彼の親友から「まだ別れてなかったんだ」と言われました
「え。志帆ちゃん、まだ別れてなかったんだ」
梶くんはそう言って、手にしていた買い物袋を下ろした。
日曜日の午後だった。
私は駅ビルの雑貨店で、恋人と使うマグカップを選んでいた。
圭一の部屋に置いてある私のものは、縁が欠けてしまった。今朝、それを写真で送ると、『好きなの買っといて』と返ってきた。
「別れるって、誰と?」
聞き返すと、梶くんの顔から表情がなくなった。
「……圭一」
「昨日も、一緒にご飯食べたけど」
私は棚へマグカップを戻した。
白いほうと、紺のほう。どちらを彼にしようか、さっきまで迷っていた。
「どういうこと?」
梶くんは、店の外を見た。
「ここ、出よう。ちゃんと話したほうがいい」
*
宮坂圭一と付き合って、二年と十か月になる。
私は二十八歳。圭一は三十一歳だった。
別々に暮らしているけれど、週末はどちらかの部屋で過ごすことが多かった。
先月の私の誕生日には、彼がレストランを予約してくれた。
ケーキの写真も、一緒に撮った写真も残っている。
来月には、私の両親に会う約束をしていた。
結婚の挨拶というほど、正式なものではない。
でも、そろそろ紹介したいと話したのは私で、圭一は『じゃあ、お父さんの好きなお酒、調べといて』と言った。
私だけが、交際しているつもりだったとは思えなかった。
梶くんとは、何度か三人で飲んだことがある。
圭一の高校時代からの親友で、お互いの実家にも泊まったことがあると聞いていた。
駅ビルの喫茶店に入ると、彼はスマホをテーブルに置いた。
「先に言う。俺は、別れたって聞いてた」
水の入ったグラスに、指を添えた。
「いつ?」
「二か月くらい前。三月の終わり」
今は六月の初めだった。
「何て?」
梶くんは、少し言いにくそうにした。
「結婚を急かされて、しんどくなったって。話し合って、別れたって」
私はグラスから手を離した。
三月の終わりに、結婚の話はした。
付き合って三年になるし、どう考えているか聞いた。
圭一は、今年中には考えたいと答えた。
その翌週、私たちは桜を見に行った。
「別れてないよ」
梶くんは、うなずいた。
「うん。さっき、昨日も会ったって聞いて、わかった」
彼はコーヒーを頼んだ。
私も同じものを頼んだけれど、味はほとんどわからなかった。
「それだけ?」
聞くと、梶くんの手が止まった。
「ほかにもあるんだね」
彼は、スマホを自分のほうへ引き寄せた。
「俺、圭一に女の人、紹介した」
*
名前は、早紀さんという人だった。
梶くんの趣味仲間で、年齢は私と同じ。
圭一が新しい出会いを欲しがっていると聞いて、四月半ばに四人で食事をした。
それから、二人で何度か会っているらしかった。
「俺、別れてすぐだけど大丈夫なのかって聞いたんだよ。そしたら、もう前から終わってたようなものだからって」
梶くんは、スマホの画面を見せた。
私が見てもいいか、先に確認してからだった。
『白川さんとは、ちゃんと終わったのか』
梶くんのメッセージの下に、圭一の返事があった。
『終わった。向こうも納得してる』
『もう連絡取ってないから』
日付は、四月十二日。
その日は、私が熱を出していた。
圭一は飲み物を買って、部屋へ来てくれた。
スマホには、彼からの『何か食べられそう?』が残っている。
私はその文を探し、梶くんへ見せた。
「この日も、来てくれたよ」
声に出すと、ひどく間抜けなことを言っている気がした。
別れたかどうかを、第三者に証明している。
私は恋人のつもりで、毎日を過ごしていただけなのに。
「ごめん」
梶くんが言った。
「知らなかったとはいえ、俺が紹介したから」
「梶くんは、確認してるでしょう」
画面を指した。
「嘘をついたのは、圭一だよ」
彼は、うつむいた。
早紀さんにも知らせてほしいと、私は頼んだ。
