第156章
「すみません。まったく聞いてないんです」
ミナはしおらしそうに言った。神妙にしながらも、嫌みにならない程度に茶目っ気が表情に現れている。これがメリッサだったら土下座しかねないところだが、ミナの方が図太いのか、あるいは洋一を理解しているのか。
いずれにせよ、その態度は洋一にとって不愉快なものでなかった。むしろほっとするくらいである。
「だったらあれは一体何だったのかしらね。私はよく覚えていないけど、ミナはどう?」
サラが言った。「あれ」が何を意味しているのかは明白である。
「私も、記憶が途切れ途切れです。トランス状態って、ああいうことを言うんでしょうか。シーンが細切れになっているというか、所々しか思い出せないんです。それにその時自分が何を考えていたのか、全然判らない」
「何も考えてなかったんだと思う。多分何かに乗っ取られていたのよ」
サラは言ってから、珍しく小さく舌を出して笑った。
「これじゃ何も判らないって言ってるだけね。責任放棄だわ」
「まあラライスリなんだろう。そういうことにしておいた方がいい」
洋一が乱暴に結論した。
サラもミナもそれで納得したようだった。というより、議論しても仕方がないことはとりあえず棚上げにしようということだ。今はそれより重要な問題がある。
洋一は言った。
「さて、これからどうする」
サラもミナも無言だった。洋一を見返すだけである。
洋一もため息をついた。手のうちようがないとはこのことだった。
さしあたっての危険はないように見える。このクルーザーはまだ無事だし、何か起こればとりあえず対応できる。ことさらにクルーザーから脱出しても危険が増すだけだ。
周囲がどうなっているのか判らないが、だからといって探りに出かけるのも考えものだ。
かえって危険を呼び寄せかねないし、ただでさえ洋一以外は未成年の少女たちという非力なグループをみすみす分割してしまうことになるのだ。もっとも、このラライスリたちの中に洋一より非力な者がどれだけいるか不明だが。
洋一の思考を当然読んでいたのだろう、ミナが言った。
「偵察に行ってもいいんですけど、人の気配がまるでないんです。多分、もう誰もいないんじゃないかと」
「みんなそうやって出ていったのかな」
「おそらく」
気の滅入る話だった。
洋一たちは、つまりは置き去りされたのだ。
何が起こったのかわからないが、舞台で熱演しているラライスリとタカルルを後目に、乗組員たちは整然と退去したに違いない。
洋一はもちろん、ラライスリたちもあの異様な緊張感の中で周囲に目を配る余裕が失われていたし、例え声をかけられても気づいたかどうか疑わしいが、それでも見捨てられたことには違いはない。
しかし、全員で退去しなければならないような、どんな事態が持ち上がったのだろう?
「今はあまり動かない方がいいと思う」
サラが言った。この少女が言うと、それはもう確定した事実のように聞こえる。
それに言外の意味も判った。メリッサが寝込んでいる以上、動きようがないのだ。
「そのうち夜が明けるから、そしたらどうなっているか判るんじゃないかな。今は休むべきだと思う」
「賛成します」
シャナが小さな声で言った。いつの間にか、サラのそばにいる。
無論、ミナにも異存はないらしく何も言わない。パットは洋一のそばにいる限り、地球がなくなっても動じそうにないので、これは決定事項となった。
「じゃあ見張りを残してみんな休みましょう」
サラがやはり主導権を握っている。本来なら洋一の役目なのだろうが、どうみてもこの場はサラの方がリーダーシップがあるし、言っていることも正しい。それに洋一は本来そういうことをあまり気にしないたちである。
「それじゃ、ヨーイチ……」
「私が最初にやります」
サラの言葉を遮るように、いきなりミナが断定的に言った。
「これでも結構鍛えているし、一晩くらい寝なくても平気なんですよ。私よりヨーイチさんの方が明日は大変になると思いますから、休んで下さい」
畳み込まれるように言われると、反論できない。洋一がサラを問いかけるように見ると、サラは小さく肩をすくめてみせた。
「わかったわ。じゃあ悪いけれどミナ、よろしくね」
「はい」
サラはあっさりしたものだった。傍らのシャナを促して、さっさと船室に引き上げて行く。状況判断の素早さと行動力は逸品である。ラライスリたちの中では、もっとも平凡に近い故の現実的な魅力の持ち主だった。
「ヨーイチさんも」
ミナに促されて、洋一も船室に向かった。確かに疲れている。興奮がさめた今、足下がふらついていた。
クルーザーの船室は静まり返っていた。アンもいない。どこかで寝ているか、ミナをサポートしているのだろう。
洋一は色々試したあげく、狭いドアを開けたところに寝棚が並んでいるのを発見した。もちろん誰もいない。
一番近い寝棚に転がり込もうとして、いきなり洋一は衝撃を受けた。
信じられないことだが、自分の腕にぶら下がっているパットを今の今まで忘れていたのだ。
パットはもちろん何も気にしていなかった。さっさと自分から寝棚に転がり込む。その上で端の方に身体を寄せて、洋一の寝る場所を作った。
「いや、パット、狭いから俺は上で寝るよ」
洋一は、かろうじて言った。どうしてこの姉妹はこうも無防備の上に挑発的なのか。しかも、自分では全然わかっていないところまでそっくりだ。
「セマイ?」
「あー。スモール、じゃなかったnarrow、narrow」
「ナロウ?」
「うーん。This bed is a narrow」
「……」
洋一の怪しげなジャパングリッシュが通じたのかどうか、パットはちょっとがっかりした顔をしたが、それでもにっこり笑って「オゥケィ」と言った。
そして、目を閉じたかと思うとあっという間に寝息を立て始めた。
その様子が可愛すぎて、洋一は必死で梯子をよじ登って上の寝棚に転がり込んだ。
横になってもメリッサやパットの寝顔がちらつく。身体はクタクタになっているのに、神経が高ぶっているのか眠れない。
これほど疲れていなければ、パットを襲っていたかもしれない。危ないところだった。メリッサのときも、手を握られたまま眠られて、よくもまあ無事だったものだ。
そういえばミナが見張りに立つと言っていたが、交代時間を決めていない。起こしに来てくれるのか。そのためには、ここで寝ていることを教えておかないと……。