冬紅葉
「燃ゆる秋草」の続編です。
一 欠けた月
永嘉十五年、晩秋。
雲峰城の奥御殿に、子どもらの声が響いていた。
「父上、見てくださりませ。鶴が描いた絵にございます」
十一になる長女の鶴姫が、墨も乾かぬ紙を掲げて駆けてくる。描かれているのは梅の木であった。枝ぶりこそ拙いが、白い花を一つひとつ丁寧に点じた跡に、娘の心根が滲んでいた。
「ほう。見事な梅だ。どこの梅を描いた」
「裏手の梅林にございます。父上が、母上と通われたという」
藤倉景時の手が、一瞬止まった。
三十三になった景時は、若き日の線の細さを残しながらも、額に刻まれた皺と眼差しの深さに、歳月の重みを宿していた。
「……そうか。よう描けておる」
景時は娘の髪をそっと撫でた。鶴姫の隣で、八つになる長男の忠丸が、木刀を振り回している。忠丸は祖父・景虎譲りの体つきで、武の才を見せ始めていた。
二人の子は、亡き妻・志乃の忘れ形見であった。
志乃が世を去って、もう七年になる。
忠丸を産み落とした後、志乃は産後の肥立ちが悪く、床に伏したまま、ついに起き上がることができなかった。秋草の咲く頃に景時のもとに嫁ぎ、二人の子を遺して、また秋草の咲く頃に逝った。
最期の朝、志乃は痩せ細った手で景時の手を握り、こう言った。
――鶴と忠丸を、どうか。そして、景時さま御自身も、お大事に。
それだけ言って、志乃は静かに目を閉じた。景時の母の形見の守り袋を、胸に抱いたままであった。あの紅葉谷の戦の前夜、梅林で志乃に握らせたものだ。
以来、景時は後添えを娶らなかった。
縁談はいくつも持ち込まれた。だが景時は、そのことごとくを断り続けた。志乃の他に妻を持つ気にはなれなかった。子らがいれば十分だと、そう己に言い聞かせて、七年を過ごしてきた。
「殿。お館様より、火急の御使いにございます」
近習の沢渡新之助が、廊下に膝をついた。新之助も四十路に近づき、鬢に白いものが見え始めている。
「兄上から?」
「は。お館様、御容態が……」
新之助の声が詰まった。景時は弾かれたように立ち上がった。
兄・景國が病に倒れたのは、半月ほど前のことであった。当初は軽い風邪と侮られていたが、病は瞬く間に景國の壮健な身体を蝕んでいった。
景時は子らに留守を言いつけ、馬を駆って兄の御殿へ向かった。
晩秋の風が冷たかった。城下の木々はすでに葉を落とし始め、欠けた月が、墨色の空に頼りなく浮かんでいた。
二 兄の遺言
父・景虎が病で世を去ったのは、三年前のことであった。
景虎は最期まで意識を保ち、嫡男・景國に家督を譲ると明言して逝った。景國は父の遺志を継ぎ、藤倉家の当主となった。
景國は良き当主であった。
紅葉谷の戦いを共にくぐり抜けて以来、兄弟の間にあった見えない壁は崩れていた。景國は武勇と統率に長け、景時は軍略と外交に秀でる。二人は互いの長所を活かし合い、藤倉家は三年の間、いかなる外敵にも侵されることなく、領内は栄えた。
その兄が、今、死の床にあった。
景時が御殿に駆けつけたとき、景國はすでに、人の顔の判別も覚束ぬほどに衰えていた。かつて巌のごとくであった身体は、骨と皮ばかりになっていた。
「兄上」
景時が枕元に膝をつくと、景國は薄く目を開けた。落ち窪んだ眼窩の奥で、しかし瞳だけは、なお鋭い光を宿していた。
「来たか……景時」
「お気を確かに。まだ、まだ早うございます」
「世辞は要らぬ。わしには、もう、自分の身体のことは分かる」
景國は乾いた唇を舐め、ゆっくりと言葉を継いだ。
「人払いを」
景時が目配せすると、侍医も近習も、静かに座を立った。広い病間に、兄弟二人だけが残された。
「景時。聞け」
景國の声は、かすれていたが、確かであった。
「わしの嫡男・千代丸は、まだ五つだ。この乱世に、五つの子に家を背負わせれば、藤倉は一年と保たぬ。重臣どもが幼君を担いで権を争い、東の宗像、西の東条が、その隙を必ず突く」
景時は黙って兄の言葉を聞いた。胸の内に、不吉な予感が広がっていた。
「家督を……お前が継げ」