私からいきなり連絡しても、誰なのかわからない。
「付き合ってる証拠が必要なら、見せられる。私の名前も、伝えていい」
「わかった。まず、俺から話す」
私たちは連絡先を交換した。
圭一を通さずに話すのは、初めてだった。
店を出たあと、さっきの雑貨店には戻らなかった。
*
圭一に電話をすると、すぐに出た。
「カップ、買った?」
いつもの声だった。
それが、一番嫌だった。
「梶くんに会った」
少し間が空いた。
「どこで?」
「駅ビル。私たち、三月に別れたんだって?」
向こうで、何かを置く音がした。
「それ、ちょっと違う」
「どう違うの」
「電話だとわかりにくいから。今日、来られる?」
いつもなら、夕飯はどうするか聞いてから、彼の部屋へ向かった。
その日は、食事はいらないと伝えた。
*
玄関で靴を脱ぐと、圭一は手を伸ばしてきた。
私は鞄を持ち直した。
彼の手が、途中で止まった。
「座って」
「先に聞きたい。早紀さんとは、付き合ってるの?」
彼は口を結んだ。
「まだ、そういう話はしてない」
「じゃあ、何回会ったの」
「四回か、五回」
部屋には、私が先週買ってきたお菓子の袋があった。
洗面所には、私の歯ブラシもある。
別れた女性のものを片づけ忘れた部屋ではなかった。
「どうして、別れたって言ったの」
圭一は、ソファへ座った。
「梶、前から、いい子がいるって言ってたんだよ」
「私と付き合ってるのに?」
「別れたって言ったあとだよ。そういう意味じゃなくて」
彼は、額をこすった。
「最初は、勢いで。お前が結婚の話ばっかりするから、ちょっと愚痴って」
「三月に聞いた、一回だけだよね」
圭一が黙った。
「今年中にはって答えたの、圭一だよね。そのあとに、親にも会おうって」
「だから、結婚が嫌なわけじゃないって」
私が立ったままなのを見て、彼は自分も立った。
「ただ、ほかを知らないまま決めて、あとで後悔するのも嫌だったんだよ」
私は、彼の顔を見た。
「早紀さんが嫌だったら、私と結婚するつもりだった?」
「そんな言い方してないだろ」
「違うなら、違うって言って」
圭一は答えなかった。
冷蔵庫の音が聞こえた。
自分でも驚くほど、細かいものが目に入った。
テーブルに置かれたリモコン。昨日、私が畳んだタオル。
ここで何度も待っていた。
「私とは別れたことにして、別の人と会ってたんだね」
「でも、志帆のことは大事だよ」
私は首を振った。
「大事な人がいるって、紹介を断ればよかったでしょう」
彼は視線を落とした。
「今日、別れる」
顔が上がった。
「待って。そこまでの話じゃない」
「圭一が、もう別れたって言ってるんでしょう」
「それは、梶に言っただけで」
私は、持っていた合鍵をテーブルへ置いた。
「私にも言えるようになってから、次の人に会えばよかったね」
*
その日は、持ち帰れるものだけを鞄に入れた。
圭一は、横に立っていた。
「ちゃんと話そう」
「聞いたよ」
「俺、別れるつもりで会ってたんじゃない」
洗面所で歯ブラシを取る手が止まった。
それは、安心させる言葉のつもりだったのだろう。
私は、鏡越しに彼を見た。
「じゃあ、早紀さんは何のために会ってたの?」
圭一は、また黙った。
私のことは手放したくない。
でも、紹介された女性にも会いたい。
自分の口から聞くとひどくなる話を、彼は言わずに済ませようとしていた。
「服と本は、来週取りに来る。時間は連絡するから」
玄関で靴を履いた。
「来月、ご両親に会うのは」
振り返ると、圭一は真剣な顔をしていた。
「約束してたから。そこは、ちゃんと行く」
何を、ちゃんとするのだろう。
「来なくていい。私から断る」
「一回会ってもらってからでも」
「うちの親に会うのは、別れないための手続きじゃないよ」
私は扉を開けた。
彼は、外までは追ってこなかった。
