第102章
『ラライスリ』は、ある程度まで近づくと向きを変えて岸に並行して進んだ。その頃には、もう太陽は水平線に接しかけている。この分では、入港するのは日没前ギリギリだろう。
とすると、アンは実に見事に『ラライスリ』を操って、非常に効率的に航走してきたことになる。あの自信は、そこから来ているのだろう。アンもまた、立派な島の娘なのだ。
海岸はえんえんと続く砂浜だった。遠浅なのか、『ラライスリ』は岸からかなり離れたところを進んでいた。
人っ子ひとり見えないが、すばらしい海水浴場になるだろう。ただ、ここに来る手段がないので、あたら貴重な観光資源が無駄になっている。
しかし砂浜以外には観光名物どころかホテルすらないのでは、ここが日本の観光客でにぎわうことはありそうにない。
日没は、いつものようにあっという間だった。太陽の端が水平線に接したかと思うと、スルスルと沈んで行く。
東の空から天頂にかけては、すでに濃い青だった。東にはもう星がいくつも輝きを増している。
その時になって、やっと人工的な構造物が見えてきた。砂浜の途切れるあたりに、いくつかの建物が見える。
ところが、桟橋らしきものがない。どうやら、砂浜しかないので船着き場が出来なかったらしい。
洋一が見ていると、『ラライスリ』はほとんどまっすぐ建物に向かって進んで行った。砂浜から30メートルくらいまで近づいたとき、いきなりエンジンの音が変化して、洋一は前のめりになった。
逆進をかけているようだ。『ラライスリ』は、それから少し進むと停止した。
すぐにアンが操舵室から飛び出してきて、洋一の前を横切ると碇を投げ込む。
エンジンが停止する。
アンが、洋一の方を見ないようにして、堅い顔つきのまま操舵室に入る。
その時になって、やっと洋一は気がついた。
アンが碇を投げ込んでいる間にエンジンが停止したところを見ると、操舵は別の人間がやっていたはずだ。そして、船内にはアンと洋一以外には一人しかいない。
ミナが回復したに違いない。
洋一が操舵室を覗くと、ミナが澄まして操舵席に座っていた。洋一の方を向いて、にっこりと笑う。
その瞬間、洋一の中で蟠りが溶けた。
今までの気まずい思いや、おかしな偏りみたいなものが跡形もなく消えて行くのを感じながら、洋一もミナに頷く。
ミナの方も同じだったらしい。
少し怪訝な顔をしたが、いきなり顔をくしゃくしゃにすると、洋一に飛びついてきた。
「ヨーイチさん!」
「ちょ、ちょっと危ないよ」
間の抜けた洋一の返答にもかまわず、ミナは洋一に抱きついたまま、じっとしている。
洋一は、肩をすくめて、自分の胸に顔を押しつけているミナの背を軽く叩いた。
「悪かった」
「うん。ごめんなさい」
日本語に堪能なミナらしくない答えだった。それ以上は言えないらしく、洋一にしがみついたまま離れようとしない。
いきなり息を飲むような声がして、アンが顔を引っ込めた。ミナを呼びに来たらしいが、入るに入れないというところだろう。
洋一は、もう1分だけ待ってからミナの背中を軽く叩いた。
「ミナ、そろそろ行かないと」
「……うん」
ミナは、それでも名残惜しげに洋一からゆっくりと離れると、目をこすって鼻をグズッと鳴らした。
泣いていたのだ。演技だとすれば、天才に近い。
だが洋一はもう腹をくくっていた。演技だろうがそうでなかろうが、もうどうでもいい。要は、洋一がどう感じるかなのだ。
だから、軽くミナの頬に触れて、ミナが微笑みながら目を閉じて頬を預けてくると、自分でも驚いたことにそのまま待った。
ミナは、自然体で洋一の掌の感触を味わうように、動かなくなった。
もうしばらく待って、ゆっくり手を離す。ミナは頷くように頭を下げて、小首を傾げる。
