表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
断罪されたので「業務改善」いたします!  作者: 九葉(くずは)
第1章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/26

第9話 氷が溶けるとき

 嵐のような騒動が去り、応接室には静寂だけが残されていた。

 窓の外では夕日が沈みかけ、空を茜色に染めている。

 テーブルの上には、王太子オスカーが食べ散らかしたタルトの皿。

 そして私の隣には、勝ち誇ったような顔で紅茶をすするエレナがいる。


「……ふぅ。一時はどうなることかと思いましたが、なんとかなりましたね」


 彼女がカップをソーサーに戻すカチャリという音が、ひどく鮮明に響いた。

 私は自分の手が、まだ微かに熱を帯びているのを感じていた。

 先ほど、彼女を背に庇い、その細い手を握りしめた感触。

 「私の妻」と宣言した瞬間の、腹の底から湧き上がるような高揚感。

 あれは演技だったはずだ。

 王太子を撃退するための、一時的な方便。

 だが、口に出した言葉は、私の理性が想定していたよりもずっと重く、そして甘美な響きを持って胸に居座っていた。


(……まずいな)


 私は拳を握りしめ、窓際へと歩み寄った。

 ガラスに映る自分の顔は、いつもの冷徹な「氷の宰相」のものではなかった。どこか熱っぽく、そして迷いを含んでいる。


 エレナは優秀だ。

 いや、優秀すぎる。

 この一ヶ月足らずで、ゴミ溜めだった屋敷を機能的なオフィスへと変貌させ、死にかけていた私とハンスの健康を取り戻し、さらには王太子の干渉さえも完璧に跳ね除けた。

 彼女のマネジメント能力、交渉術、そしてあのコーヒーを淹れる繊細な技術。

 そのどれをとっても、国の中枢――王宮でこそ発揮されるべき才能だ。


「クラウス様? どうなさいました? まだ耳が赤いですけれど」


 エレナが背後から声をかけてくる。

 その声には、親愛と、そして私の反応を楽しむような悪戯な響きが含まれていた。

 私は振り返り、彼女を直視した。

 夕日を浴びて輝く金色の髪。自信に満ちた瞳。

 こんな辺境の、書類とカビにまみれた屋敷に閉じ込めておいていい女性ではない。


「……エレナ」


 私の声は、思ったよりも低く、硬くなった。


「君との『契約』についてだが」


「はい? 給与の増額なら、来月の査定で提案するつもりでしたが」


 彼女は首を傾げる。金の話だと思っているらしい。

 私は首を横に振った。


「違う。……君の処遇についてだ。オスカー殿下の誤解は解けた。いや、正確には君の実力でねじ伏せた。これなら、私が国王陛下に奏上すれば、君への冤罪を晴らすことも可能だろう」


 エレナの表情から、笑みが消えた。

 私は言葉を続ける。自分の心臓をナイフで削るような痛みを感じながら。


「君の家名は回復される。そうすれば、王都へ戻り、もっと条件の良い……君のスキルセットに見合った場所で働くこともできるはずだ」


 言ってしまった。

 これは事実上の解雇通告であり、同時に彼女への最大の誠意だ。

 彼女は元公爵令嬢。本来なら華やかな社交界で、有能な女主人として称賛されるべき存在だ。

 私のような、仕事しか能のない不器用な男の世話係で終わっていいはずがない。


「……それは」


 エレナが立ち上がった。

 真っ直ぐな視線が私を射抜く。


「私に、ここを出て行けということですか?」


「君の未来を考えれば、それが最適解だという話だ。この屋敷は狭すぎる。君という人材には、オーバースペックだ」


 私は論理的に、客観的に告げた。

 感情を殺し、管理者としての判断を優先させる。それが私の生き方だったからだ。


 沈黙が落ちた。

 エレナは数秒間、私をじっと見つめていた。

 怒るだろうか。それとも、ようやく解放されると喜ぶだろうか。

 どちらにせよ、彼女がいなくなれば、私はまたあの冷たい泥水のようなコーヒーと、終わらない書類の山に埋もれる日々に戻るだけだ。

 耐えられるはずだ。以前はそうだったのだから。


「……非効率ですね」


 ポツリと、彼女が呟いた。


「は?」


「非効率だと言ったんです、クラウス様」


 エレナは呆れたようにため息をつき、一歩、私に近づいた。


「王都に戻ってどうしろと言うんです? また生産性のないお茶会で愛想笑いを浮かべて、無能な殿方のお飾りの妻になれと? そんなキャリアパス、お断りですわ」


「し、しかし……公爵令嬢としての名誉が……」


「名誉でご飯は食べられません。それに」


 彼女はもう一歩近づいてきた。

 私の目の前、触れれば届く距離で立ち止まる。

 彼女の手が伸びてきて、私の胸元――少し乱れていたクラバット(ネクタイ)を直した。


「私は今、この職場が気に入っているんです。裁量権があって、成果が目に見えて、何より……」


 彼女は顔を上げ、悪戯っぽく、けれどどこか真剣な瞳で私を見上げた。


「上司が、私の淹れたコーヒーを世界一美味しそうに飲んでくれる。これ以上の福利厚生はありません」


「…………」


 言葉が出なかった。

 彼女は、私のそばにいることを「最適解」だと言ってくれたのだ。

 王都の華やかな生活よりも、この薄暗い屋敷での日々を選んでくれた。


「それに、あなたも困るでしょう? 私がいないと、誰があなたの健康管理をするんです? 隠しているチョコレートの在庫管理だって、ハンスさんには荷が重いですよ」


「……うぐ」


 痛いところを突かれた。

 彼女はクスクスと笑い、私の胸をトンと軽く叩いた。


「ですから、クビにしないでくださいね、管理人さん。私はこの屋敷の『終身雇用』を狙っているんですから」


 その言葉が、私の理性の最後の防壁を粉々に砕いた。

 胸の奥で、カチリと音がした。

 それは、凍りついていた何かが溶け落ちる音であり、同時に、もう二度と解けない鎖が繋がった音でもあった。


 私は衝動のままに、彼女の手を掴んでいた。


「……クラウス様?」


 エレナが驚いて目を丸くする。

 私はその手を離さず、強く握りしめた。熱くて、小さくて、働き者の手だ。


「……撤回する」


 声が震えた。


「君を王都には帰さない。……たとえ国王陛下に命じられてもだ」


 それは、私の生涯で初めての、論理的根拠のないわがままだった。

 国益よりも、効率よりも、ただ私の感情がそう叫んでいた。


「君が必要だ。……業務上の理由だけではない。私が、君にいてほしい」


 言ってしまった。

 顔から火が出るほど熱い。きっと今の私は、「氷の宰相」など見る影もないだろう。

 だが、後悔はなかった。


 エレナは一瞬だけ驚いたように目を見開き、やがて、花が綻ぶように柔らかく微笑んだ。


「……はい。契約更新、承りました」


 彼女が握り返してくる力の強さが、何よりの答えだった。

 夕日が沈み、部屋の中が薄闇に包まれる。

 けれど、繋いだ手の温もりだけは、どんな灯りよりも暖かく、私の心を照らしていた。


 もう、迷わない。

 彼女が整えてくれたこの場所で、彼女と共に生きていく。

 それが、私にとっての唯一の正解なのだから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