序章 明暦の大火
本作は、過去に同人誌として発表した作品を、Web向けに一部改稿のうえ再掲載したものです。
※本作は現代日本を舞台にしたローファンタジー/異能バトル作品です。
※章ごとに話数を分けて投稿しています。
炎が江戸の街を包んでいる。人々が日々を営む長屋も、店も、大名屋敷も、等しく火焔が呑みこんだ。今宵は星明かりがなくとも過ごせることだろう。
火を点けた男は、太刀を手に、その炎の熱に浮かされるように嗤った。逃げ惑う人の悲鳴は、彼を破壊者とたたえる声と同じだった。
「待て、黒鬼!!」
だが、彼にひれ伏さぬ若い侍がたった独り。蒼白く光る弓と矢をつがえ、男を狙う。
「――ほう。やはりいたか、蒼鬼の当代の主。五十年ぶりの現界、貴様に逢えて嬉しいぞ」
男――黒鬼は、金色の瞳を侍に向けた。
「斎宮と蒼鬼の名において、拙者がこれ以上、お主の好きにはさせん!! 覚悟!!」
嚆矢を放ち、次の矢を引き抜きながら侍が駆ける。黒鬼は若き好敵手を鼻で笑いながら、鈍色の太刀を閃かせた。
「なんと、情けない……」
侍は炎に照らされた自身の血だまりを見、苦笑いを浮かべた。
幕切れはあっというまだった。
黒鬼は彼の右腕を斬り落とし、弓を封じた。
侍は刀を逆手に引き抜いたものの、反撃は叶わなかった。
「こう、なると分かっておれば。さか手で刀をふるう、たんれんも、できた、ものを」
『主、もう喋るな。いずれ鉄鬼の主と黄鬼が助けに来る。気をしっかり持て』
心の中に話しかける少年の声に、若者は首を左右に振った。もはや身体中の血がすべてこぼれ、傷をふさいだところで助からない。
「そうき……すまぬ。さい、宮は、どうやら、せっしゃで、終わるようだ。先ぞ、だいだい、わが家をみまもってくれた、われらの、父。礼を、申す」
『――』
鬼はゆっくりと息を吐いた。蒼鬼は数百年にわたり、この家の者たちと共にあった。彼らの家との長い旅路が、終わろうとしている。
「このうえは。われらが、分家……はすみねを、おたのみ、もうす」
『承った。これまでご苦労であったな、主。いや、我が子の一人、譲よ』
齋宮家最後の当主は、はは、と笑った。今わのきわに、己の名に合点がいった。
家は滅んでも、己の中にいる鬼が死ぬわけではない。彼はいずれ、新たな家で主となる人間を見つける。そのために、自分はこの地位を譲るのだ、と。
そうして斎宮譲という一人の侍は、それきり動かなくなった。
未だ江戸の炎は、獲物を求めて燃えさかっていた。
◇
目を開けると、女性は見知らぬ場所にいる自分に気が付いた。
両手両足はベッドの脚と手錠でつながれており、手首と足首には、短冊に似た紙が貼りつけられている。
まったく身動きのとれない女性の周りには、複数の目。彼らは猛獣に遭遇し、どう対処するかと身がまえる目つきだった。
じりじり距離を詰める彼らに、打つ手がない。
なぜこんな目に遭っているのか。昨日の自分はなにをしたのだろう。はやる心音に急かされ、思考をめぐらしたが、女性はなに一つ思いだせなかった。
いや、昨日どころか、それより前の出来事すら。
「黒鬼の主、名前を言えますか」
若い女性の声が、取り囲む人の輪の中から聞こえた。決して大きくはない声。しかし、緊張感に満ちた場の空気が変わった。
自分の名前を訊ねられたのは、なんとなく感じとれた。そうして気付く。名前だ。名前だけは、確かに覚えている。
「くすのき……かたな」
それが、彼女の名前だった。