予感は、的中した。
「兄上、それは――」
「最後まで聞け」
景國は、痩せた手を上げて弟を制した。
「お前なら、藤倉を保てる。武略も外交も、お前に勝る者はおらぬ。重臣どもも、お前の器量はよく知っておる。文句を申す者はおるまい」
「されど、千代丸殿が……お世継ぎは、千代丸殿でございます」
「千代丸のことは、頼む」
景國の目に、父としての苦悩が滲んだ。
「お前が当主となり、千代丸を我が子のごとく育ててくれ。そして千代丸が長じ、器量を備えたと見極めたならば……そのときは、家督を千代丸に返してやってほしい。だが、もし千代丸に器量がなければ、無理に継がせるな。それで家が滅んでは、元も子もない。すべては、お前の判断に委ねる」
それは、当主としての景國が下した、最後の、そして最も重い決断であった。私情を排し、ただ家の存続のみを考えた、苦渋の決断であった。
「兄上……」
「景時。父上が、最期に何と仰せられたか、覚えておるか」
景時は首を振った。
「『あの二人が力を合わせれば、藤倉は安泰だ』――そう仰せられた。わしとお前のことだ。父上は、わしらが背を向け合っていた頃を、ずっと案じておられた。紅葉谷で、わしらが手を取り合うのを見て、心から安堵されたのだ」
景國の目尻から、一筋の涙が伝った。
「わしは、お前を弟に持てて、幸いであった。若い頃は、お前を疎んじたこともあった。家督を争う火種になりはせぬかと、警戒もした。だが、今は分かる。お前のような弟がいてくれたからこそ、藤倉はここまで来られたのだ」
「兄上、もうお話しになりますな。お疲れになります」
「いや、言わせてくれ。もう、言える時がない」
景國は弟の手を取った。氷のように冷たい手であった。
「承知してくれるか。家督を、継ぐと」
景時は、兄の手を両手で包んだ。涙が頬を伝うのを、抑えることができなかった。
「……承知、いたしました。この景時、命に代えて藤倉の家をお守りいたします。千代丸殿のことも、我が子と思うて育てまする」
景國の顔に、安堵の笑みが浮かんだ。それは、若き日の、戦場を共にした頃の、誇り高い兄の笑みであった。
「これで……心置きなく逝ける」
それから三日の後、藤倉景國は静かに息を引き取った。享年三十八。父の後を追うように、早すぎる死であった。
景時は、兄の亡骸の前で、長いこと頭を垂れていた。
妻を喪い、父を喪い、そして今また、兄までも喪った。景時の傍らからは、愛する者が一人また一人と消えていった。残されたのは、二人の子と、幼い甥と、そして――背負うには重すぎる、藤倉一国の命運であった。
三 仇敵よりの使者
景時が藤倉家の家督を継いで、ひと月あまりが過ぎた頃であった。
思いがけぬ使者が、雲峰城を訪れた。
西の大国・東条家からの使者であった。
東条家といえば、十二年前、紅葉谷で藤倉家と血を流し合った仇敵である。あの戦い以来、両家の間には深い溝が刻まれ、幾度か小競り合いを繰り返してきた。その東条家からの使者と聞いて、城中には緊張が走った。
大広間で使者と対面した景時は、その口上に耳を疑った。
「我が主・東条信重が申しますには――両家の長きにわたる遺恨を、この辺りで水に流したく存ずる。ついては、和睦の証として、当家の姫君を、藤倉家当主・景時公の正室にお迎えいただきたい」
婚姻による和睦の申し出であった。
「……姫君とは、いかなる御方か」
景時が問うと、使者は恭しく答えた。
「楓姫さまと申されます。御歳十七。東条家分家・東条左馬助殿の御息女にて、当主・信重公が養女となされた御方にございます」
景時の眉が、わずかに動いた。
「東条左馬助……」
「は。なれど左馬助殿は、すでに故人にございます。十二年前――紅葉谷の戦にて、討死なされました」
大広間が、しんと静まり返った。
紅葉谷。
その名を聞いた瞬間、景時の脳裏に、十二年前のあの日が蘇った。山を駆け下り、東条の本陣に切り込んだあの戦い。倒した大将旗。火を放った兵糧。そして――自らの太刀で斬り伏せた、幾人もの東条の武者たち。
