第142章
事態はいっこうに進展していないようだった。あいかわらず、洋一たちのいる舞台は光の中にある。クルーザーの甲板くらいなら何とか見分けられるものの、船の周囲は闇に溶け込んでしまって、周りで何が起こっているのかまったくわからない。
操舵室からも何も言ってこない。だから、洋一としてはじっと座っているしかない。
どれくらい時間がたったのか、もう完全に日が暮れているから、舞台に上がってから数時間は過ぎているはずだ。
さっきから腹の虫が鳴いている。それは我慢できるとしても、トイレの方はいつまでも我慢できるはずもない。日没前に行ったから、あと数時間は何とかなるとしても、いずれは生理的要求に屈することは確実である。
ラライスリたちはどうなのだろうか?
いずれも克己心満点の少女たちだ。我慢強さも体力的にも、多分洋一とはくらべものにならないはずだが、それでも限界はあるだろう。第3勢力は、果たしてそれについて考慮しているのか?
見る限りでは、ラライスリたちはまったく不満そうでも疲れていそうでもない。だが洋一が思い知っている通り、彼女たちは文字通り倒れるまで平然とがんばり続けかねないのだ。
そう気がついたとき、洋一は思わず立ち上がっていた。いきなり腕を振りほどかれたバットが不満そうな声をあげる。それにかまわず、洋一は椅子を離れた。
何事かと振り返るサラの腕を掴む。
「ヨーイチ」
「サラ、無理はまずい。みんな緊張しっぱなしじゃそのうち倒れるぞ。ちょっと休もう」
「でも」
「判りました」
煮え切らないサラの前に、ミナが割り込んだ。
「私が行きます。少し待ってください」
そのまま、ミナは滑るような動きで舞台から降りる。洋一とすれ違う瞬間、ミナはちらっと笑みを投げかけてきた。実に甘い、とろけるような微笑みだった。一瞬、洋一の目を釘付けにして、ミナは闇に消えた。
ふと気づくと、メリッサやシャナたちが洋一の方を見ている。洋一は肩をすくめて、椅子に戻った。
ミナはすぐ戻ってきた。
闇の中から浮き出すような舞台に現れて、あたかも王座につく洋一に挨拶する家臣のように、洋一に跪く。
「タカルル様、ただいま戻りました」
「おい」
「舞台監督と交渉してまいりました。タカルル様のご意向はもっともなこととして、目立たないように休んでもよろしいということでした」
「ミナ、やめろよ」
「はい」
顔を上げたミナは、いたずらっぽい微笑みを返してきた。最高の笑顔である。そのままじっと待っている。洋一はドギマギしながら言った。
「あー。つまり……休んでいいと?」
「はい。今は待機状態なので、目立たないように一人か二人ずつ抜けても大丈夫だそうです。ただし、全員一度は駄目だと」
ミナの口調は、あいかわらず臣下モードだった。タカルル様ごっこを続けるつもりらしい。
「それじゃあ……ミナ、今の内に休まないか」
「私はまだいいです。アン?」
「私はミナ様とご一緒させていただきたく思います」
アンまでもが調子に乗ってしまった。
「判った。まずは、私とシャナが休ませて貰う」
いきなりサラが断定的に言った。それでいいね? という視線を洋一に向ける。
洋一があわてて頷くと、サラはシャナを伴ってあっという間に舞台から消えた。
ミナは不思議な微笑みを浮かべたまま、ポーズに戻った。何を考えているか洋一にまったくわからないのはあいかわらずである。アンもまた、主人に従う。この主従は実によくわかる。いや、行動自体は予想がつかないのだが。
洋一がやれやれとばかりに椅子に戻る。さっそくパットがしがみついてきた。首をしめられながら、洋一はこちらを向いて立っているメリッサと視線を合わせた。
紫色の瞳が、はっきり見えた。視界全体をその神秘的な瞳が占めているようだった。
メリッサは、とらえようがない表情をしていた。瞳は確かに何かを語ろうとしている。しかし全体的なイメージは、洋一には翻訳しようのない言葉で記されたメッセージのようで、とまどうしかなかった。
メリッサは少し首を傾けて、小さく頷いた。それから滑るような動きで背を向ける。その動き全体が、夢のような静寂の中で行われて、洋一はただ見とれるしかなかった。
パットの首締めで、洋一は我に返った。
「わ、わかった。パット、やめてくれ」
パットは怒っていた。すぐに洋一の首から手を離したものの、かわりに後ろから洋一に抱きついて、激しく洋一の耳に立て続けに何事かを吹き込む。
内容は判らなかったが、意味はよく分かった。この少女は、明らかに今「女」なのだ。
パットを振り返ってみると、突き刺すような緑のまなざしがあった。その瞳は、信じられないくらい澄み切っていて、さっきのメリッサの瞳に勝るとも劣らない。
この姉妹は、どっちもただ者ではない。
洋一は息を飲むほどの衝撃的な瞳に立て続けに遭遇するという、自分の運の良さにため息をついた。運が良いと言ってしまってよいかどうかは疑問だが、少なくとも感動することだけは確かだ。
このややこしい状況の最中でなかったら、どんなに良かったことか。しかし、この感動は今の状況と少なからず関係がある。極限状況に追い込まれてこそ、発揮される魅力というものもあるのだ。
ようやく、パットが落ち着いたらしい。一言鋭く言ってから、洋一の頬に軽くキスをする。
それから、得意そうな表情で後ろ向きの姉をちらりと見た。この場は勝ったというところらしい。白い頬が紅潮していて、短い金髪は後光のようにパットの顔を取り巻いていた。
理屈抜きにかわいい。洋一には妹はいないが、もしいたとしてもここまで可愛く思ったりしないだろう。
パットは理想の妹といってもいいが、妹と断定してしまうには洋一に未練が残りすぎている。洋一の中にも、パットを異性として認識する感情がかなりあるからだ。
どちらか片方しかいないなら悩むことなどない。しかし、こうして2人が洋一から等距離にいる以上、どちらか片方を選べば全員が傷ついてしまって、今の関係は壊れてしまう。これは、メリッサやパットが実際にどう思っているかどうかは関係ない。
片や、洋一が今現に恋をしている美女、片や可愛いすぎて恋をしそうな少女。しかもその2人は姉妹ときているのだ。
とはいっても、こうやって悩んでいること自体が、実を言うと洋一にとっては快感に近い。日本にいたころは想像だにしない贅沢な悩みと言える。
日本でも似たような悩みを抱えている男は多いだろうが、今の洋一くらい豪華なキャストで悩める者はほとんどいるまい。アイドルとハリウッドスターの間で迷っているようなものだ。
そして、今も洋一の肩には可愛い少女がしがみつき、目の前には美女の背中がある……。
「今戻った」
不意に、暗闇からサラが出現した。背後にはシャナを従えている。