第8話 王子来襲と完璧な対応
クラウス様の腕に回した私の指先が、緊張でわずかに強張るのを自覚した。
隣に立つ「氷の宰相」の身体も、岩のように硬い。
けれど、その表情だけは、練習の成果もあってか、いつもの仏頂面より幾分マイルドになっている――はずだ。
「……来るぞ」
クラウス様が唇を動かさずに囁いた。
重厚な正門が開き、豪奢な王家の馬車が滑り込んでくる。
車輪が砂利を踏む音が、戦いの開始を告げるゴングのように聞こえた。
馬車が止まり、従僕が扉を開ける。
現れたのは、金髪を煌めかせた王太子オスカーだった。
整った顔立ちだが、その瞳には嗜虐的な色が浮かんでいる。彼は降り立つなり、わざとらしくハンカチで鼻を覆った。
「うっ……相変わらず空気が重いな。こんな僻地、人の住む場所ではないね」
第一声からこれだ。
私はスカートを摘み、完璧な角度でカーテシーを披露した。
「ようこそお越しくださいました、オスカー殿下。……空気の重さは、もしかすると殿下の纏う高貴なオーラが、この田舎には眩しすぎるせいかもしれませんわ」
顔を上げ、ニッコリと微笑む。
オスカー殿下が眉をひそめた。予想していた「やつれた姿」ではなく、肌艶よく微笑む私がそこにいたからだ。
「……ふん。強がりを。クラウス辺境伯、彼女の教育はどうなっている? まさか、地下牢から引きずり出して、急いで着飾らせたわけではあるまいな?」
殿下がクラウス様に矛先を向ける。
私の腰に回されたクラウス様の手が、ギュッと力を増した。
痛いほどだ。でも、それは怒りではなく、「任せろ」という合図だった。
「ご冗談を。……私の妻を、そのような場所に押し込めるはずがありません」
クラウス様が低い声で告げた。
「妻」。
その単語の響きに、私の心臓がトクンと跳ねる。台本通りなのに、彼が言うと妙に重みがある。
「妻だと? まだ正式な婚姻は……」
「事実上の、です。さあ、立ち話もなんです。中へどうぞ。とっておきの茶菓子を用意させております」
クラウス様は強引に殿下の言葉を遮り、私をエスコートして歩き出した。
殿下は不満げに鼻を鳴らし、側近たちを引き連れて後に続く。
◇
案内した応接室は、今朝ハンスさんたちが死に物狂いで磨き上げたおかげで、鏡のように輝いていた。
窓辺には、庭師が丹精込めた季節の花が飾られ、芳しい香りを放っている。
殿下はソファにふんぞり返り、品定めするように室内を見回した。
「……ほう。掃除だけは行き届いているようだな。エレナ、君に雑用をさせている証拠かな?」
「いいえ。優秀な使用人たちがおりますので。私はただ、旦那様のお仕事を少しお手伝いしているだけですわ」
私はクラウス様の隣にぴったりと寄り添い、砂糖菓子のように甘い声を出した。
背中を冷や汗が伝う。
気持ち悪いだろうか? やりすぎだろうか?
チラリと横目で見ると、クラウス様は無表情を保っているが、耳の先が赤い。
「ふん。……まあいい。どうせ食事も満足に与えられていないのだろう? 実家の公爵にも報告しておいたよ。『娘は骨と皮になって泣いている』とな」
ピクリ、と私の眉が跳ねた。
実家にまで嘘を?