楓姫の父・東条左馬助も、あの戦場で命を落とした一人だという。
つまり、東条家が藤倉に差し出そうとしているのは――父を、この景時の手によって、あるいは景時の率いた軍勢によって喪った娘なのであった。
「……その姫は、承知しておるのか。父の仇とも言うべき家に、嫁ぐということを」
景時の問いに、使者はわずかに目を伏せた。
「楓姫さまは、主命に従うと申されております」
それは、是とも否とも取れる、含みのある答えであった。
景時は使者を別室に下がらせ、改めて重臣を集めた。
軍議の席で、重臣たちの意見は割れた。
「これは罠やもしれませぬ。東条めが、油断させておいて寝首を掻く魂胆では」
老臣・鶴見兵部が、警戒を露わにした。鶴見は紅葉谷の戦いにも軍師として加わった、藤倉家きっての知恵者である。
「いや、東条にも事情がござる」
別の重臣が反論した。
「近頃、東条家は北の蘆名家との争いで疲弊しておると聞き及びます。背後の藤倉と事を構える余裕はありますまい。和睦は、東条にとっても渡りに舟かと」
「されど、よりにもよって、紅葉谷で討死した左馬助殿の娘を差し出すとは……東条の真意が読めませぬ」
鶴見が、白い眉を寄せた。
議論は尽きなかった。
景時は、しばし瞑目していた。
正室を迎える――その言葉が、景時の胸に重くのしかかった。志乃が逝って七年。後添えを娶らぬと、心に決めて生きてきた。
だが今、景時は一個の男ではなかった。藤倉一国を背負う当主であった。東条家との和睦が成れば、東西から挟まれる藤倉家の憂いは大きく減じる。私情で断れる話ではなかった。
軍議の後、景時は一人、奥御殿の縁に立って、暮れゆく空を見上げた。
仇敵の家から、その家が父を喪った娘を娶る。なんという因縁であろうか。
だが景時は、決意を固めていた。
藤倉の家のため、領民のため、そして亡き兄に託された千代丸の将来のため。東条との和睦が必要ならば、己はこの縁談を受けねばならぬ。
たとえ、相手の娘が、己を父の仇として憎んでいようとも。
「志乃……許してくれ」
景時は、誰にも聞こえぬ声で、亡き妻に詫びた。
冷たい冬の風が、城の甍を撫でて吹き抜けていった。
四 氷の花嫁
楓姫が雲峰城に輿入れしたのは、年も改まった、雪深い睦月のことであった。
祝言の席で初めて見た楓姫の美しさに、景時は息を呑んだ。
傾国の美女、という言葉があるが、まさにそれであった。雪のように白い肌、墨を刷いたような濃い眉、切れ長の双眸。紅を差した唇は、冬枯れの中に咲いた一輪の寒椿のようであった。豪奢な白無垢に包まれたその姿は、この世のものとは思えぬほどに艶やかであった。
だが――その美しい瞳の奥には、氷のような冷たさが宿っていた。
三三九度の杯を交わすとき、楓姫は一度も景時と目を合わせようとはしなかった。差し出された杯を、能面のごとき無表情で口に運ぶだけであった。
その横顔を見ながら、景時は思った。
――この娘は、俺を憎んでいる。
当然のことであった。父を奪った男のもとへ、政略のために嫁いでこねばならなかったのだ。その心中を思えば、景時は胸が痛んだ。
祝言の夜、景時は楓姫の待つ閨を訪れなかった。
代わりに、文を一通、侍女に託した。
『そなたの心が定まるまで、何も急ぐつもりはない。ゆるりと休まれよ』
それだけを記した文であった。
侍女からその文を受け取った楓姫は、しばらく無言で文字を見つめていたが、やがて、ふっと冷たく笑った。
「……白々しい」
楓姫は、その文を火鉢の炭に投げ入れた。文は一瞬で炎を上げ、灰になった。
楓姫――いや、東条左馬助の娘・楓は、五歳のときに父を喪った。
紅葉谷の戦いの報せが届いた日のことを、楓は今でも鮮明に覚えている。母が泣き崩れ、家中が喪に沈んだ。父はもう二度と帰ってこないのだと、幼い楓は理解した。
優しかった父。馬に乗せてくれた父。手ずから独楽を削ってくれた父。その父を奪ったのが、藤倉家であり、藤倉景時であった。
