第163章
10分ほどで、メリッサはありあわせの材料を使ってほぼ完璧な朝食を作り上げた。
ベーコンやスクランブルエッグまで揃った正統的なアメリカンブレックファーストである。パンはあるが、ドーナツがないのが画竜点睛を欠くと言えなくもない。だが、そこまで望むのは酷というものだし、そもそもここはフライマン共和国であってアメリカではない。
それに、フライマン共和国での一般的な朝食というのは、これとは違っているような気がする。とすれば、メリッサが洋一の好みに合わせてわざわざアメリカ式を作ったと考えた方が良さそうだ。
「ヨーイチさん、どうぞ」
「うん」
そうとしか言いようがない。メリッサと洋一は、向かい合って食べ始めた。
新婚家庭というか、惚れた女に飯を作って貰って差し向かいで食べるという、考えただけでも恥ずかしいシュチュエィションである。普通だったら狂喜乱舞してもおかしくない。だが洋一は何となく素直に喜べなかった。目の前にいるメリッサが完璧すぎるのだ。
これほどの美貌の女性に手作りの朝食をごちそうされる、というのは男の夢だが、現実には起きそうもないから理想なのであって、実際にそれが起こると嬉しがってしまっていいのか、という疑いが湧いてくる。
実感が沸かないというか、どこかに落とし穴が待ちかまえているとしか思えず、つい身構えてしまうのだ。
これで、いつものようにパットが出てくれば何となく安心できようというものだが、こういう時に限ってあの可愛いラライスリは影も形もない。
洋一とメリッサは、お互いに無口のまま食事を終えた。メリッサは食事中にあまりしゃべるタイプではなかったし、洋一もヘタなことを言うまいと用心していたせいである。
普通、無言の行を強いられているような食事はあまり楽しくないものだが、今回は不思議と明るい雰囲気が流れていた。
メリッサが、ずっとにこにこしていたのである。目もくらむような美人が正面で微笑んでいるというだけで、辺りの空気が輝いているような気がする。特に、メリッサはこれまでどちらかというと陰気なイメージがあって、それでもその美貌であたりを圧倒していたほどだから、その美女が明るく振る舞うだけで、その場の空気はお祭り騒ぎになってしまった。
食事が終わると当然のようにメリッサが後片付けをしつつ、他のラライスリたちのための用意をする。しかし、予想に反して他のメンバーはなかなか現れなかった。まあ、昨夜のあれだけの騒ぎの後だけに、寝込んでいても不思議はない。あまり寝ていないラライスリもいるのだ。
片付けを終えたメリッサが再び洋一の正面に座り、コーヒーを飲みながら雑談に入る。これは素直に嬉しかった。他愛のない話に終始したが、それこそが今一番求められていることだ。
洋一が至福の時を過ごしていると、ようやく人が集まってきた。
まずミナが現れた。いつものように、微塵も寝起きの怠さなど感じさせないきりっとした姿勢である。そのすぐ後には、忠臣たるアンも従っている。
「おはようございます、ヨーイチさん」
「おはようございます」
「おはよう」
返しつつ洋一は感心していた。お早うも何も、徹夜で見張りに立っていたミナが洋一と交代してから数時間もたっていない。その間にちゃんと睡眠をとって、しかも疲労を回復してきたというのか。慣れているのかもしれないが、恐るべき精神力とスタミナである。
アンも同様だった。この少女もろくに寝ていないはずだ。しかし主人の行く所ならどんな場所だろうがついてゆくという熾烈な意志が彼女を持たせている。その根性には洋一なんか足下にも寄れない。
ミナ主従は、礼儀正しくメリッサが用意した食事を食べ始めた。その際にもメリッサにではなく洋一に礼をとるという徹底ぶりである。何か意図するところがあるのかもしれない。
それからかなりたって、シャナが現れた。なぜかパットの手を引いていて、二人とも寝起きが悪いせいか、フラフラしていた。
シャナは、ものも言わずにメリッサの差し出すマグカップを両手で握ると、洋一の隣にすとんと座り込んだ。もちろん、洋一の右手にはいつものようにパットが来るが、しがみつこうにもマグカップが邪魔のようで、こちらもぼんやりと座っただけだった。
シャナは、熱いコーヒーをブラックで少しずつ啜っている。いつもの神秘的な無表情は維持できないらしく、今はごく普通の可愛い少女に戻っていた。
そう、こうしてみるとシャナもとびきりの美少女と言える。可愛さではパットと同レベルかもしれない。ただ、パットがメリッサ似の美貌を闊達さで隠してしまっているのに対して、シャナの方は意図してかどうかはわからないが無感動な雰囲気を隠れ蓑にしているというところに違いがあるだけだ。
シャナの頭脳が、おそらくこの場にいる誰よりも優れていることは判っていた。このカモフラージュも、何か理由があってのことなのだろう。しかし天性の美貌をこうやって隠す理由などあるのだろうか。しかもこんなに小さいうちから?
