第132章
ではあきらめるべきなのか。いや、その前にまだ検討すべき人物がいる。たった今も、洋一の首を締め付けながら、後ろから覆い被さってきている女の子だ。
パットは、ある意味では洋一と一番親しいといっていい女の子である。スキンシップという意味ではダントツだし、文字通り裸のつき合いをしたことだってある。いくら幼いとはいえ、白人種の血が濃いだけあって同年代の日本の少女よりはるかに発達したその肢体は、洋一の目に焼き付けられてしまっている。
外見もまだ幼いとはいえ、メリッサの妹の名に恥じないかわいらしさで、しかも信じられないくらいの純真無垢だ。
パットの、日本ではとうに失せてしまった素直でまっすぐな精神は、向き合っているだけで心が洗われるような快感だ。
もちろん、それはパットがまだ幼いからではある。パットが何歳なのかは知らないが、たぶん少女というよりは幼女といった方が良い年齢だろう。身体は発達しているが、本来なら洋一が恋愛感情を抱くべき対象ではないのだ。
だが、パットはただ幼いだけの女の子ではない。時としてはっとするほどの大人びた姿を見せるし、あの素直さは単なる純真さというだけでは片づけられないものを感じる。
もしかしたら、パットは本当はもっと大人びているのではないだろうか。洋一の前ではあえて無邪気にふるまっているが、普通いくら純真な子供でも、あれほど素直にふるまったりできないものだ。
表裏がない性格ということは、感情をストレートに出すという行動に直結する。もしパットが見せているままの女の子だとしたら、もっとわがままにふるまってもいい。まあ、ところかまわず洋一に抱きついてくるし、他の女の子、特にメリッサが洋一に近づくと敵意を剥き出しにして反発するというわがままを押し通しているのだが。
それでも洋一から見たパットが、不自然なまでに理想的な女の子であるのも確かである。このまま成長したら、どんなに素晴らしい少女になるだろう、という期待だけで楽しくなるくらい魅力的な少女は、今も洋一のそばにいる。
いつの間にか慣れてしまった、人なつっこい子猫のようなパットと別れる日がきたら、ずいぶん寂しい思いをするだろうな、と洋一は思った。しかし、その日は確実に来る。いずれは洋一も日本に帰らなければならないし、大体洋一がラライスリたちと過ごしているのだって非常事態だからなのだ。
いずれは思い出になるのなら、深入りしない方がいいかもしれない。
洋一は、落ち込みながらそう思った。思い出作りという意味なら、洋一はもうすでに一生もつだけの体験をしてしまっている。青春時代の体験としては、最上のものを洋一は貰っている。誰だって、これ以上のものを得ようと言うのはわがままだと思うだろう。
洋一は、映画の主人公でもハーレクインロマンスのヒーローでもない。たまたま運に恵まれた、ごく普通の青年にすぎないのだ。
だが、今はまだ、ラライスリたちといっしょにいる……。
突然、誰かが叫んだ。
そのあまりにも切迫した口調に、洋一はいきなり夢想からひきずり出された。
そうなのだ。今はぼんやりしているときではなかった。洋一たちは、戦争を止めようとしているのである。
まっすぐ前方の海面に、白いポツポツが出現していた。太陽が真横にあるため、海面がハレーションを起こして見にくいのだが、それでも何かがいるのははっきり判る。
あちこちから「カハノク!」という叫びが上がっていた。甲板を駆け回る人も増えているらしく、辺りが騒がしい。その間も、クルーザーは全速で突進を続けている。
すぐに、前方の白いつぶつぶが近づいてきた。向こうもこちらに向かって動いているらしい。カハノク族の船団と、第3勢力の遊撃船隊は正面衝突しようとしているのだ。
第3勢力は、どうするつもりなのだ?このままでは、戦争をやめさせるどころか全面対決の引き金になってしまうかもしれない。
カハクリ側にしてみれば、第3勢力の船団はカハ側の攻撃部隊が突っ込んでくるようにしか見えないだろう。一応、このクルーザーも第3勢力を表す旗などを立ててはいるが、そんなものは乱戦の中では無視されてしまう。それに、こんな無謀な突進をするのだったら、洋一とラライスリたちの学芸会は何の意味があるのだ?
