第9話 氷が溶けるとき
嵐のような騒動が去り、応接室には静寂だけが残されていた。
窓の外では夕日が沈みかけ、空を茜色に染めている。
テーブルの上には、王太子オスカーが食べ散らかしたタルトの皿。
そして私の隣には、勝ち誇ったような顔で紅茶をすするエレナがいる。
「……ふぅ。一時はどうなることかと思いましたが、なんとかなりましたね」
彼女がカップをソーサーに戻すカチャリという音が、ひどく鮮明に響いた。
私は自分の手が、まだ微かに熱を帯びているのを感じていた。
先ほど、彼女を背に庇い、その細い手を握りしめた感触。
「私の妻」と宣言した瞬間の、腹の底から湧き上がるような高揚感。
あれは演技だったはずだ。
王太子を撃退するための、一時的な方便。
だが、口に出した言葉は、私の理性が想定していたよりもずっと重く、そして甘美な響きを持って胸に居座っていた。
(……まずいな)
私は拳を握りしめ、窓際へと歩み寄った。
ガラスに映る自分の顔は、いつもの冷徹な「氷の宰相」のものではなかった。どこか熱っぽく、そして迷いを含んでいる。
エレナは優秀だ。
いや、優秀すぎる。
この一ヶ月足らずで、ゴミ溜めだった屋敷を機能的なオフィスへと変貌させ、死にかけていた私とハンスの健康を取り戻し、さらには王太子の干渉さえも完璧に跳ね除けた。
彼女のマネジメント能力、交渉術、そしてあのコーヒーを淹れる繊細な技術。
そのどれをとっても、国の中枢――王宮でこそ発揮されるべき才能だ。
「クラウス様? どうなさいました? まだ耳が赤いですけれど」
エレナが背後から声をかけてくる。
その声には、親愛と、そして私の反応を楽しむような悪戯な響きが含まれていた。
私は振り返り、彼女を直視した。
夕日を浴びて輝く金色の髪。自信に満ちた瞳。
こんな辺境の、書類とカビにまみれた屋敷に閉じ込めておいていい女性ではない。
「……エレナ」
私の声は、思ったよりも低く、硬くなった。
「君との『契約』についてだが」
「はい? 給与の増額なら、来月の査定で提案するつもりでしたが」
彼女は首を傾げる。金の話だと思っているらしい。
私は首を横に振った。
「違う。……君の処遇についてだ。オスカー殿下の誤解は解けた。いや、正確には君の実力でねじ伏せた。これなら、私が国王陛下に奏上すれば、君への冤罪を晴らすことも可能だろう」
エレナの表情から、笑みが消えた。
私は言葉を続ける。自分の心臓をナイフで削るような痛みを感じながら。
「君の家名は回復される。そうすれば、王都へ戻り、もっと条件の良い……君のスキルセットに見合った場所で働くこともできるはずだ」
言ってしまった。
これは事実上の解雇通告であり、同時に彼女への最大の誠意だ。
彼女は元公爵令嬢。本来なら華やかな社交界で、有能な女主人として称賛されるべき存在だ。
私のような、仕事しか能のない不器用な男の世話係で終わっていいはずがない。
「……それは」
エレナが立ち上がった。
真っ直ぐな視線が私を射抜く。
「私に、ここを出て行けということですか?」
「君の未来を考えれば、それが最適解だという話だ。この屋敷は狭すぎる。君という人材には、オーバースペックだ」
私は論理的に、客観的に告げた。
感情を殺し、管理者としての判断を優先させる。それが私の生き方だったからだ。
沈黙が落ちた。
エレナは数秒間、私をじっと見つめていた。
怒るだろうか。それとも、ようやく解放されると喜ぶだろうか。
どちらにせよ、彼女がいなくなれば、私はまたあの冷たい泥水のようなコーヒーと、終わらない書類の山に埋もれる日々に戻るだけだ。
耐えられるはずだ。以前はそうだったのだから。
「……非効率ですね」
ポツリと、彼女が呟いた。
「は?」
「非効率だと言ったんです、クラウス様」
エレナは呆れたようにため息をつき、一歩、私に近づいた。
「王都に戻ってどうしろと言うんです? また生産性のないお茶会で愛想笑いを浮かべて、無能な殿方のお飾りの妻になれと? そんなキャリアパス、お断りですわ」
「し、しかし……公爵令嬢としての名誉が……」
「名誉でご飯は食べられません。それに」
彼女はもう一歩近づいてきた。
私の目の前、触れれば届く距離で立ち止まる。
彼女の手が伸びてきて、私の胸元――少し乱れていたクラバット(ネクタイ)を直した。
「私は今、この職場が気に入っているんです。裁量権があって、成果が目に見えて、何より……」
彼女は顔を上げ、悪戯っぽく、けれどどこか真剣な瞳で私を見上げた。
「上司が、私の淹れたコーヒーを世界一美味しそうに飲んでくれる。これ以上の福利厚生はありません」
「…………」
言葉が出なかった。
彼女は、私のそばにいることを「最適解」だと言ってくれたのだ。
王都の華やかな生活よりも、この薄暗い屋敷での日々を選んでくれた。
「それに、あなたも困るでしょう? 私がいないと、誰があなたの健康管理をするんです? 隠しているチョコレートの在庫管理だって、ハンスさんには荷が重いですよ」
「……うぐ」
痛いところを突かれた。
彼女はクスクスと笑い、私の胸をトンと軽く叩いた。
「ですから、クビにしないでくださいね、管理人さん。私はこの屋敷の『終身雇用』を狙っているんですから」
その言葉が、私の理性の最後の防壁を粉々に砕いた。
胸の奥で、カチリと音がした。
それは、凍りついていた何かが溶け落ちる音であり、同時に、もう二度と解けない鎖が繋がった音でもあった。
私は衝動のままに、彼女の手を掴んでいた。
「……クラウス様?」
エレナが驚いて目を丸くする。
私はその手を離さず、強く握りしめた。熱くて、小さくて、働き者の手だ。
「……撤回する」
声が震えた。
「君を王都には帰さない。……たとえ国王陛下に命じられてもだ」
それは、私の生涯で初めての、論理的根拠のないわがままだった。
国益よりも、効率よりも、ただ私の感情がそう叫んでいた。
「君が必要だ。……業務上の理由だけではない。私が、君にいてほしい」
言ってしまった。
顔から火が出るほど熱い。きっと今の私は、「氷の宰相」など見る影もないだろう。
だが、後悔はなかった。
エレナは一瞬だけ驚いたように目を見開き、やがて、花が綻ぶように柔らかく微笑んだ。
「……はい。契約更新、承りました」
彼女が握り返してくる力の強さが、何よりの答えだった。
夕日が沈み、部屋の中が薄闇に包まれる。
けれど、繋いだ手の温もりだけは、どんな灯りよりも暖かく、私の心を照らしていた。
もう、迷わない。
彼女が整えてくれたこの場所で、彼女と共に生きていく。
それが、私にとっての唯一の正解なのだから。