父の死から二年後、母もまた病で世を去った。みなしごとなった楓は、本家の養女として引き取られ、東条信重のもとで育てられた。
養父・信重は楓を大切に育てたが、楓の心には、いつも冷たい炎が燻っていた。父を奪った藤倉家への、憎しみの炎であった。
その藤倉家の当主のもとへ、嫁げと命じられたとき、楓は耳を疑った。
「なぜ、わたくしが……父の仇のもとへ」
問い詰める楓に、養父・信重は苦渋の表情で答えた。
「すまぬ。これも、東条家のためだ。和睦が成らねば、東条は北と南から攻められ、滅びかねぬ。お前には、酷なことを頼む」
楓は、主命に逆らうことができなかった。だが、心の中で、ひそかに誓った。
――嫁ぐのはよい。されど、わたくしの心まで、あの男に渡しはしない。
楓は懐に、一振りの懐剣を忍ばせていた。亡き母の形見の懐剣であった。
いざとなれば。
楓は、その刃に、父の仇の血を吸わせる覚悟さえ、固めていたのである。
五 通わぬ心
輿入れから幾月が過ぎても、楓の心は氷のままであった。
景時は、約束通り、楓に何も強いなかった。閨を共にすることもなく、ただ、当主の正室として、不自由のないよう取り計らった。
景時は毎朝、楓のもとを訪れ、挨拶を交わした。だが楓は、最低限の礼を返すのみで、決して心を開かなかった。問われたことに短く答えるだけで、自ら言葉を発することはなかった。
「楓殿。何か、不自由はないか」
「ございませぬ」
「読みたい書物があれば、いつでも申されよ」
「結構にございます」
取り付く島もなかった。
景時は、焦らなかった。
七年前に喪った志乃のことを思えば、心というものが、いかに移ろいやすく、また、いかに頑ななものであるかを、景時はよく知っていた。憎しみは、一朝一夕に解けるものではない。ましてや、父を奪われた憎しみである。
景時にできることは、ただ、誠実であり続けることだけであった。
ある日のこと。
楓が奥御殿の庭を歩いていると、池のほとりで、二人の子どもが遊んでいた。鶴姫と忠丸である。
楓は、景時に二人の子があることを知っていた。だが、亡き正妻の子であるその二人を、楓はこれまで意識して避けてきた。仇の子である。関わりたくなかった。
楓が踵を返そうとしたとき、忠丸が池に身を乗り出して魚を捕ろうとし、足を滑らせた。
「あっ」
幼い身体が、冬の冷たい池に落ちかけた。
楓は、考えるより先に身体が動いていた。駆け寄って、忠丸の腕を掴み、引き戻した。二人もろとも、地面に尻餅をついた。
「忠丸! 大事ないか!」
鶴姫が泣きそうな顔で駆け寄ってきた。
忠丸は、きょとんとした顔で、自分を助けた楓を見上げた。
「……あなたが、助けてくれたの?」
楓は、はっと我に返った。自分が、仇の子を助けてしまったことに、自分でも驚いていた。
「……いえ。たまたま、近くにいただけです」
楓は冷たく言って、立ち上がろうとした。だが、忠丸は楓の袖を掴んで離さなかった。
「ありがとう。あなた、父上の新しい奥方さまでしょう。鶴が言ってた」
無邪気な声であった。楓の胸が、ちくりと痛んだ。
「忠丸、よさぬか。奥方さまにご無礼を」
鶴姫が弟をたしなめた。十一の鶴姫は、年に似合わず気立てが優しく、聡明であった。
「奥方さま。弟をお助けくださり、ありがとうございました。わたくしは鶴と申します。これは弟の忠丸にございます」
鶴姫が、丁寧に頭を下げた。その所作には、亡き母・志乃の面影があった。
楓は、何と答えてよいか分からなかった。仇の子であるはずの二人が、こうして無垢な目で自分を見上げている。その瞳に、憎しみの入り込む隙間はなかった。
「……お怪我がなくて、何よりです」
それだけ言って、楓は足早にその場を立ち去った。
なぜか、胸が騒いだ。
その夜、楓は懐剣を取り出し、じっと見つめた。
冷たい刃に、自分の顔が映っていた。憎しみに凝り固まった、強張った顔であった。
ふと、昼間の忠丸の無邪気な顔が、脳裏をよぎった。「ありがとう」と言ったあの声が、耳の奥に残っていた。
あの子に罪はない。鶴姫にも、罪はない。
では、景時には?