考えている暇もなかった。カハノク族の船は、みるみるうちに迫ってきたかと思うと、あっという間にすれ違っていった。
向こうも、体当たりしてくるほどの根性はなかったらしい。だが、エンジンの爆音にまじって、タイヤがパンクするような音が何回か起こったのを洋一は確かに聞いた。
あれは銃声だろうか。
相対速度が速すぎるのと、こちらのクルーザーが激しく揺れているせいでよく見えなかったのだが、今のカハノク船団は小型の漁船ばかりだったようだ。おそらく、主力ではない。
ということは、カハノク側はあんな漁船にまで火器を配っていることになる。しかも、それを平気で撃ちかけてきたのだ。これはもう、戦争といってもいい。
宣戦布告は、とっくに下されていたのだ。
洋一は、激しく揺れる椅子の上で中腰になって、後ろを振り返ってみた。操舵室が邪魔で後ろがよく見えないが、斜め後方では遠ざかってゆく漁船らしい船があわてて方向転換しているのがちらっとみえた。
カハノク側は、この突撃隊が前線を突破したと思っているのだろうか。それで、追いかけるつもりで向きを変えているらしい。
だが第3勢力の突撃隊は、数は少ないが高速船ばかりだし、統制もとれているから追いつくのは容易ではなかろう。現に、カハノク族の漁船団は見る見るうちに後方に取り残されていく。
前方に目をやると、またしても白い点々が出現していた。今度は数が多いし、粒も揃っているようだ。それに、どうやら正面からぶつかろうとはしていないらしい。明らかに、こちらの動きに対応した布陣を作ろうとしている。
洋一には、どうしようもなかった。御輿どころか、まるで的みたいに突撃隊の先頭にさらし者にされたまま、敵がぐんぐん近づいて来るのをただ見ているだけである。
感心なことに、ラライスリたちは誰一人として動揺してはいなかった。さすがに、揺れる甲板で身体を安定させるために姿勢を崩してはいるが、全員が配置された場所にいる。
気になるのは、みんなが洋一を見ているような気がすることだ。一見、ラライスリたちは真剣に前方を見つめるか俯くかしていて洋一には関心がないような様子を見せているが、洋一があらぬ方向を向いている時に、一瞬視線を送ってくる。
視線を感じて振り向くと、もう知らぬ顔で澄ましている。なんだか、昔懐かしい鬼ごっこの鬼になったような気分である。
居心地が悪いということはないのだが、何となく落ち着かない。大体、目の前で大スペクタクルが展開されているときに、視線を感じたからといっていちいち気にもしていられないのだ。
それにしても、みんなは何を考えているのだろうか。ミナが、にわか役者のタカルルを気にして注意を払っているのなら判るし、メリッサも置き去り事件のことで引け目を感じているらしいから、そういうことをしても不思議ではない。
だがサラや、シャナ、アンといった娘たちは洋一に何の義理も感情もないし、そういうことを気にする性格でもないはずなのだ。
もちろん、パットは例外である。この可愛い子猫は、視線を送ってくるどころではなく、絶え間ない圧力を洋一の首筋に加え続けることによって、自分の存在をアピールし続けている。
思えば、ただをこねていたパットを説得したサラの一言は、この状況の示唆だったに違いない。メリッサと洋一の隣の位置を争うより、洋一にべったりと密着できる今の場所を教えてやれば、パットが飛びつくのは当たり前だ。
その結果として、パットは満足しきって洋一にしがみついている。洋一の気持ちとか迷惑とかは、あまり考えていないのだろう。まあ、この可愛い子猫にしがみつかれることは、洋一は決して嫌いではない。結構発達した身体をしているのだが、今の状況なら色気よりはエネルギーを感じているため、間違いは起こりそうにないからだ。大体、これだけの目がある所では、何か起きかけてもすぐに阻止されそうだ。