両親がどれほど心配するか。退路を断ち、私を孤立させようという悪意が透けて見える。
(……この男、絶対に許さない)
私の腹の底で、コンサルタント魂ではなく、一人の女性としての怒りの火が点いた。
もう遠慮はいらない。
徹底的に、現実を見せつけてやる。
「ハンスさん、お茶を」
私が合図を送ると、控えていたハンスさんが恭しくワゴンを進めた。
銀のポットから注がれるのは、私が厳選し、絶妙な温度管理で抽出した最高級コーヒー。
そして皿に乗っているのは、今朝焼いたばかりの特製フルーツタルトだ。王都の有名店にも負けない、宝石のような輝きを放っている。
殿下は出されたカップを疑わしげに見た。
「……毒見は?」
「私が致しましょう」
私が自分のカップに口をつけ、美味しそうに溜息をついて見せる。
殿下は渋々、カップを口に運んだ。
「……っ!?」
目が見開かれる。
雑味のない、クリアで芳醇な味わい。王宮で出されるぬるいコーヒーとは次元が違うはずだ。
さらに、タルトを一口。
サクサクの生地と、濃厚なカスタード、そして新鮮な果実の酸味。
「……な、なんだこれは……」
殿下のフォークが止まる。
美味しいと言いたくない。けれど、手が止まらない。そんな葛藤が顔に出ている。
「お口に合いませんでしたか? 田舎の粗末なもので申し訳ありません」
私は殊更申し訳なさそうに首を傾げた。
「い、いや……悪くはない。だが、所詮は田舎料理だ!」
殿下は負け惜しみを言いながら、タルトを完食した。
そして、苛立ちを隠すように私を睨みつけた。
「騙されんぞ。これは演出だろう? 本当は虐げられているのに、脅されて演技をしているに違いない!」
殿下が立ち上がり、私に手を伸ばそうとした。
「さあ、正直に言え! 僕に助けを求めれば、慈悲を持って……」
その手が私に触れる直前。
ガシッ、と太い腕が殿下の手首を掴んだ。
「……私の妻に、気安く触れないでいただきたい」
凍りつくような低い声。
クラウス様だった。
彼は立ち上がり、私を背に庇うようにして殿下の前に立ちはだかった。
その瞳は、演技の時の「困惑」ではなく、本物の「殺気」を帯びていた。
「き、貴様……王太子である僕に……!」
「殿下といえど、他人の家庭に土足で踏み込み、妻を侮辱することは許されません」
クラウス様の声が、部屋の空気をビリビリと震わせる。
「彼女はここで、私と共に生きています。私が彼女を必要とし、彼女もまた……私を支えてくれている。そこに一点の曇りもありません」
その言葉には、嘘がなかった。
コーヒーの味も、整えられた部屋も、そして今、私の手を握る彼の温もりも。すべてが積み重ねてきた事実だ。
「……っ」
殿下は気圧され、よろめいた。
美しく整えられた屋敷。健康的な使用人たち。絶品の食事。そして、自分よりも遥かに背が高く、覇気を纏った男に守られる元婚約者。
「不幸なエレナ」という妄想が、音を立てて崩れ去った瞬間だった。
「……帰るぞ!」
殿下は顔を真っ赤にして叫んだ。
これ以上ここにいれば、自分の惨めさが浮き彫りになるだけだと悟ったのだろう。
彼は捨て台詞のように「覚えていろ!」と叫び、嵐のように去っていった。
◇
馬車の音が遠ざかり、静寂が戻った応接室。
私は大きく息を吐き出し、へなへなとソファに座り込んだ。
「……勝ちましたね」
心底ホッとした。これで当分、外部からの干渉はないはずだ。
実家への誤解も、この事実を手紙で伝えれば解けるだろう。
「ああ……君のおかげだ」
クラウス様が、ぎこちなく言った。
見上げると、彼はまだ立ったままで、私を庇った体勢を崩していなかった。
その耳は、先ほどよりもさらに赤くなっている。
「あの……クラウス様? もう演技は結構ですよ?」
私が言うと、彼はハッとして、慌てて私から離れた。
咳払いを一つ。
「……すまなかった。つい、熱くなって」
「いえ。助かりました。……とても、頼もしかったです」
お世辞ではなく、本心だった。
あの一瞬、彼が私を「自分のもの」として守ってくれたことが、胸の奥をじんわりと温かくしていた。
「……そうか」
彼は短く答え、窓の外を向いた。
その横顔には、敵を追い払った安堵と共に、獲物を守りきった雄のような、静かな独占欲が見え隠れしていた。
「……二度と、あんな男には会わせん」
ボソリと呟かれたその言葉は、私の耳には届かなかったことにした。
だって、それを聞いてしまったら、今度は私の顔が赤くなってしまいそうだったから。
テーブルの上には、空になったタルトの皿だけが、私たちの「完全勝利」を静かに物語っていた。