*
その夜、梶くんから連絡があった。
『早紀に話した。志帆ちゃんと、直接話せるかって』
私は了承して、翌晩、電話で話した。
早紀さんは、最初に、交際が続いていると知らなかったと言った。
「昨日の夜、宮坂さんに聞いたんです。白川さんと別れてないんですかって」
私は、膝の上に手を置いた。
「何て言ってました?」
「別れ話が長引いてるだけだって。白川さんが、納得してくれなくてって」
喉の奥が、つまった。
私が合鍵を置いたあとでも、彼は私に別れる気がないことにしていた。
「昨日、私から別れると伝えました。彼に、私と別れたいと言われたことは、一度もありません」
早紀さんは黙って聞いていた。
「来月には、両親にも会う予定でした。昨日の昼まで、私たちは普通に付き合っていました」
聞かれたことに答え、必要な日付がわかる部分だけ、LINEの画像を送った。
彼が親に会う日を確認したもの。
私の誕生日の翌日に送ってきた、『来年もあそこにする?』。
早紀さんからも、二人で会った日を聞いた。
四月の土曜。私には、梶くんたちと飲むと言っていた日があった。
「私、次に会う日に返事するつもりだったんです」
彼女の声が、少し低くなった。
「付き合ってほしいって言われてたので」
まだ、そういう話はしてない。
圭一は、確かにそう言った。
「私から聞いた話、彼に伝えて構いません」
私は言った。
「早紀さんがどうするかは、早紀さんが決めてください。私は、もう戻りません」
電話を切ったあと、しばらく動けなかった。
彼が返事を待っている間に、私は父に渡すお酒を調べていた。
検索した店のページを、スマホから閉じた。
*
水曜日、圭一から電話が来た。
出なかった。
すると、メッセージが届いた。
『早紀さんに、何を言った?』
私は、その一文を眺めた。
心配していたのは、私ではなかった。
『聞かれたことに答えた。私たちが付き合っていた日付も伝えた』
少しして、返事が来た。
『そこまでしなくてもよくない?』
私は、打ち始めた文を一度消した。
長く説明したくなったけれど、もう何度も話していた。
『私が別れたくなくて困らせていると、嘘をつかれたからです』
そのあとに、服を取りに行く時間だけ送った。
*
土曜は、友人の佳澄についてきてもらった。
彼女には、梶くんと会った日から話を聞いてもらっていた。
服と本は、紙袋に入っていた。
私が確認している間、圭一は玄関のそばに立っていた。
「梶から、連絡来てる?」
私は顔を上げた。
「早紀さんに連絡をつないでもらった。あとは、特に」
圭一は、口元を押さえた。
「俺、あいつに相談できなくなった」
佳澄が、何も言わずに紙袋を開いた。
忘れ物がないか、私の代わりに中を確認してくれていた。
「早紀さんに紹介した責任があるとか言われて。紹介してくれって頼んだのは俺だけど、何も、あそこまで」
私は本の冊数を数えた。
四冊。全部あった。
「何を言われたの」
圭一は、下を向いた。
「俺を使って女の人を騙すなって」
佳澄の手が止まった。
私は、鞄に本を入れた。
「そうだね」
圭一が、こちらを見た。
「お前まで、そういう」
「そういう話だよ。梶くんが、別れてるか確認したの、見せてもらった」
彼は口を閉じた。
早紀さんからは、断りの連絡が来たと話した。
今後は二人で会わない、連絡もしないでほしいと。
梶くんには、自分が誘う集まりに圭一を呼ぶのはやめると言われたらしい。
「お前とちゃんと別れてから、紹介してもらえばよかったって言ったんだよ。そしたら、それが今言うことかって、電話切られて」
私は、ようやく彼を見た。
「私にも、それを言うんだね」
圭一の顔が変わった。
「違う。そういう意味じゃない。もう早紀さんとは会わないよ」
「断られたんでしょう」
彼は、唇を引き結んだ。
