸るような静かな音がするだけで、ゴムボートはかなりの速度で走り始める。
アマンダの身体ごしに、さっきまで過ごしていた『イリリシア』が見えた。この位置からみると、『イリリシア』の向こうは外海である。周りに船がいないので、ひとり停船しているクルーザーはぽつんと寂しく見えた。
胸が痛んだ。メリッサが、パットが、ミナたちがあそこにいる。置いて行かれるより、置いてゆく方が辛いこともあるのだ。
メリッサもそうだったのだろうか?俺を残して行くとき、こんなに辛い気持ちになったのだろうか。
洋一に恋愛感情を抱いていない以上、メリッサには今の洋一ほどの衝撃はなかっただろう。しかしメリッサは優しい娘だから、洋一なんかよりはるかに心が傷ついているかもしれない。
「ヨーイチ?」
いきなり、アマンダが洋一の夢想を破った。目の前に、呆れたような顔をしたアマンダがいる。
「はい!」
「大物ねぇ……」
アマンダは、本当に感心しているようだ。それとも彼女特有の皮肉なのだろうか?どうも、この女性はメリッサ以上に謎だ。
「まあ、それはともかく、少し歩いてもらうわ。急ぐわよ」
アマンダは断定的に言った。
洋一が振り向くと、いつの間にか背後に海岸が広がっている。
ほんの数十メートルしかない海岸だった。クルーザーから見えなかったのだから、地図にもないようなものだろう。それでも砂浜があり、かなり遠浅で、すぐにゴムボートの底が海底をこすった。
「ヨーイチ、降りて」
まだ海上なのだが、それは日本の常識である。洋一は靴を脱ぐと、転がるようにゴムボートから降りた。
水は膝までだった。海水はもう温まっている。入り江に入り込んでいるせいか、波は穏やかである。沖を見ると、ほぼ真正面にぽつんとあのクルーザーが見えた。
「行くわよ」
アマンダに感傷は無縁だった。ゴムボートを引きずって砂浜に引き吊り上げ、そのへんの木にロープでつなぐと、休む暇もなくナップザックをかついで立ち上がっている。
どうやら、これから歩きらしい。ココ島の交通事情は島に着いた日に思い知らされていたので、洋一は慌てて靴を履き直して後に従った。
アマンダは、砂浜から直接続いている森に分け入った。よく見ると、かすかに踏み分け道のようなものが続いている。それでも見通しは悪く、とても頻繁に利用されているとは思えない。
アマンダは待ってくれない。洋一は最後にもう一度沖の『イリリシア』を振り向いてから、アマンダに続く。
いったん踏み込んでみると、森というほどの密度ではないようだった。大きな木はあまりない。その代わり、洋一の背丈くらいの南洋植物が生い茂っていて、視界がほとんどない。
すぐ前にいるはずのアマンダも見えない。前方から草をかき分けるような気配がかすかにしてくるだけである。洋一は道を踏み外さないようにしながら、出来るだけ早く前進した。
やっとのことでアマンダの背中を視界におさめて、洋一は歩き続けた。道の方も、足下にさえ気をつけていれさえすれば、そんなに不自由なく進める程度にはっきりしている。
アマンダも、早足というほどではない。この分なら、洋一でも何とかついてゆけそうだ。
メリッサの体力を知っているだけに、どんな強行軍になるのかと心配だったのだ。アマンダならメリッサに輪をかけて強靱に違いない。そして、アマンダは洋一に気を使うタイプではない。
森の中は、さすがに蒸し暑かった。湿度も高く、洋一はすぐに汗ばみ始めた。
風がないのだ。気温なら海の上の方が高いくらいだったが、絶えず吹きつける風のせいで快適だった。
洋一は突然思い出した。最初に日本領事館に行ったとき、何か言われたような気がする。
そう、金がないので野宿しようと思うと言ったとき、確か猪野が止めたのだ。毒虫のたぐいがいる、と。
「アマンダさん!」
「なに?」
「あの! この森には、毒のある蛇とか虫とかいないんでしょうね?」
「毒虫? 聞いたことないけど?」
アマンダはそっけなく言った。いつものアマンダなら、こんな絶好のチャンスを逃すはずはない。皮肉もからかいもない、ということはアマンダはそれだけせっぱ詰まっているのだ。
いや、ちょっと待て。その前に、アマンダは何て言った?
「毒蛇とかもいないんですか?」
「いないわよ」
いらついたようなアマンダの返事は短かった。
洋一は拳を握りしめた。やはり、猪野のデマだったのだ。周到に計画された罠に、洋一を誘い込むための嘘だ。
日本領事館に寝泊まりしていれば、バイトの話を断りにくくなるという計算だったのだろう。そしてその通り、洋一はまんまと乗った。
まあ、あの時点では先行き真っ暗だったのだから、どちらにしても「バイト」を引き受けざるを得なかっただろうが、それでも今の今までコケにされていたのには腹が立つ。
この仕返しは絶対やってやる、と洋一は誓った。具体的には、もちろんバイト料の上乗せだ。
その程度の事でしかないことに自分で気がついて、洋一の怒りはみるみる縮んでしまった。
今更、猪野を責めても始まらない。それに、あの「バイト」があったからこそメリッサやパットと出会えたのだから、むしろ感謝すべきなのかもしれない。ただ、コケにされていたことが悔しいだけだ。
そんなことを考えながら、洋一は黙々と森の中を歩いた。島だけあって、土地は起伏にとんでいる。一応道はあるのだが、時々飛び降りたりよじ登ったりしなくてはならず、しかもアマンダは着実にペースをかせぐのだ。ぼんやりしていると置いていかれかねない。