第157章
唐突に目が覚めた。
常夜灯のせいでそれなりに明るい。それでも寝棚は奥に引っ込んでいるので周りがよくは見えないところは寝る前と同じだ。だが、さっきと何かが違っている。
飛び起きようとして、洋一は思いきり頭を打った。
ゴンッという音が響いて、洋一は唸りながら寝棚を這い出す。天井があまり高くなかったせいで、それほどのこぶにはならないだろうが、それでも痛い。
下の寝棚では、パットが丸くなっていた。暑くてシーツを剥いでしまったらしく、しかもラライスリの衣装の露出が大胆で、洋一はまたしてもあわてて視線を逸らさなければならなかった。
何度も気づかされるが、パットの幼い言動や愛くるしい顔と、成長途中の身体のギャップは大きい。まだ子供だが、その分かえって魅力的なラインが人目を引く。
パットはいくつなのだろう?
起こさないようにそっと寝棚を離れながら、洋一は改めて思った。子供なのは確かで、洋一の相手には幼すぎるだろうが、どのくらい待てばいいのか。いや待ってどうする。メリッサと二股かけるとでも言うのか。
大体、これは夢だ。平凡な日本人青年が、南の島で見ている夢にすぎない。どうせいつか夢は終わる。だったら夢なんだから、何やったっていいんじゃないか。いやそれはまずいだろう。
とりとめもなく考えながら、船室を抜けて甲板に出る。
クルーザーの甲板は、がらんとしていた。舞台も物寂しそうだ。
妙に暗い。ライトが消えているから当然だが、なのに辺りが見えるのは、いつの間にか夜が明けかかっているからだ。
もう空は、深い紺色から薄い紫色に変化している。雲はほとんどなく、ばらまいたような星の光が優しい。水平線は空の一部を切り取ったように未だ黒く、洋一の正面は大きく盛り上がっていた。ココ島の稜線だ。
ココ島の稜線?
洋一はあわてて辺りを見回した。水平線がはっきり見える。遮るもののない、まっすぐな線だ。
第3勢力の戦隊も、カハノク族の船団も、影も形もなかった。
あわてて舞台に駆け上がる。そこには、タカルルの椅子にもたれて佇むミナの姿があった。
「ミナ、これは?」
「驚いた」
ミナは独り言のように言った。
「ねえヨーイチさん。私は結構自負があったの。父が私に黙って何かするはずがないって。でも、今回は脱帽だわ。明るくなったらコレなんだもん」
ミナの口調はかなりくだけていた。やはり他のラライスリたちの前での丁寧語は演技だったらしい。というよりも、洋一に対してはそれだけ心を開いているというか、仲間意識があるのかもしれない。そして、それを開けっぴろげにしないだけの思慮深さも、やはりミナなのだ。
「じゃあ、本当に知らなかったのか」
「昨日から怪しいとは思っていたんだけど。まさか、これほどきっぱり切り捨ててくれるとはね」
ミナは洋一の言葉が耳に入っていないように言った。もちろん、そんなことはあり得ない。自分でも言っているように、結構ショックだったのだろう。
だがそれでどうにかなるようなミナでもない。その点は洋一も安心していた。この少女は、それほど弱くない。むしろこの衝撃をファイトに変えるはずだ。
「だからヨーイチさん、私はもうあなたについていくしかないってこと。迷惑かもしれないけど、これからもよろしくお願いします」
ミナにしてはせいいっぱいの虚勢だったのかもしれない。むしろ演技にしなければやってられない、といったところか。
「ああ」
洋一は短く答えた。何か言ってやりたいが、言葉がない。
「さあて、さっそくだけど、これからどうしますか?」
いきなりミナが言った。早くも気持ちを切り替えたらしい。
「みんなで考えなくちゃな。子供たちはまだ寝ているんだろ。とりあえずサラを起こした方がいいか」
「了解。でもヨーイチさん、やっぱり何か変わりましたよ、あなたも」
「そうなのか?」
「ええ。不思議なヨーイチさん。会ってから、毎日印象が違う。日本人ってみんなそうなんですか」
「そんなことはないと思うけどね……」
洋一は曖昧に言った。
すると、ミナから見ても俺は変化して見えるのか。自分でも、特に昨日から妙に性根が座ったというか、あたふたしなくなっている気がするが、根本の所では何も変わっていないはずだ。偶然騒ぎに巻き込まれた日本人青年。このスタンスは変わらない。
そうぼんやり考えていた洋一は、はっと気がついてミナを見やった。ミナは洋一の顔を見つめながら、不満な様子など微塵も見せずに大人しくしている。変わったのはミナの方なのかもしれない。
「どうするかな」
我ながら、他人事のような口調だった。実際にせっぱ詰まったような感覚はまったくない。自分でもどうしてしまったのかと思う。昨日までの、あの焦りが全然戻ってこないのだ。
それどころかこれでいいんだ、という気持ちがどんどん強くなっている。すべて上手い具合に進んでいる、予定通りだという確信が強い。
洋一は、迷った末に決断した。というより、それしか方法がなかった。そもそも何か決断して実行できると思うこと自体がうぬぼれなのだ。
「しばらく様子見だな。こっちがじっとしていれば、そのうち誰かが来るだろうし」
「はい」
「この船は大丈夫なのか?」
「アンカーがうってあるから流されたりはしません。燃料も十分あるし、いざとなったら何とか動かせると思います。でも、エンジンが故障していたら、ちょっと自信がないかな」
アンカーというのはどうやら碇のことらしい。さすがにミナ、ぬかりなく調べておいたと見える。
船を動かせるのか、と聞きかけて洋一は質問を飲み込んだ。それは実証済みだ。ここにいるエキゾチックな少女は、第3勢力の行動隊長なのだ。何とかするだろう。それに、昨夜までちゃんと動いていたのだから、再始動すればいいだけのはずだ。
「他に何か」
「ここは俺がいるから、ミナは休んだらどうだ? 昨日から徹夜なんだろ」
「ええ、でも……」
「何かあったらすぐに呼ぶから」
ミナは少し考えて頷いた。
実際に疲労が溜まっているのだろう。溌剌として見えるが、昨日は朝からあれだけの騒ぎに対処したあげく、完徹までしたのだ。疲れていないはずはない。
「それでは、よろしくお願いします」
ミナは姿と声に似合わぬ古風な挨拶をして舞台を降りていった。
洋一は、ミナが船室に消えるまで見送ってから、舞台の上の椅子に腰掛けた。こうしてみると、この椅子はなかなかの座り心地である。しかも視界が開けていて、水平線がよく見える。右側はココ島の稜線だ。
光線は斜め後ろからきているようだった。朝の海特有の、けぶったような穏やかさが心地よい。これでは見張りというよりベランダのデッキチェアで休んでいるようなものだ。
だが、現実問題として見張るようなものは何もなかった。見渡す限りの海面には船ひとつない。このクルーザーはココ島の沖合で、まったく孤立していた。