佳澄が、私へ紙袋を渡してくれた。
「揃ってる。行けるよ」
私はうなずいた。
圭一が一歩、こちらへ来た。
「志帆までいなくなったら、俺、誰に話せばいいんだよ」
足が止まった。
二年と十か月。
仕事の愚痴も、好きな映画の話も、聞いてきた。
その相手が私でなくてもよかったのかと、考えたくない夜は、これからもあると思う。
「私の話も、してたんだよね」
彼は、目を伏せた。
「結婚を急かして、別れたがらない女の話」
「それは、謝る。ちゃんと訂正もする」
「訂正はして。私に戻ってきてほしいのとは、別に」
圭一が顔を上げた。
「戻らないから」
私は、紙袋を持ち直した。
「もう、私の知らないところで、私の返事を作らないで」
その日は、最後まで自分で歩いて部屋を出た。
*
帰り道、佳澄が駅前のベンチを指した。
「座ろう。袋、指に食い込んでる」
言われて初めて、手が痛いことに気づいた。
紙袋を足元へ置くと、佳澄は自動販売機でお茶を二本買ってきた。
一口飲んで、私は泣いた。
「マグカップ、買わなくてよかった」
佳澄は、私の隣に座った。
「うん」
「二個、選んでたんだよ」
白と、紺。
彼に似合うのはどちらかと、迷っていた。
「知ってたら、一個にしたのに」
佳澄は、私の背中に手を置いた。
「今度、自分のだけ選ぼう」
うなずくと、また涙が出た。
*
翌週、梶くんから連絡が来た。
圭一から訂正があったこと。
別れたと聞かされていた共通の友人にも、実際には交際が続いていたと話させたこと。
そして、事情を知らずに早紀さんを紹介したことへの、改めての謝罪だった。
『俺にまで気を使わなくていい。返事もいらない。ただ、志帆ちゃんが別れたがらなくて揉めたなんて話は、ここではさせないから』
私は、お礼だけ返した。
圭一からの最後の連絡は、その二日後だった。
『梶とも、前みたいに戻れない。俺、全部なくしてから気づいた』
画面を見て、閉じた。
私にわかってほしいことばかり、まだ送ってくる。
荷物は戻った。
訂正されたことも、確認できた。
もう連絡を取る用事はなかった。
私は圭一をブロックした。
*
七月、佳澄に誘われて、社会人のバドミントンサークルへ行った。
中学では三年間、部活に入っていた。
久しぶりにラケットを握ると、グリップが昔より細く感じた。
「最初は、無理しないでね」
受付をしていた緒方さんが言った。
佳澄と同じ会社の人で、このサークルを教えてくれた人でもあった。
うなずいた十分後、私は空振りをした。
シャトルが、左肩に落ちた。
「今のは、ラケットが悪い気がします」
思わず言うと、緒方さんが吹き出した。
「僕の貸しましょうか」
「それでも当たらなかったら、言い訳なくなるので」
久しぶりに、息が切れるほど笑った。
次の日は、階段を下りるのがつらかった。
佳澄から『脚、生きてる?』と連絡が来た。
私は『上りはまだいける』と返した。
次の練習にも行った。
*
緒方さんの名前は、慎吾といった。
私より一つ年上で、よく笑う人だった。
試合になると少し声が大きくなり、負けると、次は勝ちたいと普通に悔しがった。
秋の練習で、二人で組んだことがある。
「今の、私です」
同じシャトルへ二人で走って、ラケットがぶつかりそうになった。
私が謝ると、慎吾さんは首を振った。
「いや、僕。取れる気がして、そっちまで行った」
「実際、取れました?」
「取れてないですね」
コートの床に落ちたシャトルを拾って、二人で笑った。
その試合は負けた。
次に組んだときは、声をかけることだけ決めた。
私が取る。お願いします。
それだけで、少しやりやすくなった。
練習の帰り、駅まで話すことが増えた。
慎吾さんは、休みの日にカレーを作ると言った。
凝ったものかと思ったら、箱の裏どおりが一番うまいと、真剣に言った。
「じゃあ、得意料理って言っていいんですか」