楓は、懐剣を鞘に納めた。
胸の中の氷が、ほんのわずか、軋んだ音を立てた気がした。
六 明かされる真実
転機が訪れたのは、初夏のことであった。
その日、景時は楓を、城の裏手の梅林へと誘った。
「楓殿。少し、付き合うてはくれぬか。見せたいものがある」
楓は訝しんだが、当主たる夫の誘いを断ることもできず、従った。
梅林は、青々と葉を茂らせていた。花の季節はとうに過ぎていたが、木漏れ日の差すその場所には、不思議な静けさが満ちていた。
梅林の一角に、古い梅の老木があった。その根方に、小さな石碑が建てられていた。
「これは……」
「亡き妻の、供養のために建てたものだ」
景時は、静かに言った。
「志乃という。この梅林で出逢い、この梅林で愛を育んだ。だが、二人目の子を産んだ後、産後の肥立ちが悪く、七年前に逝った」
楓は、石碑を見つめた。仇の妻の墓である。だが、なぜか嫌悪の念は湧かなかった。
「なぜ、わたくしにこれを?」
「そなたに、知っておいてほしかったのだ。俺もまた、愛する者を喪った人間であるということを」
景時は、梅の幹に手を当てた。
「人を喪う痛みは、よう分かる。父を喪い、妻を喪い、兄を喪った。そなたが父上を喪った痛みも……俺には、痛いほど分かるのだ」
楓の表情が、わずかに動いた。
「……白々しいことを。父を奪ったのは、あなた方ではありませぬか」
「そうだ」
景時は、否定しなかった。
「紅葉谷で、俺は東条の軍勢と戦った。多くの命を奪った。その中に、そなたの父上もおられたのだろう。それは、消せぬ事実だ。詫びて済むことではない」
楓は、唇を噛んだ。
「されど、楓殿。一つだけ、知っておいてほしいことがある」
景時は、楓の目を真っ直ぐに見た。
「俺は、戦の後、討死した東条方の武者たちを、丁重に弔った。敵将とはいえ、主君のために命を懸けて戦った武人だ。粗末には扱えなかった。東条左馬助殿の御名も、その時に知った」
楓の目が、見開かれた。
「そなたの父上は……立派な武人であられた。最後まで部下を逃がそうと、殿を務めて戦われたと聞く。我が方の兵が、その武勇を称えておった。逃げることもできたものを、最後まで己の務めを果たして散られた。あれは……武人の鑑であった」
楓の身体が、震えた。
父の最期を、楓は知らなかった。ただ、父が紅葉谷で死んだという事実だけを、憎しみと共に抱え続けてきた。だが、父が、部下を守るために、武人として誇り高く散ったのだということを――楓は、仇であるはずの景時の口から、初めて知ったのである。
「嘘……」
「嘘ではない。鶴見兵部に問えば、同じことを答えよう。あの戦を知る者は、皆、東条左馬助殿の最期を覚えておる」
楓の目から、堪えきれずに涙が溢れた。
幼い頃から、ずっと憎しみだけを糧に生きてきた。父を奪った藤倉を恨み、その当主を憎むことで、辛うじて己を保ってきた。
だが、その憎しみの根を、今、揺さぶられた。
父は、誇り高く散ったのだ。そして、その父を、仇であるはずの男が、丁重に弔い、武勇を称えてくれていたのだ。
「なぜ……なぜ、そのようなことを」
楓は、涙ながらに問うた。
「戦は、憎しみで始まる。だが、戦が終われば、残るのは、ただ死者への悼みだけだ。敵も味方もない。命を懸けて戦った者には、等しく敬意を払わねばならぬ。それが、武人の道だと、俺は思うておる」
景時の言葉は、静かだが、揺るがぬ信念に満ちていた。
楓は、その場に泣き崩れた。
長年、凍りついていた心が、音を立てて溶けていくのを、楓は感じていた。憎しみという名の鎧が剥がれ落ちた後に残ったのは、ただ、父を喪った一人の娘の、剥き出しの悲しみであった。
