第9章
洋一は、がっくりとうなだれながら座り込んでいた。
なんだか、どんどん追い込まれてゆくような気がする。後で笑い話になればいいのだが、とてもそんな楽観的な見通しがたつような状態ではなさそうだ。
まあ、最悪殺されるようなことはないだろう、と洋一が自分に言い聞かせていると、不意にドアが開いた。
びくっとして振り返る。そこには先ほどの無表情な案内役が立っていた。
男は、あいかわらず無表情のまま、顔をわずかに動かして洋一を誘うと顔を引っ込める。
洋一があわてて後を追いかけると、男は無言のまま廊下を歩きだす。
そのまま、いくつかの角を曲がり、階段を昇って、廊下を少し行ったところで、男はあるドアを開けて手で入るよう指示した。
洋一が入ると、ドアが閉まる。
すぐに足早に立ち去ってゆく足音がした。洋一は、足音が聞こえなくなってからドアをあけてみた。
外から鍵はかかっていなかったようで、どうやら閉じこめられたわけではないらしい。
ドアを閉め、洋一はほっとため息をついて、部屋を見回した。
客用寝室といったところで、割といい部屋だった。ヨーロッパ風に壁ぎわにソファーや机が並んでいて、奥に立派なベッドがある。
あまり使われてないらしく、なんとなくかび臭さが漂っていたが、それを割り引いても
日本領事館で洋一があてがわれていた部屋より数段上と言える。今のところ、洋一は大事な「お客様」らしい。
ベッドに腰を降ろすと、そのまま寝てしまいそうだった。クタクタである。座り込んでいるだけで、瞼が下がってくる。
何か忘れているような気がする。しかし、朝からの疲れで、どうでもよくなった洋一がベッドに倒れ込もうとしたとき、ノックの音がした。
洋一は、飛び起きて言った。
「・・・どうぞ」
しかし入ってくる気配はなく、再びいらだったようなノックの音がする。
「どうぞ。開いてますよ」
日本語では通じないかもしれない、と英語で言ってみたが、あいかわらずノックが返ってくるばかりである。しかも、だんだんと勢いが増している。洋一は、胸騒ぎを感じながらベッドから降りて、ドアを開けに行った。
廊下に、料理の載ったトレイを両手に抱えた美女が立っていた。どうやら、さっきのノックは足でドアを蹴っていたらしい。
美女は、洋一を睨みつけると、トレイを持ったまま入ってくる。
「あ・・・・すみません」
そういえば、夕食がまだだった。
そう気づいた瞬間、洋一は耐えられないほどの空腹感に襲われた。人間の身体というのはメンタルなものだ。
その間にも、美女はトレイをいったんベッドの上に置き、部屋の隅に置いてある折り畳み式のテーブルを部屋の真ん中に持ち出して組み立て、さらに椅子もセットする。
トレイからテーブルクロスとナプキンを取り出し、あっという間に食卓に仕上げると、そのまま一言も話さず、洋一に視線すら向けないまま、出ていってしまった。
ドアが閉まるまで、洋一はあっけにとられたままだった。
金髪に紫の瞳、それにシンプルな服装は、ホールで出会った美女に間違いない。ということは、ソクハキリの妹でパットの姉だろう。
しかし、食事を忘れないでいてくれたのは嬉しいが、こっちのことを完全に無視というのは腹立たしい。いくら美人でも、そういうタイプは願い下げだった。
だが今は、この空腹感を片づける方が先だ。
洋一は猛然と食事にかかった。
ポークシチューがメインの、簡単な内容だったが、うまい。誰が作ったのだろうか。これだけの屋敷だから、多分コックがいるのだろうが、あの美女が自分で運んでくるくらいだから、案外使用人は少ないのかもしれない。この屋敷に入ったときだって、出迎えはあの美女だけだったし、それ以外にはパットと無表情な案内人を見ただけだ。
まあ、どうでもいいことだった。
疲れ切っていた洋一は、食事が終わるとシャワーも浴びずにベッドに飛び込んだ。
すぐに瞼が塞がる。
洋一の波瀾万丈の一日は、こうして終わった。
翌朝、洋一は小鳥のさえずりで目覚めた。
まだ早いようだ。陽の光が、ほとんど水平に窓から差し込んでいる。
時計は数ヶ月前、どこかですられてなくしているので、今何時か判らないが、太陽の位置からみてまだ6時前かもしれない。
身体のあちこちが痛いのは、昨日の山越えのせいだろう。それ以外は頭もすっきりして至って快調だった。
服を着たまま寝たせいで、なんとなく汗くさかった。洋一は、ベッドから飛び起きる。 昨日は気づかなかったが、部屋の隅に目立たないドアがあった。開けてみると、案の定トイレ付きのバスがあった。
服を脱ぎ捨てて、まず溜まっていた用をたし、シャワーをあびる。ちゃんと湯が出てきたところをみると、この屋敷の機能は正常に働いているらしい。
もっとも、早朝とはいえ年中常夏のココ島のこと、水のシャワーでも気にならないのだが。
それにしても、シャワーは生き返るようだった。日本領事館の、洋一が泊まっている部屋のシャワーは、かなり老朽化しているらしく、湯加減が出来ない上に水の出がよくないので、洋一の好きな叩きつけるようなシャワーを浴びるのは久しぶりだった。
かなり長い間シャワーを楽しんでからバスタオルを腰に巻いて出てくると、ちょうどドアがしまるところだった。誰かが部屋に入ってきて、色々やっていったらしい。
