第7話 外部からのノイズ
サクッ、という軽快な音が、平和な午後の執務室に響いた。
三週間前には考えられなかった光景だが、今やこの部屋では日常茶飯事となっている。
執務机の向こうで、クラウス様が真剣な顔で書類に目を通しながら、左手で器用にクッキーを摘んでいた。
私はその横で、空になったコーヒーカップに二杯目を注ぐ。
完璧な抽出温度。完璧なタイミング。
今日も宰相邸の業務フローは正常に回っている。
「……エレナ。この領地経営報告書の数字、おかしくないか?」
「拝見します。……ああ、これは前年度の繰越金を含めていない単純ミスですね。修正しておきます」
「助かる。……それと、クッキーの在庫が切れそうだ」
「明日の分も焼いておきます」
阿吽の呼吸。
私たちが交わす言葉は事務的だが、そこには確かな信頼関係――そして「共犯関係」があった。
彼が甘党であること、そして私が実は掃除マニアの元社畜であること。互いの秘密を知り、補完し合う関係は、控えめに言っても快適だった。
その平穏が破られたのは、扉を叩く激しいノックの音からだった。
「旦那様! エレナ様! 大変でございます!」
ハンスさんが転がり込んできた。
ここ最近、私の「業務改善」のおかげで血色が良かった彼の顔が、今日は真っ青だ。手には封蝋のされた一通の手紙が握られている。
「どうした、騒がしい」
クラウス様がクッキーを素早く引き出しに隠し(その手際は諜報員並みだった)、眉をひそめた。
ハンスさんは震える手で手紙を差し出した。
「王城より、急使でございます。……王太子殿下が、近日中に当屋敷を『視察』されると」
その言葉を聞いた瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。
王太子オスカー。
私に冤罪をかけ、婚約を破棄し、この屋敷へ追放した張本人だ。
「……何をしに来るというのだ。私は今、監査を受けるような失態はしていないはずだが」
クラウス様が不機嫌そうに手紙を開封する。
私はハンスさんに水を向けた。
「ハンスさん。手紙の内容以外に、何か情報は? 王都での動向とか」
市場への買い出し部隊を指揮するハンスさんは、今や私の重要な情報源だ。
彼は言いにくそうに視線を泳がせた。
「そ、それが……王都では今、ある噂が流れておりまして」
「噂?」
「『元公爵令嬢エレナは、氷の宰相の屋敷で地下牢に繋がれ、食事も与えられず、ボロ雑巾のように扱われている』……というものでございます」
私は思わず自分の服装を見下ろした。
清潔なドレスに、白いエプロン。肌艶もいいし、昨日の夕食はビーフシチューでお腹いっぱい食べた。
どこをどう見ればボロ雑巾なのか。
「……くだらん」
クラウス様が手紙を机に放り投げた。
「手紙にも似たようなことが書いてある。『元婚約者が不当な扱いを受けていないか、慈悲深い僕が確認しに行く』だと。……ふざけた真似を」
執務室の気温が急速に下がる。
物理的な冷却効果だ。彼の怒りが魔力となって漏れ出している。
私は冷静に分析した。
(なるほど。確認しに来るのね)
王太子はプライドが高い。自分が捨てた女が、追放先で幸せに暮らしているなんて許せないのだ。
だから、「私が不幸であること」を確認しに来る。
もし私が元気だと知れば?
難癖をつけて、さらなる嫌がらせをするか、あるいは「宰相が王命(奉仕活動)を監督していない」としてクラウス様の失点にする気だろう。
私の手が、ギュッとエプロンを握りしめた。
許せない。
私が必死に磨き上げ、整え、ようやく手に入れたこの快適な職場を。
あんな男の自己満足のために、土足で踏み荒らされてたまるものか。
「クラウス様」
私は低い声で呼びかけた。
クラウス様がハッとして、私を見る。
「この視察、断れませんよね?」
「……公式な視察名目だ。拒否すれば反逆とみなされる可能性がある」
「では、迎撃しましょう」
「迎撃?」
私はニッコリと微笑んだ。
ただし、目は笑っていなかったと思う。ハンスさんが一歩後ずさりしたのが見えたから。
「殿下が見たいのは『不幸な私』です。ならば、その逆を見せて差し上げればいいのです」
私は机に両手をつき、身を乗り出した。
「私たちが、この世の誰よりも幸せで、円満で、愛し合っている関係であることを見せつけるのです。そうすれば、殿下はぐうの音も出ずに帰るしかありません」
「……は?」
クラウス様がポカンと口を開けた。
「つまり、演技をするのです。私たちが『溺愛関係』にあるという演技を」
沈黙が落ちた。
クラウス様は数秒間フリーズした後、眼鏡を外して眉間を揉んだ。
「……無理だ」
「何がですか」
「鏡を見たことがあるか? 私は『氷の宰相』だぞ。笑えば子供が泣き、睨めば大人が気絶すると言われている。そんな私が、溺愛? 甘い演技? ……すぐにボロが出る」
確かに、彼の自己評価は正しい。
不愛想で、言葉足らずで、表情筋が死んでいる。
だが、私には勝算があった。
「大丈夫です。言葉で語る必要はありません。行動で示せばいいのです」
私は机を回り込み、彼の椅子の横に立った。
「失礼します」
断りを入れてから、私は彼の手を取り、自分の腰に回させた。
クラウス様の身体が、岩のように硬直する。
「な、なにを……っ!?」
「練習です。いいですか、殿下の前では、常にこの距離感をキープしてください。私が甲斐甲斐しく世話を焼き、あなたはそれを満更でもなさそうに受け入れる。それだけで十分『特別な関係』に見えます」
彼の手は大きくて、熱かった。
シャツ越しに伝わる体温に、心臓がトクンと跳ねる。
これは演技だ。業務の一環だ。そう言い聞かせるけれど、至近距離で見上げる彼の瞳が揺れているのを見ると、冷静でいるのが難しくなる。
「……本当に、これでいいのか?」
クラウス様の声が微かに掠れていた。
耳が赤い。
彼は視線を逸らそうとせず、困惑と、それ以外の何かを含んだ瞳で私を見下ろしている。
「……はい。私が完璧にシナリオを作ります。クラウス様は、ただ私のそばにいてくださればいいのです」
私は彼の手を握り返した。
その指先が、わずかに震えているのに気づいた。
それは恐怖によるものではないと、私の直感が告げていた。
「ハンスさん! 当日は最高の茶菓子と、屋敷中の花を用意して! この屋敷が『愛の巣』に見えるように演出するのよ!」
「は、はいっ! 承知いたしました!」
ハンスさんが敬礼して飛び出していく。
私はクラウス様の腕の中に囚われたまま、来たるべき決戦に向けて闘志を燃やしていた。
見ていなさい、元婚約者。
あなたの知っている「惨めなエレナ」はもういない。
ここには、最強の業務パートナーと手を組んだ、無敵の管理人がいるだけなのだから。