景時は、楓のそばに膝をつき、その肩にそっと手を置いた。
「泣くがよい。今まで、泣けなかったのであろう。憎しみで、悲しみに蓋をしてきたのであろう」
楓は、景時の言葉に、堰を切ったように泣いた。父の死を悼んで、心ゆくまで泣いた。それは、十二年の歳月をかけて、ようやく流すことのできた涙であった。
梅林に、初夏の風が吹き渡った。青葉が、さらさらと音を立てて揺れた。
七 守る者
楓の心の氷は、その日を境に、少しずつ溶け始めた。
楓は、鶴姫や忠丸と、自然に言葉を交わすようになった。鶴姫に琴を教え、忠丸に手習いを見てやった。子らもまた、楓に懐いた。亡き母の記憶の薄い忠丸は、楓を本当の母のように慕い始めた。
景時に対する態度も、変わっていった。
朝の挨拶のとき、楓は自ら言葉を添えるようになった。景時が政務に疲れた様子を見せれば、そっと茶を点てた。景時もまた、楓と過ごす時を、心待ちにするようになった。
二人は、まだ閨を共にすることはなかった。だが、二人の間には、確かな何かが、静かに育ち始めていた。
だが、その穏やかな日々を、暗い影が脅かした。
ある夜のことであった。
楓が眠れずに庭を眺めていると、奥御殿の塀を乗り越える、黒い影をいくつか見た。
賊であった。
しかも、その動きは尋常ではなかった。訓練された刺客の動きであった。
楓の脳裏に、ある疑念が閃いた。
――東条家の、刺客?
和睦は、表向きのものに過ぎなかったのか。養父・信重は、和睦を装って藤倉に楓を送り込み、隙を見て当主・景時を討たせる――そのような密命を、刺客に与えていたのか。
楓は、迷わなかった。
寝所に走り、景時を起こした。
「殿! お起きください! 刺客が!」
「何?」
景時が跳ね起きたとき、すでに刺客たちは寝所の前に迫っていた。
障子が蹴破られ、抜き身を提げた刺客が躍り込んできた。
「藤倉景時、覚悟!」
刺客が刃を振りかぶった、その刹那――
楓が、景時の前に身を投げ出した。
懐剣を抜き、刺客の刃を受け止めた。
「楓殿!」
刃と刃がぶつかり、火花が散った。か弱い女の力では、屈強な刺客の一撃を受け止めきれるものではない。楓の腕が斬られ、血が飛んだ。
だが、その一瞬の時が、景時に枕元の刀を取らせた。
景時は、太刀を抜くや、刺客を一刀のもとに斬り伏せた。十二年前、紅葉谷で見せたあの太刀筋は、衰えていなかった。
物音に駆けつけた近習たちが、残る刺客を取り押さえた。
寝所は、瞬く間に平穏を取り戻した。だが、楓は腕から血を流し、その場に崩れ落ちた。
「楓殿! しっかりいたせ!」
景時は、楓を抱き起こした。楓の白い腕が、赤く染まっていた。
「殿……ご無事で、何よりにございます」
楓は、青ざめた顔で、それでも微笑んだ。
「なぜだ。なぜ、俺をかばった。そなたは……俺を、憎んでおったのではないのか」
景時の問いに、楓は、かすかに首を振った。
「もう……憎んでは、おりませぬ」
楓の目から、涙が零れた。
「あなたが、父の最期を、誇りを持って語ってくださったとき……わたくしの心の氷は、溶けたのです。あなたは、仇などではない。誠実で、優しく、強い……わたくしの、夫でございます」
景時の胸が、熱くなった。
「もしや、この刺客は、東条が……」
楓は、苦しい息の下で言った。
「分かりませぬ。されど、もしそうであったとしても……わたくしは、もう東条の娘ではございませぬ。藤倉の妻にございます。あなたを、お守りいたします」