朝早くから、もうこの屋敷では忙しく働いている人がいるようだ。
ベッドはきちんとメイクされ、昨日洋一が食い散らかしたままだった夕食のトレイは片づけられている。
ただし、少し期待していた朝食はなく、どうやらそこまでのサービスはしてくれないらしい。
ベッドのそばには、洋一のバッグが置かれていた。昨日はあわただしくて忘れていたが、誰かが運んでくれたらしい。
さっき脱ぎ捨てた服は、下着まで全部消えていた。気を効かせるのもいいが、やりすぎだった。バッグに予備の服を入れておいたからいいようなものの、もし用意してなかったらどうすれば良かったのか、洋一としては疑問に思うところである。
昨日着ていたのは、日本領事館の臨時職員としての、洋一としては精一杯の「正装」だったのだが、用意してきた替えの服はジーパンにTシャツという普段着だった。
もっともココ島では、これでも「正装」のうちに入る。大抵の男は、下がブリーフもどきだけで、上半身は裸という格好も珍しくない。
古びたジーパンと、色あせた原色のシャツを着て、さあこれからどうしようと考えいると、ノックの音がした。
どうぞ、と答えてから日本語が通じるかどうか不安になったが、勢いよくドアを開けて入ってきたのはパットだった。
「オハヨウ!ヨーイチ」
あいかわらず元気いっぱいである。ちなみに、格好は昨日とほとんど同じ、ランニング風のシャツとホットパンツ並のジーンズだった。
「おはよう」
「ヨーイチ、ブレックファスト、デキテル。イコウ」
「ああ、ありがとう。行こうか」
パットの日本語は、英語まじりの単語の羅列なのだが、それだけに分かりやすい。しかも使う単語が口語体なので、ほとんど会話らしきものが成り立っている。
昨日はああいったが、専属でつけてくれるという「美女」はパットでもいいな、と洋一は思った。そうそう日本語が出来る美女がいるとは思えないし、いくら美女でも言葉が通じないのではあまり進展は期待出来ない。
だったら、少し年齢が低いとはいえ、それなりにかわいくて、しかも結構つき合いやすいパットの方がマシだ。
まあ、あのソクハキリの妹だから、間違ってもどうにかなるものではないだろうが。
パットの方は、まるでそういう洋一の思惑におかまいなく、洋一の左腕にしがみついて跳ねるように歩いていた。こうしてみると、まだまだ子供だというソクハキリの言葉に頷かされる。
洋一は、ふと思い出して訊ねてみた。
「そういえば今日からお祭りなんだろう?パットは行かないの?」
「オマツリ?フェスティバル!ソウ、カハフェスティバル、ヤル」
パットは、いたずらっぽく笑った。
何か、洋一の知らないことを知っているらしい。
だが、どうやら教えてくれるつもりはないみたいだし、そもそもパットの日本語で説明してもらっても理解できるかどうか疑問なので、洋一は質問をやめた。
食堂らしき場所は、閑散としていた。
屋敷の大きさに比例して、そのへんのレストランより広いくらいの部屋だったが、テーブルのほとんどには椅子が逆さまに乗っている。
多分、日本領事館と同じく、何か行事があるときにはここが活躍するのだろう。個人の邸宅というよりは、公的な施設といった方がいいのかもしれないが、それにしては人影が見えない。
これだけの屋敷なら、当然いるはずのメイドや執事といった者の姿は見あたらないのに、この屋敷はどこを見ても掃除が行き届いているようで、姿なきワーカーが徘徊しているのだろうか。
そんなことをぼんやり考えながら、明かりも消されていて薄暗い中を縫って窓際の席に行くと、2,3のテーブルが生きていて、ダイナミックな食事が待っていた。
「いよう。早いな」
ソクハキリが、新聞を読みながらトーストをぱくついていた。目の前には、大量のスクランブルエッグやベーコン、サラダといった食事が積み上げられている。
そばのテーブルには、食材が山盛りの皿が置いてある。どうやらバイキング形式らしい。
日本領事館でもそうだったが、どうもココ島ではアメリカン形式の食事が好まれるようだ。というより、用意するのが楽だからかもしれないが。
「よく眠れたって顔つきだな。思ったより腹が座ってるじゃないか」
「・・・そんなことはないです」
洋一は、口の中でブツブツ言いながら、しぶしぶ腰を降ろす。ソクハキリの顔を見たことで、自分が追い込まれている立場を思い出してしまったのである。
これからワケのわからない騒ぎにまきこまけるのかと思うと、いっぺん食欲が失せた。
「まだ時間はある。港に行くのは昼になってからでいい。まあのんびりしていろ」
「ヨーイチ、タベヨウ!」
パットは、洋一の隣に座るとたちまちベーコンをほうばりはじめた。細い身体のくせに、食欲は大したものだ。白色人種の血を引いているのは伊達ではないらしい。
洋一もしぶしぶ山盛りの皿からベーコンとサラダを自分の皿に取り分けた。ついでに、オレンジジュースとコーヒーも持ってくる。
ふと気がついて、パットにもオレンジジュースをついでやったが、パットは口いっぱいにほうばったまま、「サンキュ」と言っただけだった。
子供だから気が回らないというよりは、レディファーストが浸透していて、その程度は当たり前なのかもしれない。