第113章
いつもなら問答無用で飛びついてくるパットまでが出てこないところを見ると、ただ単に疲れて寝ているか、自分の理由でふさぎ込んでいるか、あるいは洋一のことなど気にしてもいないかのいずれかだろう。
洋一にしても、こうやってのんびりしていると瞼が下がってくる。昨夜はあまり眠れなかった気がするが、興奮していたために今まで眠気を感じていなかったのだ。
しかし、いかに決戦場に向かっているとは言っても、こんなのどかな晴れた日に単調な船の揺れに身をまかせていると、それこそ昼寝でもしたくなってくるのだ。
ちょっとよろけかけて、洋一はこれはいかんと操舵室に向かった。
操舵席では、あいかわらず生真面目なアンが身じろぎもせずに舵をとっていた。この少女は眠くならないのだろうか。
「アン。その、いつごろ着くか判るか」
「このままの速度ですと、あと3時間です」
素っ気ない、しかし正確な返事である。まだ、以前に船の操縦のことでからかったことを怒っているのかもしれない。
「3時間か……」
「お昼前になると思います」
「間に合うのか? その、激突までに」
「わかりません」
冷たく言ったアンだったが、すぐに気が咎めたのか、視線を反らせて言い直した。
「その……さっきの連絡では、まだ睨み合いが続いているらしいです。一触即発というわけではないんですが、何時始まっても不思議ではない状態だと」
「そうか。ありがとう」
洋一が言うと、アンはびっくりしたようにちらっと洋一を見たが、すぐに顔を伏せてもごもご呟いた。
洋一の方は、上の空で船室のドアを開けて踏み込んだ。
そこは、満員だった。
少女たちは、くっつきあうようにして眠っていた。洋一が座っていた場所は空いていたが、それ以外はすべて少女たちで埋まっているように見える。
奥の方では、パットとシャナが背中を合わせたまま、同じような格好で横になって丸まっている。2人とも無邪気な子供そのものなのだが、同じようにあどけない美少女がそうして揃って眠っている様子は、洋一の背中にかすかな電流を走らせるに十分な色気というか魅力があった。
そのそばの寝だなにはサラがいて、腰掛けたまま2人の少女を見守っていた。薄い微笑みすらうかべて、緊張は見られない。
メリッサは、船室の角で膝を抱えて顔を伏せていた。眠っているようだが、なんとなく身体全体に生気がない。まだ鬱状態が続いているらしい。
そしてミナは、寝だなに背中を預けて横座りに座っていた。洋一が入ってくると、顔をこちらに向けて、親しみを込めた微笑を向けてくる。
狭い船室は、少女たちの匂いでむせかえらんばかりだった。
たまらずに洋一が向きを変えて出ようとすると、サラが言った。
「待ってヨーイチ」
「え?」
「まだ着くまで時間がある。だから、こちらとしてもコンデションを整えておきたい」
洋一は、ポカンとサラの顔を見た。何を言っているのだろう。
だが、サラはそんな洋一におかまいなく続ける。
「洋一としても、こちらの足並みが乱れていては困ると思う。だから、協力して」
「い、いや、いいけど。何を……」
「いいから、出ていて。すぐに行かせるから」
サラは、そう言いながらなぜかミナを見た。ミナの方は、肩をすくめてみせる。
洋一は、訳がわからないまま船室を追い出された。
あいかわらず真面目に舵を握っているアンに頷いてから、再び甲板に立つ。
潮風が気持ち良かった。この潮風にも、もうすっかり慣れてしまった。あの日本の湿っぽい空気が幻のようだ。
洋一は、操舵席の屋根に昇って座り込んだ。こうしていると、本当にリラックスできるような気がする。クルーザーのエンジンの振動も心地よい。
思わずうとうとしてきた時だった。
「ヨーイチ……さん」
小さな声がした。
ただ小さいだけではなく、遠慮がちというか、元気がない声である。だが、洋一にはすぐにわかった。
この声は、洋一が好きな娘の声だ。
「メリッサ」
勇んで振り向いた洋一だったが、目の前に立つ美少女の顔を見た途端に、口から出かかっていた言葉が凍りついた。
メリッサは、憔悴していた。
身体が一回り小さくなったかのようだ。肌にも張りがない。
しかし、この美少女はそれすら輝きに変える。洋一の目の前に肩を落として立つのは、やつれているが故のゾクゾクするほどの魅力を発散している女神だった。
もともと、メリッサは太陽の下で元気いっぱい、といったタイプの女性ではない。もちろん、明るいメリッサもかわいくて魅力的だが、そちらはどちらかというとパットの方が本領である。
今まで洋一も気づかなかったが、メリッサはむしろ弱々しく、悄然とたたずんでいるような状態のときこそ、魅力を最大限に発揮できるタイプの女性だったのかもしれない。
今のメリッサが、まさにそれだった。男の保護欲というか、征服欲というか、とにかく守ってやりたいとか自分のものにしたい、という感情を引きずり出すためにあるような容姿である。
こうしている間も、洋一としては我を忘れてメリッサを抱きしめたいという気持ちを押さえているだけで一苦労だった。
「ヨーイチさん……」
メリッサは何か言いかけて、またうつむいてしまう。
その様子がまた、悪魔的と言いたいほど魅力的で、これはたまらない。男にとっては毒そのものだ。
メリッサがその気にさえなれば、結婚詐欺師として超一流になれるだろうし、どんな相手でもたらし込むことができるに違いない。その気になっていない今ですら、うぶな洋一なんかは完全に悩殺されてしまっている。
洋一は、死にものぐるいで衝動をこらえた。脳裏で、今まで洋一が見てきた色々なメリッサの姿をフル回転させ、目の前の魅惑的な毒を中和しようとする。
そしてそれは、かろうじて成功した。もし洋一が、その容姿だけでなく性格や人格をも含めてメリッサを好きであるということを自覚していなければ、おそらく耐えることは出来なかっただろう。あまり意味はないが、これは精神の勝利といえる。
「メリッサ。俺は気にしてない。だから、君が気にすることはない」
ぶっきらぼうに言った洋一の声に、メリッサがビクッと震えた。