それは、楓の、魂からの言葉であった。父を喪った娘は、十二年の憎しみを乗り越え、今、新たに愛する者を見出したのである。
「もう、しゃべるな。今、医者を呼ぶ」
景時は、楓を強く抱きしめた。
「死ぬな。頼む。俺は、もう、誰も喪いたくない」
その声には、当主の威厳ではなく、一人の男の、切実な祈りがあった。
八 雪解け
楓の傷は、幸い、命に関わるものではなかった。
侍医の手当てを受け、楓は数日で床上げできるほどに回復した。
捕らえた刺客を詮議したところ、それは東条家の差し金ではなく、東条家中の和睦反対派が、独断で送り込んだものであることが判明した。和睦によって藤倉に屈することを潔しとせぬ一派が、当主・信重の意に背いて、景時の暗殺を企てたのである。
東条信重は、この一件を深く詫び、首謀者を厳しく処断した。そして、改めて両家の和睦を誓った。皮肉にも、この事件によって、藤倉と東条の絆は、かえって強固なものとなったのである。
楓が床上げした夜、景時は楓の部屋を訪れた。
「楓殿。傷の具合はどうだ」
「おかげさまで、もうすっかり」
楓は、微笑んだ。その笑みには、もはや一片の氷もなかった。冬を越えて咲く、寒椿のような、凛とした温かさがあった。
景時は、楓の傍らに座した。
「先夜は、そなたに命を救われた。礼を言う」
「夫を守るのは、妻の務めにございます」
楓は、当然のことのように言った。その言葉が、景時の胸に染みた。
しばしの沈黙の後、景時は懐から、一つのものを取り出した。
古びた、小さな守り袋であった。
「これは……?」
「俺の母の形見だ。亡き妻・志乃にも、これを持たせていた。志乃は、これを胸に抱いて逝った」
景時は、その守り袋を、楓の手に握らせた。
「そなたにも、持っていてほしい。俺の、大切な人に持っていてもらいたいのだ」
楓の目が、潤んだ。
「されど、これは……亡き奥方さまの」
「志乃なら、きっと許してくれる。あれは、心の優しい女子だった。俺が、新たに愛する者を見つけたことを、天で喜んでくれていよう」
「愛する……」
楓の頬が、朱に染まった。
「ああ。俺は、そなたを愛しく思うておる。最初は、ただの政略であった。仇敵の家から娶る縁談に、心など動くまいと思うておった。だが――いつの間にか、そなたのことばかり、考えるようになっていた」
景時は、楓の手を取った。先夜の傷が、まだ白い布に包まれていた。
「そなたが、子らを慈しむ姿。茶を点てるときの、静かな横顔。そして、命を懸けて俺をかばった、あの姿。そのすべてが、いとおしい」
楓は、守り袋を胸に押し当てた。
長い歳月を、憎しみと共に生きてきた。父を奪った仇のもとへ嫁ぐとき、心まで渡すまいと誓った。懐剣に、仇の血を吸わせる覚悟さえ、していた。
だが今、その懐剣で、楓は仇であったはずの男を守ったのだ。そして、その男を、心から愛している自分がいる。
人の心とは、なんと不思議なものであろうか。憎しみは溶け、その跡に、温かな情愛が満ちている。
「わたくしも……」
楓は、消え入りそうな声で言った。
「わたくしも、あなたを……お慕い申し上げております。いつからか……父の仇という思いは消え、ただ、あなたのことを想うようになっておりました」
楓の目から、涙が一筋、零れ落ちた。それは、悲しみの涙ではなく、喜びの涙であった。
景時は、そっと楓を抱き寄せた。楓は、抗うことなく、景時の胸に額を預けた。
その身体は、もう氷のように冷たくはなかった。生きた人の、温もりに満ちていた。
窓の外では、季節外れの雪が、はらはらと舞っていた。だが、それは積もることなく、地に触れるそばから、静かに溶けていった。