「まだ言ってないですよ。今、志帆さんが言った」
電車の時間を調べるのを、少し遅らせたくなった。
*
十一月の終わり、慎吾さんに食事へ誘われた。
サークルの帰りに、みんなで食べることはあった。
その日もそうだと思って、佳澄も来るか聞いた。
「今度は、二人で行きたいです」
慎吾さんは、ラケットの袋を肩に掛け直した。
「練習のついでじゃなくて、今度の休みに」
私は、彼を見た。
「それって」
「デートに、誘ってます」
言い終わってから、慎吾さんが私の顔を見た。
いつもより、口数が少なかった。
返事を待ってくれている。
私は、うなずいた。
「行きたいです」
彼が、笑った。
「よかった。今、断られたら、駅まで別の道で帰ろうかと思ってた」
「同じ電車なのに?」
「次のにします」
私も笑った。
その日は、いつもの電車に二人で乗った。
*
付き合い始めたのは、年が明けてからだった。
食事をして、映画を見て、帰りに、なぜかホームセンターへ寄った。
慎吾さんが買いたかった収納箱は売り切れていて、私は台所で使う小さなざるを買った。
こんな休日を、また過ごしたいと思った。
駅へ向かう途中、慎吾さんが立ち止まった。
「僕は、志帆さんと付き合いたいです」
ビニール袋を持ったまま、私は彼を見た。
「はい。私も」
そこまで言って、少し息を吸った。
「でも、ちょっと、慎重になってしまうことがあるかもしれません」
慎吾さんには、前の恋人とひどい別れ方をしたことだけ話していた。
詳しい説明をしようとすると、彼は、寒いねと言って自分のマフラーに触れた。
「ごめん。ここで長く話すと、二人とも冷える。もう一軒、寄りませんか」
私は、うなずいた。
駅前の店で温かいお茶を飲みながら、少しずつ話した。
慎吾さんは聞いていた。
途中で、怒った顔になった。
「……そんなこと、あるんだ」
私の代わりにうまい答えを出そうとはしなかった。
それが、話しやすかった。
店を出ると、彼が手を差し出した。
「付き合うって返事は、もらえたと思ってていい?」
私は、その手を取った。
「うん。そこは、ちゃんと」
指が触れた瞬間、彼の手が少し強く握り返してきた。
*
二月、練習のあとに、サークルの人たちと食事をした。
私と慎吾さんは、少し遅れて店へ入った。
奥の席から佳澄が手を振った。
「こっち、二人分空いてるよ」
コートを脱ごうとすると、隣のテーブルの人にラケットの袋が当たりそうになった。
慎吾さんが、先に受け取ってくれた。
「ありがとう」
座ると、向かいの人が、私たちを交互に見た。
「あれ、緒方くんたちって、もしかして?」
慎吾さんは私を見た。
私は、うなずいた。
「うん。付き合ってます」
彼が答えると、佳澄が笑った。
「やっと言った」
「佳澄、知ってたの?」
「志帆から聞いた。ずっと黙ってたよ」
みんなが笑った。
私は少し顔が熱くなって、水を飲んだ。
テーブルの下で、慎吾さんの膝が私の膝に触れた。
彼が、小さな声で聞いた。
「嫌だった?」
私は首を振った。
「嬉しかった」
彼の口元が緩んだ。
向かいの人がメニューを差し出してきて、私たちは慌てて開いた。
*
翌月、あの雑貨店で、マグカップを一つ買った。
黄色い、少し丸い形のものだった。
自分の部屋で使うために、自分で選んだ。
家に帰り、棚へ置いた写真を慎吾さんに送った。
『買いました』
少しして、返事が来た。
『あ、迷ってたやつだ。やっぱりかわいいね』
一緒に店へ寄ったとき、買おうか迷っていたのを覚えていた。
『今度、それでコーヒー飲んで』
送ってから、私は棚を見た。
来客用には、別のカップがある。
でも、これは彼にも使ってほしかった。
『いいの?』
『うん。飲みに来て』
返事を待つ間、お湯を沸かした。
まずは、自分で使おうと思った。
~完~