「行くぞ」
「はい」
ミナの手をとって、甲板に出る。ミナは嬉しそうに従った。
メリッサやサラには、とてもこんなキザな真似は出来ない。ハーレクインロマンスみたいだなどと思うこと自体、実は自分を飾っている証拠だ。
もっとも、かといってメリッサやサラに対して自分を飾っているとか作っているとかいうわけでもないのだが。
メリッサとだって、もしずっと長くつき合うことが出来れば、もっと打ち解けあえるはずだ。今はまだ、メリッサのあまりの美貌に洋一が圧倒されているだけなのだ。そう思いたい。
だが、今洋一のそばにいるのはミナであり、ミナとの間の垣根がどんどん低くなっていっているのを感じないわけにはいかない。
このままでは、なし崩し的にミナに取り込まれそうな、少し後ろめたい気持ちだった。
「ヨーイチ様、こちらへ」
あいも変わらず馬鹿丁寧なアンだったが、仕事は速い。いつの間にか、ゴムポートが『ラライスリ』の船尾に繋がれていた。
洋一は無意識のうちにミナの手をとってゴムボートに降りた。ミナは身軽にゴムボートに飛び移ってくる。考えてみれば、島の娘であるミナに洋一が手を貸す必要などまるでないのだ。
最後にアンが神妙な顔つきでゴムボートに降りて、エンジンをスタートさせる。その間も、ミナはぴったりと洋一に寄り添ったままだった。
いつもポーカーフェイスのアンだったが、洋一にすら判るくらい動揺が表情に出ている。おそらく、今のようなミナを見たことがないのだろう。
ミナを女主人に見立てて、おちょくるような形で仕えてきたはずのアンは、初めてのケースに対応しきれていないらしい。
ゴムボートはすぐに岸に着いた。
さすがに、洋一はもうミナの手はとらなかったが、ミナの方で洋一に身体を寄せてくる。
アンは無言で杭にゴムボートを繋ぎ、先に立って歩いてゆく。どうやら、とりあえずは物言わぬ従者に徹することにしたらしい。
洋一は、ミナを従えて後に続いた。
アンはこの島のことをよく知っているらしい。迷いもせずに、砂浜の向こうの林に向かっていた。近づいてみると、林に細い道がついている。砂浜に建物がある以上、どこからかここに通じる道があるのは当然だが、アンが進んで行くのはよく見ないとわからないような踏み分け道だった。
獣道というか、洋一だけだったら道があるとは思えないような、かすかな跡である。しかも道に左右から大きな枝や葉が張り出していて、洋一はアンを追うのに苦労した。
林の中は、葉が茂っていてそれでなくても暗いのに、日没後はみるみる光が薄れて行く。 林に踏み込んでいくらもたたないうちに、足下すらおぼつかなくなってきた。前を行くアンの姿もよく見えない。
小屋があるのだから、誰かが住んでいるはずなのだが、ひょっとしたらあれは無人島の物資貯蔵庫のごときものなのかもしれない。
アンが自信たっぷりだったのでついてきてしまったが、『ラライスリ』に残っていた方が良かったのではないか?あのクルーザーには、一応寝だなもあるのだし。
そのうちに、なんとなく前方が明るくなってきた。木々に遮られているが、何らかの人工照明が向こうにあるらしい。
この分なら、今日はまともなベッドに寝られそうだと思った途端に、洋一はひょっこりと開けた空間に出た。
そこは、20メートル四方くらいの空き地だった。地面はただ伐採しただけらしく、アスファルトなどは打たれていない。あちこちに雑草の茂みがあり、そもそもあまり手入れはされていないらしい。どうしようもなくなったときだけ、雑に刈り取るという程度だろう。
そこには、数軒の建物があった。大きさはまちまちだが、いずれもフライマン共和国で一般的なプレハブタイプの平屋である。