長い冬が、終わろうとしていた。
終章 冬を越えた紅葉
それから三年が過ぎた。
雲峰城の奥御殿には、新たな子の泣き声が響くようになった。楓が産んだ、景時との間の子であった。女の子で、紅葉と名づけられた。
「紅葉、とは。なにゆえ、その名を」
赤子を抱いた楓に、景時が問うた。
楓は、優しく微笑んで答えた。
「紅葉谷で、父は散りました。その紅葉谷で、あなたと父の縁が結ばれ、めぐりめぐって、わたくしとあなたの縁も結ばれました。この子は、その縁の証。ならば、紅葉と名づけとうございます」
景時は、深く頷いた。憎しみの始まった場所の名を、愛の結晶に冠する。それは、楓なりの、過去との和解であり、未来への祈りであった。
鶴姫は十五になり、美しい娘に成長していた。忠丸は十二になり、日々、武芸の稽古に励んでいる。亡き兄の遺児・千代丸も、九つになり、景時のもとで、賢く健やかに育っていた。
景時は、兄の遺言を守り、千代丸を我が子同様に慈しんで育てていた。やがて千代丸が長じ、当主の器量を備えたならば、家督を返すつもりであった。そのことを、楓も承知しており、千代丸を実の子のように可愛がっていた。
ある春の日。
梅林に、梅の花が咲き誇っていた。
景時と楓は、赤子の紅葉を抱いて、その花の下を歩いた。鶴姫と忠丸、千代丸も、後をついて歩いた。
「この梅林は、いつ来ても、心が安らぎます」
楓が、花を見上げて言った。
「ああ。俺にとっては、特別な場所だ。亡き妻と出逢うた場所であり……そなたの心の氷が溶けた場所でもある」
景時は、楓を見た。十二年来の憎しみを乗り越えて、今、傍らで微笑んでいる、かけがえのない伴侶を。
「楓。そなたを娶れたことを、俺は天に感謝しておる」
「わたくしこそ。あなたと出逢えたことを、亡き父に感謝しております。父が紅葉谷で散ってくれたからこそ、わたくしは、あなたに巡り会えたのですから」
それは、悲しみを乗り越えた者にしか言えぬ、深く澄んだ言葉であった。
梅の老木の根方に、志乃の供養碑が、静かに佇んでいた。楓は、その石碑の前で足を止め、手にした花を一輪、供えた。
「志乃さま。鶴姫と忠丸は、わたくしが立派に育てます。どうか、お見守りくださいませ」
楓が手を合わせると、景時もまた、亡き妻に向かって祈った。
春風が、梅の花を散らした。白い花弁が、二人の上に、そして石碑の上に、ひらひらと降り注いだ。それは、まるで、天上の志乃が、二人を祝福しているかのようであった。
遠く、城から太鼓の音が聞こえてきた。平穏な日の、正午を告げる太鼓。戦の太鼓ではない、暮らしの太鼓。
かつて景時が願ったその音が、今もこうして、変わらず鳴り続けている。
乱世は、まだ終わってはいない。明日には、また戦の影が差すかもしれない。だが、この瞬間だけは、世界は美しく、穏やかで、愛する者たちが、皆、傍にいた。
楓の腕の中で、赤子の紅葉が、小さくあくびをした。
景時は、その小さな命を、愛おしげに見つめた。そして、傍らの楓の肩を、そっと抱き寄せた。
「これからも、共に歩んでくれるか」
「はい。生涯、あなたの傍らで」
楓は、迷いなく答えた。その瞳には、もはや氷の欠片もなく、ただ、春の陽だまりのような、温かな光が満ちていた。
冬を越えた紅葉は、枯れ落ちることなく、新たな春に、青葉となって芽吹くのだ。
憎しみは溶け、悲しみは癒え、その跡に、愛が根を張る。
梅の花が舞う中、藤倉景時と楓は、いつまでも寄り添って立っていた。
その姿を、春の光が、優しく包んでいた。