単にそういう性格なだけかもしれない。
カップ半分ほども飲んで、ようやく頭がはっきりしてきたようだ。シャナは突然背筋を伸ばして言った。
「ヨーイチさん、お早うございます」
「うん。お早う」
どうしてラライスリたちは、みんな判で押したように洋一に挨拶をするのだろう。パット以外の全員がそうなのだ。密約でもあるのではないかと疑ってしまう。
「寝不足か?」
「いいえ。低血圧で、寝起きが悪いんです。でも、もう大丈夫です」
シャナは真面目くさって答えた。とてもパットと同じくらいの年とは思えない。
パットの年齢は謎だが、島の娘であるという条件や白人との混血なら成長が早いということを考えに入れれば、その大人びた肢体にもかかわらず、どうみても小学生に違いない。そしてシャナの方は、東洋人の特徴が色濃く出ていることからして、洋一の見積もりとそう違いはないだろう。つまり、やはりシャナも日本でいう小学生のはずだ。
あるいは、シャナは外見よりいくつか年上なのかもしれないが、それでもこの年頃の少女のセリフではない。少なくとも日本の少女はこんな言い方は出来ない。いや少女だけではなく、大学生や社会人でもここまで言えるかどうか。
その時、洋一はやっと気がついた。この場にいないもう一人のラライスリはどうしたのだ?
「シャナ、サラはどうしたんだ?」
「知りません。私が起きたときには、もういませんでした」
当たり前の返事だった。
今朝早く、甲板で別れたのがサラを見た最後である。あれからかなりたつし、他のラライスリたちが全員起きてきたのだから、あのしっかりしたサラがまだ寝坊しているとは考えられない。
いや、案外シャナと同じで低血圧なのかもしれないが。
「見てきます」
さすがに慣れたもので、洋一が何もいわないうちからミナが動いた。
イリリシアは結構大きな船だが、落ち着いて眠れる場所は数カ所しかないはずだ。果たして、ミナは5分もたたずに戻ってきた。
「ヨーイチさん、サラさんがいません」
「いない?」
「はい。横になったらしい形跡はありますが、かなり前に寝棚を離れたようです」
ミナは、少しためらってから言った。
「それと、ゴムボートがなくなっています」
「なんだって。そんなものがあったのか」
「はい。昨日確かめたときにはありました。小型の2人乗りのものです。圧縮空気ボンベがついていて、自動的に膨らみます」
「でも……音がしないのか」
「しますけれど、そう重いものではないので、例えば海にそっと落としてから、自分で離れた所まで押していって膨らませれば、クルーザーには聞こえないと思います」
ミナは、それから呟くように、私も眠っていて気づきませんでした、と付け加えた。
洋一は唸った。
もちろん、サラが裏切ったなどとは思っていない。サラの気持ちも何となく判る気がするし、今の状態では偵察を出すのは当然と言える。もし相談されていたら、洋一だってゴムボートで誰かを送り出すことに賛成したかもしれない。